山梨県甲府市

*参考資料 『日本城郭体系』 『戦国武田の城』

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい  馬念の山城探訪  城と古戦場  信玄を捜す旅

熊城(甲府市上積翠寺町)

*鳥瞰図の作成に際しては『戦国武田の城』を参考にした。

 熊城は要害山城の南西側下にある。比高130mほどの西側に突き出した尾根の上である。

 熊城に訪れるには、西側下の山麓から尾根伝いに上がっていくルートと、要害山城の方から尾根基部に向かって進み、尾根筋を回り込んで降っていくルートの2つがある。いずれも比較的歩きやすいルートであるが、今回は、後者の方を選択した。

 2011年3月27日、翌4月に刊行予定の『廃城をゆく2』の企画『初心者のための山城散策ガイド』の取材で、出版社の人と、躑躅ヶ崎館要害山城、熊城を訪れた。熊城はこれまで訪れたことがなかったのだが、この取材コースが要害山城から熊城をめぐるというものであったおかげで、訪れる機会を得たというわけである。

 実際に城の図を描いている場面も取材したいということであったので、いつものようにささっと30分ほどで図を描いてみた。それを基にした鳥瞰図が右のものである。

 要害山城と熊城とは共に西側に向かって突き出した山稜上に築かれている。ただ、両者が接する基部はかなり進んだ先にあり、要害山城経由で熊城まで歩くのには、けっこうな距離がある。ただし、途中まではハイキングコースとなっているので、初心者でも歩けるルートである。

 詳しい行き方については、下の写真付きの記事を参考にしてもらうとして、城の構造についてみてみよう。

 熊城は西側に延びた尾根を堀切で大胆に分断し、その間部分を削平して数段の曲輪を造成したものである。長野辺りでよく見られる構造のものであり、石垣の積み方なども含めて、天白城松尾古城矢立城などとイメージがかぶる。もっとも、似たような地形上に築かれた城が似た構造になるのは当然の帰結かもしれないのだが、石積みまで似ているのはどうしたものだろう。

 山稜上はもともと狭い尾根であったはずだが、4郭などは広く削平されており、単に物見の砦というよりは、ある程度の人数の籠城をも意識した構えである。

 最も特徴的なのは、南側の斜面に見られる畝状竪堀群である。1本1本はそれほど鋭いものではないが、10本ほどが確かに連続して並んでいる。この畝状竪堀が掘られている斜面は、傾斜もかなり急峻であり、堀底へ石を落とし込んだら、下までごろごろと転がっていくであろう。単に横移動阻止のためのものというよりも、敵を迎撃する空間としても有効なものである、といってよさそうである。

 熊城は要害山城に比べれば、全体の規模は見劣りするが、堀切の規模や鋭さなどは、要害山城に勝るともおとらない見事なものである。特に要害山城にも見られない畝状竪堀が存在する点は、克目に値すべき部分であろう。




 熊城を訪れて戸惑ってしまうのは、山麓近くにある石垣と平場とを見た際である。段々の平場は確かに曲輪のように見えなくはないし、石積みは城塁を構成するかのように積まれている。これらは一見すると城郭遺構としてみてよさそうなものに見える。

 ただし、この地域には城とは関係のない石垣があちこちに積まれており、畑を造るにも家を建てるにも、石を積むのはごく自然な状況である。実際、この近くにも畑造成の際に詰まれたと思われる石積みが多数見受けられる。

 となると、これも畑の跡と見るべきであろうか。確かに石積みはけっこう新しいもののように見られる。日本各地には戦後の食糧難の際に造成された畑の跡が無数にあり、それがけっこうとんでもない所にあったりする。下仁田の根小屋城安房鴨川の江見根古屋城などはその最たるものである。常識的に見て耕作地に適さないような場所でさえ、食糧難の時代には、貴重な畑となっていたのである。
 
 とはいえ、こんなに石がごろごろしている場所では、さすがに作物が育つのは難しいはずである。

 あるいは、石材を掘り出した跡ででもあろうか。Bを経由して上がる道は、これまたかなり新しく思われるもので、石を運び出すためのものであったのかもしれない。

 それでも、Aの擂り鉢状に窪んだ区画は、一見して大きな桝形に見えてしまう部分である。周囲を石垣で固め、入口と出口には虎口が設けられている。Bのルートが近代の造作と見るのがよさそうであり、本来のルートが1からAの桝形内部を通って2へ抜けるものだったとすると、これはまさに城郭構造物にふさわしいものであるということになる。しかも1の虎口の脇には石積みが見られるのである。この石積みは要害山城のあちこちの虎口脇に見られるものとほとんど変わりがないものである。

 しかし、そう見えるのも、主観的な見方に過ぎないのかもしれない。Aがそもそも石材を産出するために、地面を深く掘っていった跡で、虎口に見える部分から石材を運び出していた、というように考えてもまったく矛盾はおきない。だとしたら、やはりこれは城とはまったく関係のないものということになってしまう。第一、この山麓部分は山上の城部分とは隔絶しており、非常に連携が悪い。城郭として一体化したものと見るのは難しいというべきであろうか。

 結局、山麓部分は城郭遺構であると確信を持てるものではない。構造に着目した上で城郭遺構のように見られる部分が含まれているというのは事実であるが、それをもって確証を伴うほどのものではない。

 といったわけで、上の鳥瞰図は城の図というよりは、参考程度のもの(城郭類似遺構)というように見ていただいた方がよさそうである。





要害山城から尾根伝いにハイキングコースを東側の尾根基部に向かってどんどん歩いていく。尾根道で整備されているので、とても歩きやすい。アップダウンも少ない。 15分ほど歩くと、ハイキングコースの分岐点に出る。案内がはがれて落ちてしまっているが、ここで右手の深草観音方向に曲がっていく。
さらに10分ほど、斜面沿いに付けられた道を進んでいく。 すると写真のすいがら入れのある場所に出る。ここからハイキングコースを離れて、右手の尾根を降っていく。ここからはただの尾根である。
何度かアップダウンがあるが、熊城に行くにはひたすら尾根を降っていけばよい。途中一箇所、迷う可能性のある場所が写真の岩があるピークである。しかし、ここも斜め右手の方に降っていけば間違えることはないだろう。 するといきなり大堀切が見えてきた。深さ7mほどはあろうかという鋭い堀切である。両端は竪堀となって深く落ちている。
堀切の壁面を降っていく一行。こういう場所に来るのは初めてということであったが、みんな果敢に降りてくる。 堀切を越えて10の郭に進むと、その先にもさらに堀切がある。二重堀切に近い構造である。この堀切は深さ10m近くもあり、両端の竪堀の規模も半端じゃない!
この2つの堀切を越えると1郭である。1郭の周囲には土塁が積まれ、西側の切岸には石垣が積まれていた。 2郭下の東南下側面に回りこんでみると、そこにも石垣があった。山中で石材が豊富に産出されたこともあってか、あちこちに石垣が見られる。
2郭と、3郭側の土塁との間にある堀切状の部分。3郭の下が、城内で最も広い4郭である。 4郭から南側斜面を降って、畝状竪堀を描きに降りていった。確かに竪堀が何本も見られる。写真の竪堀は壁面に石積み状のものが見られた。といっても自然のものの可能性も否めない。
畝状竪堀の別の部分。写真だと分かりにくいが、両端にも竪堀があって、確かに畝状になっている。ただし、それぞれの竪堀はそれほど深いものではなく、現状の深さはせいぜい1m程度のものである。 再び、4郭に戻って段々の郭を描いていく。斜面を削平して造成された小郭が何段にも連なり、壁面には石積みも見られる。写真はその先の9郭殿間の堀切。
9郭の堀切を降りていく一行。かなり滑りやすいので、なかなか大変だ。 9郭の先にある大堀切。城域を区画する最大の堀切で深さも10m以上、側面部の竪堀も半端じゃなく大きなものとなっている。
そこから後は尾根を降っていくだけなのだが、山麓近くになってくると、突然、数段の平場と石垣とが見えてきた。これは城の遺構なのだろうか。 ちょっと積み方が新しい気もするが、石垣によって平場を補強しているのは間違いない。近代の畑の跡か、あるいは石を採掘した跡なのだろうか。
しかし、どうみても城郭遺構らしく見える部分もある。Aの桝形状に大きく窪んだ部分である。この内部を通すルートが本来の道であったとすると、城郭遺構と見てもまったく矛盾はない。写真は2の虎口。 こちらは1の虎口。虎口脇の土手の腰部分にはしっかりと石積みが見られた。
Aの桝形周囲の土手にもびっしりと石積みのようなものが見られるのだが、自然の造形部分もかなりありそうである。 北側の上からAの枡形状部分を見たところ。城郭遺構としたら、かなり大規模なものである。
 熊城の歴史についてははっきりしていないが、要害山城の南側の出城として機能していたものであることは間違いないと思われる。ただ、要害山城には見られなかった畝状竪堀があるなど、築城ポリシーはかならずしも同一のものであるとは言いがたい。




湯村山城(甲府市湯村町)

*鳥瞰図の作成に際しては『戦国武田の城』を参考にした。

 湯村山城は、緑ヶ丘スポーツ公園の西側にそびえる比高140mの山稜部分に築かれていた。

 城に訪れるには、スポーツ公園から遊歩道を通って(といっても舗装された車道であるが)延々歩いて登るのが一般的なコースであるが、南側の住宅地を抜ければ、城址まで比高70mほどのところまで車で行くことが可能である。所要時間もわずか15分ほど。というわけで、今回は南側の住宅地を通っていくことにした。

 この山の南側の斜面にはかつて住宅地を造成しようとしていたようだ。ところが、急斜面上の宅地ではそれほど売れなかったのであろう。造成はされたが、現在もほとんど住宅は建っていない。甲府市街を一望できる場所で、景色はいいのだが、やはり山上なので住むには少々不便なのだと思う。山の中には店が一しか軒ないし(食堂は一軒あったのみ)、子供が小学校に通うにも、この山道を毎日昇り降りしなければならなくなってしまう。

 この造成地を一番突き当たりまで進んだところに車を停められるスペースがある。この脇から山に入ると山頂に向けて山道が続いている。これも本来の登城道の1つだったものと思われる。

 道を進んでいくと鉄塔があり、その先にスポーツ公園から続いている山道下のコンクリート壁面が見えてくる。山道はその先の岩がゴロゴロしている地帯を抜けて1郭へと続いていくのだが、城を北側から見て回るには、ここで、スポーツ公園からの道にアクセスするのがよい。

 先の山道をまっすぐ登っていく道は途中から岩だらけでコースが非常に分かりにくくなる。しかし、注意してみると、ところどころ岩に金色のペンキが塗られている。これを目標にして進んでいけば、やがて1郭の下に出ることになる。

 しかし、登る際にはこのペンキのルートに気がつかず、道が分からなくなってしまった。岩場の道とはいっても晴れていればまったく問題のないルートだったのだが、雨で傘を差していたということもあり、スポーツ公園からの道と合流する辺りで、そちらの道に合流して歩いていくことにした。この道はカーブしていったん尾根基部の方に大きく回りこんでから、尾根伝いに城址方向に向かうことになっている。大回りしていることもあって傾斜は緩やかであるが、歩く距離はけっこうなものになる。

 山の付け根の部分でUターンしてみると、そこに模擬狼煙台が建てられていた。似たようなものは若神子城にもあったが、甲斐国の城址にはこういったものを建てるのが一種のスタンダードとなっているのであろうか。

 ここから尾根を進んでいくと、やがて緩やかな傾斜地形となっていき、その先に城塁がそびえているのが見えてくる。城塁の手前には堀切もある。

 城址のある峰部分の上は意外に広く、ここに堀切や土塁などの区画を設けて、複数の郭を展開させている。このうち『戦国の武田の城』では、Bの枡形の北側部分一帯を2郭としている。ところが、その部分、多数の岩がごろごろとしており、まったく建物が建てられるような状況ではない。確かに郭ではあるのだろうか、居住性がまったくない部分である。しかし、ここになぜかBの枡形が形成されている。

 Bの枡形のある堀から土橋を抜けてAの虎口に進入すると、そこは堀内部のような場所になっている。土塁がコの字型になっており、防御機能から考えると、二重堀といっていいかもしれない。

 そこから南側の段々の平場が城の主体となる部分である。区画にしたがって1,2,3と番号を振ってみたが、南北に延びる土塁による区画をメインに考えれば、1郭と2郭の2つが並列する形態、というように言った方がふさわしいのかもしれない。

 中でも2の部分が最もj広く、まとまった居住空間が存在している。といっても、城内のどこにしても岩が転がっていることには変わりがなく、なんとも住み辛い城である。2郭には石積みの井戸が存在している。また、土塁をはさんで東側の空間には現在東屋が建てられている。先に述べた、下から岩場を通って歩いて登ってくる道は、この東屋の脇当たりに出るようになっている。この虎口を降り始めるとすぐに石垣も見えてくるのだが、これが本来のものであるかどうかは分からない、

 1郭の西側下には横堀が掘られ、しっかりとした防御構造を成している。また南側には4の腰曲輪がある。4はそこそこの面積もあり、建造物などを建てるスペースも有する平場となっている。

南側から見た湯村山城。比高120mほどだが、ずいぶん高そうに見える。しかし中腹まで車で行くことができる。 途中、岩がごろごろと転がっている道を抜けていく。
遊歩道の途中にあった模擬狼煙台。 城址に近づいていくと、最初の堀切が見えてくる。
Bの枡形周辺。岩がごろごろしており、居住性は悪い。こんな状態では建物一軒建てられないであろう。 Aの堀の上の土塁。
3郭の内部。下には横堀がある。 4の腰曲輪。
2の内部にある石垣組みの井戸跡。 1郭から下に降りて行く道の途中にはこのような石垣が見られるが、遺構かどうかは不明。
 湯村山城は、躑躅ヶ崎館のある谷戸部の西方に派生する尾根の先端部に築かれている。その位置からして、躑躅ヶ崎館を守るための出城であったことは容易に想像できる。

 『高白斎記』大永3年(1523)4月24日に「湯の山の城の御普請初まる。5月小13日、水神の祠、城に立つ」とある。湯村山城が、大永3年の4月24日から築き始められ、約1ヵ月後の5月13日に城内に水神の祠が建てられていたことが分かる。

 その後も、北側から甲府への入り口を守備する武田氏の枢要な城として機能していたと思われる。


































大竹屋旅館