真篠(まじの)城(山梨県南部町福士字真篠)

*参考資料 『日本城郭体系』

*鳥瞰図の作成に際しては、『戦国武田の城』の図を参考にした。この本、絶版になっているのだが、どこかで手に入らないだろうか。

 真篠城の読み方を「ましの城」としている本などもあるが、現地の方は「まじの城」とおっしゃっていたので、ここでは「まじの城」として紹介することにする。

 07年12月15日(土)、今年のヤブレンジャー山城の日はこの地域の訪城ということになり、この城に訪れることになった。

 国道52号線沿いにある、道の駅「とみざわ」の北側正面に見える比高50mほどの、富士川に臨む山が真篠城の跡である。城址に行くためには富士川に架かる橋の信号のところから山に入り込むような道をどんどん進んでいく。道には途中に分岐点があるが、とにかく山の方へと進んでいく。この道は細いがこうしてとにかくずっと進んでいくと、やがて城の案内板が見えてくる。その時正面に見えている山が城址である。ここからの比高は30mほどである。途中の道が細いので車を留めることができないが、案内板の200mほど手前に三叉路があり、ここならば駐車が可能である。われわれも、そこで畑作業をしているおばちゃんたちに断って車をそこに停めさせてもらった。

 案内板のあるところからも入れるのだが、道が途中で途絶えてしまっているとのことであった。それよりも、案内板よりも手前100mくらいのところから山の方に向かう道に入り、竹林の脇辺りから山中に進入すると、やがてすぐに遺構が見えてくる。このルートの方が分かりやすいようである。この図の下の部分から進入するルートである。そうして進んでいくと、郭の城塁に垂直に土橋が取り付けられているのが見えてくる。土橋を渡って上の郭に上がるようになっているのである。

 1郭は長軸40mほどの規模となっている。特徴的なのは、出枡形と思われる構造を2ヶ所(A,B)に持っているということである。規模はいずれも一辺が10m未満であるが、虎口防衛のためのものであることは明らかである。また、東側の虎口Cには石がいくつか転がっていた。門に関係する石積み遺構が存在していたのかもしれない。

 1郭の下に2郭があるが、この間には高さ7mほどの鋭い切岸がある。1郭の斜面上に土橋を取り付けており、これが進入ルートであったろう。2郭の周囲も鋭い切岸によって囲まれ、その下が3郭となっている。

 3郭から2郭へのルートは城塁の西側の端に作られており、道の脇には石垣も見られる。登り口の脇には竪堀も掘られ、入口を狭めている。城塁が鋭いため道幅も狭く、一列縦隊でゆっくり歩くしかできない道となっている。そのためここを城塁上から迎撃されたらどうにもならないといった雰囲気がある。

 そこから南側に進んでいくと鞍部となり、その先が段々になって高くなっている。そのさらに先の方に、この城で最も特徴的な遺構が存在している。この部分の頂上部から南側の斜面にかけて連続畝堀のような構造が見られるのである。畝状阻塁とでもいうべきものであろうか。

 畝によって形成された堀の数は6本。さらに東側に短い堀が3本ほどある。この畝状阻塁のある位置は、平地でもなく、斜面でもなく、地勢が緩やかに降りになりつつある場所である。これが防御的にどういう意味を持っているのか不明だが、東側方向からの侵入を、堀を連ねることによって阻もうとしていたのであろうか。

 1郭の北側下には規模の大きい腰曲輪4がある。腰曲輪は北に向かって傾斜した地形になっているが、下の郭との区画を明確にするためにさらに2段ほどの小郭を置いて分断を図っている。その先のまとまった広さの郭が5郭である。この郭の周囲も切岸整形されているのだが、印象的なのはこの郭の先に堀と土橋によって接続された三角形状の郭が置かれていることである。その形状からこの郭は馬出しのように見える。ただし、この「馬出し」の先の部分に堀切などの明瞭な区画が見られず、尾根が降っていく自然地形のままになっていることから考えると、馬出しというよりはむしろ、城内の最外郭部の区画であり、城内に進入しようとたむろしている敵を迎撃するための空間といった捉え方をした方が正しいかもしれない。

 1郭から東側にかけては、先に進入してきた土橋の脇に腰曲輪が配置されている。腰曲輪状の地形はその先にもさらに数段認められなくもないが、区画はそれほど明瞭ではなく、この腰曲輪辺りからが実質的な城域内部と見るのがよい。

 また、この腰曲輪の北辺あたりからかなり大規模な竪堀Dが掘られている。城内髄一といっていい規模のもので、敵の横移動はこれによってかなり困難となっている。

 城の概要はこんなところである。1つ1つの郭はそれほど大規模ではないが、郭の数はそれ相応にあるので、ある程度の兵力の駐屯は可能な城である。枡形や畝状阻塁のような特徴的な構造、鋭い切岸などからみて、単なる豪族の居城というよりは、軍事的緊張感が高まった中で築城された、あるいは改修された戦闘用の城だったのではないかと想像される。今川領国に侵入を企てた武田の橋頭堡とも言うべき城だったのではないだろうか。

案内板手前の三叉路のあたりから見た城址。中央奥が1郭。左側の尾根に畝状阻塁がある。 城塁に垂直に取り付けられた土橋を渡るレンジャー隊。こうした土橋による登城路がこの城の特徴の1つである。
Aの枡形脇の土塁。1郭には2つの枡形が用意されている。 1郭内部から見た土塁。土塁の高さは郭内から1,6mほどである。
1郭から2郭に接続している土橋。 5郭の様子。けっこう藪化しており、形状を把握しにくい。
5郭の先にある馬出し状の小郭。手前に土橋とその両脇に堀切がある。 1郭のCの虎口内部にある石列。城門に関連する遺構なのであろうか。
2郭内部にはこのような低い石積みが見られた。遺構なのかどうか・・・・。 2郭下の城塁にある石垣。登城路に沿って積まれている。
3郭から見た2郭の城塁。左側下辺りの部分が石垣構造となっている部分である。 南側の尾根にある畝状阻塁。何本も並んでいる様子は圧巻なのだが、写真ではうまく写せない。
畝状阻塁が並んでいる様子。小さいものもあわせると9本ほどある。 城の北西側下にあるDの竪堀を横から見たところ。自然地形を利用しているのか、かなり大きな竪堀となっている。
 城の歴史については分からないことが多いが、『南巨摩郡誌』には「武田信玄の時代の烽火場で、原大隅守が警護し、其の後、真篠勇太夫が居跡である」とあるという。烽火台というには規模が大きすぎるが、要するに武田氏がこの地域の拠点的城郭として築き、烽火も挙げた、といったように理解すればよいのかもしれない。

 城の歴史について語っているものはこれだけで、史料等には出てこない城である。

 国道52号線は現在でも甲斐と駿河を結ぶ主要なルートであり、駿河進出をもくろむ武田信玄にとって、掌握すべきルートであった。この街道を押さえるために築いた城が、この真篠城であったのだと思われる。ということは永禄12年前後の武田氏の築城形態を示す城として、格好のサンプルといえるかもしれない。





































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