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「ジェンダーフリー」に対する保守・反動派の介入と
「男女共同参画」並びに
教育基本法改悪についての一考察

 先頃、中央教育審議会が教育基本法の「改正」(改悪)について、答申を発表しました。またこうした動きに先立って、教育現場では教育基本法の改悪にともなう、様々な動きが具体化しているということです。その現れの一例として、咋年、国立の「ジェンダーフリー(性差からの解放)」という教育実践に対して、保守・反動派からバッシングが行われました。「日の丸・君が代」の強制の次は、「シェンダーフリー」がターゲットになってきているかのような印象をうけます。私は中央教育審議会の答申に、なにげなく目を通していたのですが、この「ジェンダーフリー」との関係で少し気になる内容がありましたので、教育基本法の改悪と「ジェンダーフリー」に対する関係を、あくまで個人的な立場で考察してみたいと思います。とは言いましても、生来のなまけ者であり、一知半解がとくい技ですので、至らない点が多々あるかとも思いますが、あくまでも個人的な「一考察」として、ご容赦ください。

 確か昨年のことだと思いますが、国立の小学校で性教育の一環としてインターセックス(両性具有)のことを教えた授業が、商業新聞に取り上げられ、「国立の過激すぎる性教育」として報道されました。こうした動きは拡大して、以降、保守系メディアで「教育現場で進行する過激な性教育の中身」みたいな内容として、国立での事例が引き合いにだされています。
 これら「報道」の中身をみると、政治的意図としては国立の教職員組合をターゲットとしながら、同時に「ジェンダーフリー(性差からの解放)」という考えにもとずく、教育実践にたいするバッシングであるようにおもえます。
 つまり「男らしさ、女らしさ」という概念を、生物学的に決定論としてとらえるのではなく、むしろ歴史的・社会的な関係性のなかでとらえていくなかで、性別的役割分担を無くして行こうという考えを否定することが目的の一つではないかと思います。
 同時にそれはまた、これまでの旧来的価値観としての「男は男、女は女」とする立場を守ろうとする運動であり、男性の「既得権」をかたくなに守ろうとする立場であると思われます。

 また、同じく昨年段階で、周辺事態法の制定とともに、「男女共同参画基本法」なる法案が制定されています。
 この「男女共同参画基本法」というのは国連の「女性差別撤廃条約」の中身の具体化として、制定された法律です。
 これには、「男女の人権の尊重・政策等の立案及び決定への共同参画・社会の対等な構成員・相互の協力」として、一見なかなか「進歩的」な内容が提言されているかのように見受けられます。
 しかし、注意しなければならないのは、国連段階ではあくまでも「女性差別撤廃」という主旨でしたが、ここでは「男女が協力して社会に参画する」という主旨に変わっているということです。
 そして当初、名称について「男女平等基本法」という案が浮上していたそうですが、最終的に「男女参画基本法」になったということです。
 さらに内容としても、「社会における制度又は慣行について配慮」しつつ、家庭と仕事の両立だとか個人としての能力の発揮が謳われています。これを逆に言えば、日本社会における男女関係の「制度または慣行について配慮」することで、根本的な所はあまり変えないということでもあります。
 あくまでも個人的な見解ですが、私はこの「男女共同参画基本法」、そして理念としての「男女共同参画」というものは、要するに男性・女性の性差を「個性」「能力」として表現し、この性差を積極的に固定しているのではないかと思えてなりません。「男は男らしく、女は女らしく」という価値観を前提とした「平等」という印象を受けます。「男女平等基本法」という名称が、「男女共同参画基本法」という名称に変わっていったというところが、この法案の中身を象徴しているかと思います。
 つまり「男女共同参画基本法」とは、性差別を根本的になくしていこうというベクトルではなく、むしろ、その内実は「男は男としての、女は女として『個性』を発揮して日本社会に貢献していきなさい。そのうえでの平等」というものになっているのではないかと、思えるのです。
 事実、一部の地方自治体の「男女共同参画条例」では、文言として「男は男らしく、女は女らしく」と表現されているそうです。これは「男女共同参画」という考えにのっとった、ある意味、正直な表現ではないかと思います。
 要するに、「男女共同参画」というものは、あくまでも男性社会を前提にしつつ、女性の社会参加を「容認」する中身ではなのではないか、またそれは男性・女性の性別的役割分担を「個性」として積極的に肯定するものではないかと思うわけです。
 つまり、「女性差別撤廃」という考えとは似て非なるものであり、思想的には「ジェンダーフリー」ないしは「女性解放」とまったく対立するのではないかと思えます。

 そして実はこの「男女共同参画」という用語は、さきに中央教育審議会が出した教育基本法の改悪のための答申にも活用されています。
 答申の第2章「新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について」の2「具体的な改正の方向」のなかに、(男女共同参画社会への寄与)という項目が設けられています。
 「憲法に定める男女平等に関し、現行法は、『男女共学』の規定において男女が互いに敬重し協力し合わなけれぱならないことを定めている。しかし、社会における男女共同参画は、まだ十分に実現しておらず、男女が互いにその人権を尊重しつつ責任も分かち合い、その個性と能力を十分に発揮することができる男女共同参画社会を実現するためには、このような現行法の理念は今日においてより重要である。
 なお、現在では男女共学の趣旨が広く浸透するとともに、性別による制度的な教育機会の差異もなくなっており、『男女の共学は認められなけれぱならない』旨の規定は削除することが適当であるる。」
 一見すると特に問題のあることをいっているようにも見えませんが、前記した「男女平等」が「男女共同参画」になったというエピソードを思い出してください。
 注意深く読んでいくと、ここでも「男女平等」がいつのまにやら「男女共同参画」に変わっていることがお解りになるかと思います。
 つまり教育基本法の改悪に関して、中央教育審議会は「男女平等」という現行教育基本法の理念をひきつぐ用語として、「男女共同参画」という用語に意図的にすり替えているのであり、「個性と能力を十分に発揮することができる男女共同参画社会の実現」というのは、正確な意味としては、「男女共同参画基本法社会(理念)の実現」ということを表現していると思えます。
 ちなみに最後の「『男女の共学は認められなければならない』旨の規定は削除」という文句も、なにやら意味深長な文言でもあります。

 国立の「ジェンダーフリー」に対する、保守・反動派の介入は、ある意味、教育基本法の改悪の先取りを行っているとも言えます。
 もちろん、これらの動きが中央教育審議会や文部科学省、またはなんらかの公権力と明確に「意思統一」して動いているとは思えません。
 むしろ、「男女共同参画」と「ジェンダーフリー」にたいする介入は、互いに「天皇制家族イデオロギー」を根拠にしたの二つの現象だと思います。
 私は学問的概念としての、「天皇制家族イデオロギー」はよくわかりません。しかし昨今の(というか戦後一貫して)天皇家のイメージは、「優しい父親と母親に守られた幸福な家庭」というものであり、その中身は、家父長制度を基軸にした「万世一系」の血筋の維持であり、女性の最大の役目は家長の子供、しかも男子を出産することになると思います。
 こうした価値観からすれば、子供を生まない性の存在を肯定するがごときの思想は決して容認できないわけであり、しかもそれこそ生物学的決定論として男性・女性を線引きする必要があるのではないかと思われます。
 つまり国立の「ジェンダーフリー」に対する様々な介入や攻撃は、「天皇制家族イデオロギー」を思想的・感性的根拠にし、同時にそれが「男女共同参画」という教育基本法の改悪内容の先取りとして機能しているのではないかと思います。
 かように考えれば、「日の丸・君が代」の強制と「ジェンダー」に対する攻撃は内容的に同一かつ連続しており、これまで「日の丸・君が代」のない国立の教育を目の敵にしていた人々と当然、重なってくるのではないでしょうか。
 教育基本法の改悪以降は、「インターセックス」や子を生まない性愛である同性愛も、その存在を否定することになると思われます。
 これは、かつてナチス・ドイツにおいて、そしてソ連スターリン主義体制下にあって、同性愛が犯罪となっていった状況と同様であり、歴史はこうした体制を「ファシズム」もしくは「全体主義」と呼んでいます。

 

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