ルワンダ・虐殺の野で

nyamata charch, rwanda

 その教会は、バナナ畑を抜けた、その向こうにあった。
 首都キガリを抜けると、舗装路は途切れ、土色のデコボコ道が続いた。豊かに生い茂ったバナナの葉が、クワなどを担いでのんびりと畑に向かう農民に影を落とした。
 イヴォが、運転手と取り止めもない話しをしていた。フランス語の会話だったが、所々に理解できる単語があり、給料や生活のことを聞いているらしいと知れた。悪路に時折激しくバウンドしたが、カーステレオから、アメリカの黒人歌手の甘いバラードが鳴っていた・・・
 内戦終結から約6年。キガリだけを見ていると、人々は徐々に日常生活に戻っているように見えた。フランス語を話す女性の経営するホテルは清潔で、食事もおいしく、数年前まで内戦をしていた国であることは、想像もつかなかった。

 そして、こうして郊外に出ても、ただのんびりとした光景が広がるだけで、数十万人が犠牲となり、200万人以上の難民が発生した内戦の、たった数年後だとは、とても思えるはずもなかった。内戦からずっと時間が経ったはずの隣国、ウガンダと、さして変わりない風景に見えた。
 イヴォはしきりに運転手のフランス語に相槌を打っていた。初めてウガンダのカバレで会ったとき、彼にフランス語をまるで解さないことを告げると、「僕もそうさ。」と言って笑ったのが謙遜だと分かった。彼はオランダ人で、学校でフランス語を4年習ったという。日本人の英語学習の場合、もっと時間を費やすのに、まるで下手なわけであり、てっきり同じくらいだと早合点をしてしまったらしい。
 温厚そうなルワンダ人の運転するタクシーは小さな町に入っていった。ごく普通の、何の変哲もない小さな町の一角で、我々は車を降りた。
 その教会は、ここにあった。
 キリスト教国ならどこにでもあるような、煉瓦造りの教会。敷地を鉄のフェンスが囲み、施設と外の領域を区切っている。建物に目を向けると、扉の上には、何語かわからないが、アルファベットで文章が書かれていた。「事件」に関することだろうか。それとも聖書の一節だろうか。建物の脇で、熱帯の太陽の下で育った大木が、赤茶色の煉瓦の壁に影を落としていた。
 人を呼びに行った運転手をしばらく待つ間、イヴォは写真を撮りはじめた。報道写真家を気取っているらしく、何枚もの写真を、場所を変えて撮っていた。
 「僕たち旅行者には、義務があるんだ」
 彼はちょっと意気込んで言った。
 「ここで何が起こったのか、ということを僕はオランダに帰ってから伝える。そのためには証拠写真がいる。僕たちは幸運にも、ここに来れた。写真を撮ることは、僕たちの義務なのさ。」

 この教会の管理をしている人が、鉄門の鍵を開け、中にいれてくれた。中に入ると、薄暗く、一瞬何も見えなかった。しばらくすると、徐々に闇に慣れ始めた眼に、祭壇やくすんだ壁などが見えた。
 管理人が、フランス語で説明をはじめた。94年、大統領が飛行機の墜落で亡くなると、多数部族のフツ族がツチ族を虐殺するようになった。こののどかな村にも虐殺の嵐は押し寄せ、人々は教会に逃げ込んだ。キリスト教徒なら、この聖なる場所で人殺しはしないだろうと考えたのだ。
 最初、フツ族兵士もここに人々が逃げ込んでいることを知りながら、手出しはしなかったようだ。が、内戦は狂乱の度を深め、ここに逃げ込んでいた人も殺されるようになった。
 管理人は、落ち着いた口調で、陰惨な「事件」の証拠を指し示した。天井はススでもついたかのように黒くなっていた。それは「血」なのだ。射殺するには、弾を使うので、カネがかかる。あまりに沢山の人間を殺そうとしたため、ナタで頭を割って殺したそうだ。その噴出した血が、天井に付着したらしい。地下の、元々聖職者を葬る目的の墓所には、頭部に穴の空いた頭蓋骨が、沢山安置されていた。
 その話しは陰惨を極めた。そして、その目をそむけたくなる証拠は、目の前にあった。少女がレイプされた後に、股から刺されて殺された。そんな話しばかりなのだ。
 一旦外に出て、中庭から入る、地下室に案内された。
 ここは何だ?先に入ったイヴォの叫び声が聞こえた。狭い通路を挟んで、両側には、頭蓋骨が山と積まれていた。まだ、頭髪の着いた、生々しい遺体だった。
 そして、においだった。何てにおいなのだろう。これは一体どういうことだろう。吐き気を我慢しながら、数分間、その遺体たちを見学した。だめだった。もう嫌だった。早くここから離れたかった。陽光降り注ぐ庭に戻り、恐怖に震えた。そこは地獄だった。イヴォはそれでも、その地獄で写真を撮っていた。
 ここでは、周辺を含めて、一万人単位で殺されたという。

 車で次の教会に向かうことにした。無口になっていた。運転手も、これを見るのは初めてだったらしく、ショックを受けていた。全員、うつろなまま、タイヤが土を踏む音を聞いていた。場違いなバラードが、カーステレオから鳴りつづけていた。
 バナナ畑に向かい合うようにして、もう一つの教会があった。敷地は鉄柵で仕切られており、その正面には、この教会の名称が書かれた看板があった。
 煉瓦で造られた教会に足を踏み入れた。眼に飛び込んできたのは、虐殺の現場であった。ここは、まだ遺体も片付けられていなかった。床には衣服が散乱し、その粗末な衣服の間から、遺骨がはみ出ていた。
 壁に張られたカレンダーは、94年のまま、時間が止まっていた。
 この教会では、5000人が殺された。

 キガリに戻ると、首都の喧騒と日常的な光景が我々を包んだ。人々は何事もなかったかのように、忙しく立ち働いていた。  我々は食事をとり、睡眠をとり、翌日、めいめいの次の目的地に向かった。ぼくはイヴォと別れ、一人タンザニアに向かった。
   ルワンダで見たものを伝えることは難しい。どんなに言葉を連ねても、具体的な数字で示したとしても、何にも伝えたことにはならないように思える。では、イヴォのいう証拠写真は?メディアを通して大量にばらまかれる、「悲惨な」写真の一種にすぎない。  ぼくは、残念ながらたった3枚の写真を撮っただけだった。「遺体」は映っていない。

注:この文章は雑誌「地球旅遊」に発表した文章に加筆したものです。 atilla

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