戊辰戦争百話・会津

第二十一話:飯沼貞吉

■飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)
飯沼時衛一正(四百五十石)の次男として、安政元年(一八五四)郭内大町通り
の邸に生まれた。加納貞吉と称した。幼くして穎悟、十歳のとき藩校日新館に入り
二経塾一番組に編入され、慶応四年(一八六八)十五歳で、止善堂に入ることを得
た。この年の春、会津藩は鳥羽・伏見の戦で敗れたのを機に軍制の大改革をおこな
ったが、このとき貞吉は生年を嘉永六年(一八五三)と偽って白虎士中二番隊に参
加した。八月二十二日、西軍戸ノ口に迫るとの報に接し隊長の日向内記より出陣の
触状が出された。このとき父の時衛は青龍一番寄合組の中隊頭として東部戦線に出
陣中だったので、母のふみ(西郷十郎右衛門近登三女)に告げた。母は別れにあた
って一首の和歌を詠み、短冊にしたためて与え彼の初陣を激励した。
梓弓むかふ矢さきはしけくとも
引きなかへしそ武夫のみち
貞吉はこの短冊を戒衣の襟にしかと縫いこみ勇躍して自邸を出たが、そのころ飯沼
邸には藤太という忠僕があり、藤太は貞吉の出陣と聞いておおいに喜んだ。貞吉は
この藤太を伴い、往く道すがら親戚にあたる家老の西郷頼母邸に到り出陣の挨拶を
おこなった。
頼母の妻千恵子は時衛の妹で、貞吉にとっては叔母にあたる人であった。千恵子
も貞吉の出陣と聞いておおいに喜び、一族こぞってその門出を励ましてくれた。西
郷の家族と別れ、やがて三之丸に至ってここで藤太を帰し、貞吉は容保に随従して
郊外の滝沢に陣したが、戸ノ口危急との知らせに接し、急きょ戸ノ口原へと出陣し
た。しかし戦い利あらず、飯盛山に後退し自刃することになる。だが幸か不幸か、
貞吉少年は咽喉を突損じ、急所をはずして人事不省のまま死にきれずにいた。そし
てどのくらいの時が経過したかわからなかったが、戦死者の所持品をねらう泥棒に
貞吉は懐中をさぐられ、その気配でおぼろげながらにも意識をとりもどしたのであ
る。貞吉はさては敵かと、その手をつかむとその泥棒は「旦那さま、死に急ぎなさ
いますな……」とさりげなさそうに声をかけ「私どもが隠れている山中までお連れ
致しましょう」などと言って貞吉を安心させ、山下を流れている戸ノ口堰の水路ま
で担いで下り、そこで貞吉は水を呑ませてもらい一息ついたのだった。しかし意識
のはっきりしない貞吉はそこからさらに飯盛山の南に並ぶ八ヶ森の南側山中に連れ
て行かれ、そこで盗人に刀を盗られた上に、動けない体を遺棄されてしまったので
ある。
そんな貞吉を救ってくれたのは近くの慶山村の渡部佐平と、たまたまそこに来て
いた印出はつだった。はつは貞吉を介抱し会津落城後の九月二十五、六日頃まで匿
ってくれた。こうして蘇生した貞吉はその後藩に戻り、他の藩士と共に謹慎に服し
た。御赦免後は名を貞雄と改めて静岡の林三郎塾に入り、明治五年、工部省の技術
教場に入所して電信建築技師となった。明治二十七、八年の戦役(日清戦争)には
歩兵大尉として出征、帰還後は再び逓信省に戻り、最後には仙台逓信管理局の初代
公務部長を務めた。大正二年に退官し、その後も仙台に居住、昭和六年二月、七十
八歳で没した。
往時如夢
すきし世は夢か現か白雲の
空にうかへるこゝちこそすれ
彼の墓は仙台市北山金剛寺輪王寺にあるが、昭和三十三年、会津若松市で戊辰戦後
九十年祭を執行するにあたり、他の隊士らの眠る飯盛山の一角に彼の毛髪と歯とを
移して墓碑を建て、その霊を慰めた。
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