第6話〜第10話―ケシを作る人々


第6話・新年の朝(1)

 昨夜から夜を徹して家々の神木を踊ってまわっていた男達の一団は、東の空が白んでくる頃、村の一番上方にあるアパモヒと呼ばれる祠にたどり着く。「アパモヒ」とは直訳すれば、「古い祖父の家」、リス族の先祖の神様であり、村の鎮守の神のようなものである。アニミズムを信仰するリス族の村では、たいてい村の比較的高い場所に位置する森の中にある。彼らは正月をはじめ一年に何度か、このアパモヒに村の安寧を願って祈りを捧げるのだ。

 薄暗がりの中、三味線に合わせて踊りのステップを踏む足音と、けたたましい爆竹の音、酩酊して気勢を上げる男達の嬌声が響き渡る。徹夜でほとんど休まずに踊ってきた男達だ。疲れていないわけはなかろうが、すべての家をまわり終わってアパモヒの前までたどり着かなければ、リス族の正月は来ないのである。最後の元気をふり絞っているという感じだ。私はインチキをして中抜けし、仮眠をとってふたたび最後のクライマックスの場に参上したわけだが。

 寝ぼけまなこの私に、誰からとなく、燃えるような強い焼酎の杯がまわってくる。必死に断るが、噛みタバコで口の中を真っ赤に染めたおじさんから「これは『リス・イリ』(リス族の掟)だ。飲め。飲まにゃ許さん」などとすごまれると、下戸の私もいくらか口をつけないわけにはいかない。しかし喉が焼けるような強烈なこの酒のせいで、すでに私の頭の中はグルグルと旋回し始めた。

 やがて明るくなってきた頃、今まで家で休んでいたであろうと思われる男達も、酒や蒸鶏などを盆に載せてアパモヒに集まってきて、それぞれ祠に平伏して供え物をする。そして、ムムパと呼ばれる村の祭司を先頭にして、男達全員が膝を折り、祠の前に平伏す。ムムパが長い長い祈祷を捧げ終わると、さらにけたたましい爆竹の音が響き、酒盛りが続く。完全に酔っ払った男が足元をふらつかせながら、猟銃を発砲しようとする。危なくってしょうがない。ちなみに女の姿は一人も見えない。ここは女人禁制の空間なのだ。

 こうしてアパモヒでの儀礼が終わると、空に向けて猟銃の空砲が撃たれ、リス族の元旦が訪れる。

 正月の第一日目の踊りは、祭司・ムムパの家の前で行われる。これはどこの村でも同じで、二日目が村長の家と決まっている。ムムパは、正月祭りをはじめとして村の中の共同的な儀礼の一切をとりしきる長老で、伝統的なリス族の社会においては村長よりも重要な役職とされてきた。ムムパの家の前にも神木が立てられており、木の周りに各家から持ち寄られた様々な供え物が置かれる。

 午前9時。踊りが始まった。まずは男達がゆったりとした力強いステップで踊りはじめる。つづいて、パステルカラーの民族衣装に身を包んだ幼い少女たちがその輪に加わる。まだ10歳に満たない少女たちだが一人前に顔に白粉をまぶし、口紅などを塗りたくっている。

 この頃、年頃の娘たちは、民族衣装の着付けと化粧に余念がない。真新しい民族衣装の上には無数の銀の粒をちりばめた黒いベストを着、さらにその上に荘厳なさまざまな銀のアクセサリーが装着される。銀の重さだけで3キロにも達するという。誇り高いリス族の娘たちにとって、正月祭りは、自分を誇示する一年に一度の晴れ舞台である。その美貌だけではなく、家柄や富裕の程度をもここで誇示するのである。銀は古くからこのあたりの山岳民族たちの代表的な保有財産の形態であり、特にインドやビルマで流通していた純度の高いインディアン・ルピーは、その額面以上に普遍的な金属的価値を持つと信じられ、タイ北部の山岳地帯においても通貨がわりに使用されてきた。麻薬の売買もかつてはインディアン・ルピーでとりひきされ、結納金も銀貨や銀ののべ板で支払われた時代があった。 銀をどれだけ保有しているかで、富裕の度合いがわかる。未婚の娘たちは、正月の踊りのときに、おそらくはその家のすべての財産を身に付けて栄華を誇示しあうというわけだ。そのライバル心はなかなかのもので、私の泊めてもらっている村長の家の長女で、とりわけ気の強いアミマなどは、

「あそこの家のあの子はね、銀をいっぱいつけてるように見せてるけど、あれ、半分はニセモノで水増ししてるのよ」などと平気で悪口を言う。となりの誰それちゃんよりも銀の量が少なくて悔しいから、今年は人前で踊りたくないとだだをこねる少女もいる。娘に泣いてねだられ、借金までして銀のアクセサリーを調達してくる父親もいるという。普段は銀を質に入れてあり、正月どきだけ質屋から戻してきて娘につけさせるという話も聞いた。それほどまでにリス族は見栄っ張りであり、祭りの舞台はさながらファッションショーのようになる。最後にターバンをかぶり、(ターバンというものは本来巻くものであろうが、リス族のターバンは非常に巻き方が難しいため、最近ではあらかじめ巻いて形を固めておき、着用時には帽子のようにかぶるようになった)さらにそのターバンに造花の飾り物をして、はれて着付けは終了する。乾季とはいえ、日中は暑く、これだけの重装備で踊るのはさぞかし大変だろう。

 青年や子供たちが踊っている輪の中に、こうした盛装の娘たちが登場し始めると、祭りもいよいよ佳境に入る。踊りは夜を徹し、ときには朝方まで繰り広げられる。

 リス族の若者達にとって正月祭りは、男女の出会いのステージでもある。日頃はこの民族の恋愛に関する厳しいタブーゆえに、若い男女が親しくなる機会は意外に少ない。リス族では、夫婦や兄弟以外の異性どうしが一緒に畑仕事に出かけることはならず、年頃の娘たちも、夕方以降は家から出ることを好まれない。ましてや未婚の男女が二人きりでどこかへ出かけたり、手を握ったりすることは許されない。しかし、正月の踊りのときだけは、手を握りあい、夜が更けるまで一緒に踊り語り合うことがおおっぴらに許されるのである。リス族のほとんどのカップルはおおむねこの正月祭りの時期に成立するといっても過言ではない。適齢期を迎えた男女の、正月祭りにかける心意気にはなみなみならぬものがある。この機会を逃したら、あと一年は憧れの彼女と話すチャンスはなく、理想のパートナーと巡り合う機会はないのだから。とくに適齢期をやや過ぎかけた女性などは目の色が違う。「リス族では、二十歳を過ぎるともういき遅れっていわれるのよ。私ももうすぐオールドミスね」

 19歳になるアミマが笑いながらいう。だが、村長の娘だけあって、彼女の盛装ぶりは非のうちどころがなく、村の少女たちの中でもっとも目立っていた。

 

第7話・新年の朝(2) 

リス族の正月の踊りは優雅だ。ツブーとよばれる三味線を伴奏に、単純なステップで、輪になって神木のまわりを踊るだけだが、その民族衣装の華麗さで見るものをあきさせない。

 日が沈み、夜が更けるにつれて、祭りの輪は次第に年頃の男女が中心になっていく。

 この頃になると、早寝早起きの老人たちは気を利かしてさっさと家に帰ってしまい、鼻たれの悪ガキどもも昨夜の疲れがたたって寝入ってしまい、あとは意気揚々たる若者達が残されるという按配だ。明かりといえば、頼りなげに風にゆらめく灯油ランプの光と、各々がもっている中国製のアルミの懐中電灯のみ。ほとんど暗闇に近い状態の中で、

「ペンペケペンペンペン・・・」という眠気を誘うような蛇皮線の音色と、ざわざわという人々の話し声、何十という足が土を踏み締めるステップの音が響き、踊りの輪が熱気を帯びたひとつの大きなうねりのようになって揺れ、広場は、ただならぬ悩ましげな香り(実際は娘たちの身につけている白粉や香水のにおいなのだが)でムンムンしてくる。

 そしてしばらく観察しているうちに、さまざまなかけひきとドラマがこの暗闇の踊りの輪の中で進行しているのがわかってくる。 

 最初のうち、男達は踊りの輪に加わらない。手をつなぎ、踊っているのは盛装した娘さん達だけである。青年達は、自分の意中の娘を探して品定めをしているのである。懐中電灯で娘さん達の顔をいちいち照らしては彼女たちから顰蹙を買っている男、じっと一人の娘さんを見つめ続け、機をうかがう男。ただ輪の外からひやかしの声を浴びせるだけの男。実際、いつ、どの娘と手をつなぐかは重大な問題だ。ここぞと思って輪に入っても、相手にされないかもしれない。だからといってしりごみしていれば、他の男に先を越されてしまうかもしれない。女の側には拒否権があり、自分が気にいらないと思った相手が手を握ってきたときは、これを無視したり、しぐさで拒否の態度を表すことができるらしい。綺麗な女ほどプライドが高くてとっつきにくいのはどこの世界でも同じ。拒否される確率も高い。しかしそれを承知で村一番の美女を狙って大博打に出るか、それとも多少器量が悪くとも、まあまあ性格のいい女を安全パイとして確保しておくか。若者達も心の中であれこれ作戦を練っているのだろう。

 ひとりの若者が、さっと輪の中に飛び込み、意中の娘の横に身を寄せ、そっと片手を差し出す。皆の視線がいっせいにそこに集中し、その勇気に対し、「オーッ」という称賛ともひやかしともとれるどよめきが起こる。その試みが見事成功すれば、口笛がなったり、ブーイングが起こったりする。逆に女に断られれば、すごすごと引き返してきて皆の笑い者になる。なかなか愉快なひとこまであるが、本人たちはきっと真剣だ。

 村の若者達に男女の出会いの機会を与える目的もこめられたこの正月の踊りには、自由なようで実はさまざまなタブーがある。

 代表的なのが、兄妹、親戚など、とりわけ同じクラン(姓名集団)の男女同士は手をつないではならないというもの。これは近親相関の禁止というよりは、婚姻の資格のない同クランのもの同士が並ぶことが結果的に他クランの男女同士を親密にさせる機会を奪うことになるのを防ぐための掟であろう。リス族ではまだ性に対する関心も持たないような幼い頃から婚姻における同一クランのタブ−について厳しくしつけられ、同じ親戚同士の中でも、同じ名字の異性と異なる名字の異性、つまり結婚できる相手と絶対に不可能な相手というのをはっきりと認識させられるという。リス族では、文化人類学でいう交叉いとこ婚という婚姻システムがあり、父方と母方のいとこ同士ならば、近親者であっても婚姻が奨励される。

 さしあたり日本人の私には同姓集団のタブーは適用されないので、私はすべての少女と手をつなぐ権利がある。村で知り合いになったリスの青年達が、私にも早く相手を決めて踊りの輪に加わるようそそのかす。私が昼間からひそかに目をつけていたのは、14歳の美少女、オロピンちゃんである。

 「タカシ、ほらいけ! さっさと手を握れ。その娘だろ。お前のお目当ては」

 みんなが私の尻を押す。すでに輪に加わっている彼女が自分のそばを通り過ぎるたびに、中に入ろうと思うのだが、私の心臓はまるで処女のように高鳴って、なかなか手を握る決心がつかない。数回その機会を見逃したあげく、やっと意を決して輪に入り、手を差し出したが、あえなくプイと無視され、断られてしまった。とんだ赤っ恥をかいてしまった。彼女は14歳ながら、すでに自身の美貌を確信しているかのように、毅然とした態度で、いかなる男もよせつけないといった雰囲気を漂わせながら踊っていた。

 「気を落とすな。娘はいっぱいいるぞ」とリス族の男達に慰められながらも、しょげ返っていた私に、やさしく声を掛け自分から手を握って輪の中に誘ってくれたのは、アレマという色白の小柄な少女だった。彼女は16歳だった。私などよりずっと年下なのに、グイと私の手を引っ張ると、

「ほらこうやって踊るのよ、私の足を見て。一、二、一、二、右、左、右、左・・・」

と私をリードしてくれた。人ごみの中で迷子になっていた弟が、やさしい姉からそっと手を差しのべられたときのような安堵感を彼女の手のぬくもりに感じた。

「あなたは、私のことを覚えているかしら」

 踊りながら彼女は不意にそういった。暗いこともあって、実は私は彼女の顔をよく見ていなかった。しかしそういわれてもう一度その顔をのぞき込むと、確かにどこかで見覚えのある顔のような気がした。

「あなた、写真撮りにきたでしょう。私が通っていた学校に」

 彼女は以前私が取材で撮影させてもらったチェンライにある全寮制の山岳民族の学校の生徒だった。校長先生の計らいで、子供たちに民族衣装を着てもらい、民族ごとに撮影したことがある。彼女はその中にいた。彼女は小学校6年生だったが、その後、家庭の事情で学校を退学して、家に戻って着ているという。父親が阿片中毒になり、収入がなくなって授業料や寮費が払えなくなったのだという。

 漆黒の闇の中での、手と手だけのなまめかしいコミュニケーション。お互いの手が汗ばみ、じっとりと濡れてくる。彼女が手を強く握り締めてくれば、こちらも強く握り返す。単調なステップ。麻薬的な反復。三味線の眠たい音色を聞きながら、しばし私は夢幻の境地に入った。

 夜が更けるごとに、男達も踊りの輪に加わっていき、男女が交互に手を結びあうというある種の安定的均衡状態が訪れる。お互い意気投合したカップルはもう決して手をはなしはしない。途中で女に嫌われるか飽きられるかして、逃げられ、また別の娘さんを狙う浮気男もいる。この段階で、まだあぶれて輪の外にいる連中は、今年はもう希望はなかったりして。

 かくして三日から1週間続くリス族の正月祭りが終わる頃には、村の中にはいくつかのカップルが誕生し、何週間か後には結婚式の日取りが話し合われる段取りになる。

 

第8話・ケシを作る人々(1)

 1987年の旧正月も、終わろうとしていた。

 最後の夜の踊りが終わった翌日、すっかり仲良くなったリス族の少女アレマに誘われて、ケシ畑を見にいった。

 ケシの花は、村の裏手に続く山道を20分ほど登った小高い丘の西向きの斜面に、1ライ(1ライは1600平方メートル)ほどの広さにわたって咲いていた。白、赤紫色のたよりなげな花弁をつけた何百、何千という花が咲き乱れ、乾季の穏やかな日差しを浴びて、まるでスローモーションの映像のようにふわふわと優雅に風に揺れていた。そこかしこに目の覚めるような赤と白のツートンカラーのものも混じっており、その花はとびきり美しい。斜面は、見た目には45度近くあるのではと思われるほどの急勾配で、20メートル登るだけでも息があがった。おまけにケシ畑の土壌はよく耕されて軟弱になっており、足場がもろく、一歩踏み込むたびにボロボロと崩れ落ち、畑の中に立っていることさえ一苦労だ。

「ねえねえ、写真撮って」

 アレマがおどけて花を2〜3本摘み取り、無邪気にポーズをとる。ケシ畑はアレマの家で作っているものだった。3か所の畑に、合わせて約3ライ作っているという。

「2年ほど前まで、村のまわりは見渡す限りのケシ畑だったのよ。村長の家の庭から見まわすと、それこそ四方八方にケシ畑が見えたの。ずーっとあの山の向こうまでね。満開の時期になると、それはもう最高の眺めだったわ。でもおととしの12月、軍隊がきて全部刈り取っていっちゃった。村人の何人かが捕まって刑務所に入ったわ。それで去年からはもう、みんな怖がって、あまりおおっぴらに栽培する人がいなくなってしまったの」

 彼女のいうとおり、1985年、タイ政府はアメリカ政府の援助を受けて、大規模なケシ討伐作戦を実施した。この村にもタイ陸軍がきてケシ畑が刈り取られた。それは、メ−スアイの町から22キロ離れたこの村まで、はじめて車が通れる道ができた翌年のことだった。それまでは村人たちがメースアイの町に降りるときは山道を一日がかりで歩いたものだという。

 「町に降りるときで6時間、帰りは山道を登らなきゃならないから8時間かかったわ。トウモロコシや野菜を売りにいくときは馬をひいていったけど、荷物でいっぱいだから子供でも乗せてもらえないの。雨が降ると山道はドロドロになってぬかるみに足が埋もれてしまうの。小さい頃は母の手に引かれて泣きながら歩いたわ」

 町まで歩かなくてもよくなったという便利さと引き換えに、彼らはケシ栽培という現金収入の手段を失うことになる。そして以後、恐ろしいスピードでD村の開発が進められていく。

 車道が完成した1984年、タイ・ドイツの合同プロジェクトにより村に簡易水道施設の建設がはじまり、その1年後、この村の上方1キロの場所、つまり前年まで広大なケシ畑だったところに、タイ政府による高地農業試験場ができた。そこで山岳地帯で可能なさまざまな換金作物の実験栽培が試みられるようになり、D村でもトマト栽培が奨励され、盛んにおこなわれるようになった。しかし皮肉なことに、トマトを熱心に栽培して成功したのは、5年ほど前、国境沿いからD村に引っ越してきて集落を形成したアカ族の連中で、若い家族が多かったアカ家族に比べて、保守的な老人層がまだ村内で実権を握っていたリス族の集落では、新しい試みにチャレンジしようという動きが遅れた。リス族の人々は、いまでも密かにケシを栽培し、数少ない現金収入の糧にしている。以前のように大規模にはできないが、車道から目につきにくい山間の斜面に、少しずつ分散して栽培しているという。

 ケシの花。この弱々しげで可憐な花弁の下に隠されたケシ坊主からにじみ出る褐色の樹液こそが、阿片やヘロイン(ジアセチルモルヒネ)といった麻薬の原料となり、「奇跡の妙薬」と呼ばれる反面、一方で巨額の富と数多くの麻薬中毒者を生み、少数民族の人々のここ数世紀の運命を翻弄してきた。「魔性の花」でもある。

 以前、アカ族の村へ行ったとき、偶然に上がり込んだ家は、阿片窟だった。名状しがたい光景だった。彼らは私の存在にもなんら関心を示さず、黙々と吸引を続けていた。かたわらでは幼い子供が所在無げに座りこんでいた。

 阿片は通常、横臥して長い竹パイプで吸引する。阿片を吸っている間は寡黙になり、阿片常習者の家に行くと、阿片を焼き溶かすのに使う球形ガラスに入ったロウソクの炎だけがぼんやりと揺れる闇の中で、シュー、シュ−という煙を吸い込む音だけが不気味に聞こえてくる。キセルの先の穴に詰められた阿片の樹脂をロウソクの炎に当て、深く、長いストロークで吸い込む。生臭いにおいが部屋じゅうに充満し、煙で喉が痛くなる。

 吸引の際、タイ語で「ヤーケープアド」と呼ばれる痛み止めの粉薬(成分はアスピリン))を混ぜて吸うと効果が増大するという。この薬は「散止痛」あるいは「プアドハーイ」の商品名で薬局はもとより、山岳民族の村の小さな売店でも売られており、安っぽい緑色の包装紙に長い顔面をした男の絵が印刷されている。最初の頃、村へ行くとこの包装紙が無造作に捨てられているのを頻繁に目にし、山岳民族の人達はよほど頻繁に頭痛を催すのかと思ったものだが、実はそれは阿片常習者の家だったのだ。

 一回の吸引で消費する阿片は2グラム前後。この界隈での末端価格は1グラム10バーツから20バーツ前後。常習者は日に二度、三度と吸うから、一日の使用量は5グラムを超える。つまり1日で50バーツから百バーツ分も吸ってしまう。年間収入が3000バーツたらずの人々が、どこからどうやって阿片の購入費を捻出しているのかさっぱりわからなかった。アカ族の村では阿片を買う金欲しさに娘を売春宿に売り飛ばすという話も耳にした。

 阿片には医療用モルヒネとしても利用されているように、効果的な鎮痛作用があり、山岳民族の間でも万能薬として重宝されてきた。また吸引すると深い陶酔状態に陥り、彼らにとっては厳しい農作業で疲れた肉体をいやす「安らぎの薬」でもあった。しかし常用すると、恒常的な無気力感と倦怠感に襲われ、性欲も喪失し、服用をやめれば激しい痙攣や呼吸困難などの禁断症状に見舞われる。特にヘロインの常習は、やがて人間を廃人同様に至らしめる。

 ケシ畑で無邪気に戯れるアレマの姿と、千々に咲き乱れる美しいケシの花を眺めながら、私は不思議な気持ちになった。

 

第9話・ケシを作る人々(2)

 「黄金の三角地帯」におけるケシ栽培の歴史は約200年前にさかのぼる。

 19世紀初頭、対清貿易における茶の対抗輸出品として、イギリスは阿片の輸出を開始した。これに反発した清国政府が1839年、イギリス商人の阿片を没収し焼き捨てたことから阿片戦争が勃発。しかし清の敗北によって阿片はますます中国各地に流入し、中国人の間で阿片吸引の習慣が広まっていった。このころから雲南省を中心に本格的なケシ栽培が始まり、その栽培技術はアジア各地に伝搬していった。

 1949年、毛沢東率いる人民解放軍との戦いに敗れた国民党軍の一部は雲南省から国境を越えてミャンマ−に逃れた。彼らは資金源としてケシ栽培に目をつけ、シャン州周辺のラフ族やワ族などの少数民族を支配してケシ栽培を強制した。そして世界中に広がる華僑ネットワークなどを利用して世界の非合法阿片の約3分の一を扱う麻薬シンジケートを掌握していく。

 そんな中で1960年代、国民党の阿片寡占支配を脅かすほどに頭角を表してきたのが、国民党を離脱したのちシャン同盟軍を率いるクンサー(チャン・チーフー)という男だった。中国人を父に、シャン族(タイ族の一派)を母に持つクンサーは、国民党在籍時代に培った麻薬ビジネスのノウハウを生かして、タイ、ミャンマ−の国境地帯に軍事基地やヘロイン精製工場を持つ強大な麻薬王の一人として君臨して、山岳民族から精力的に阿片の買い付けをおこなった。リス族やラフ族、アカ族などが栽培したケシの花からとった生阿片を集めて、ヘロインを精製し、売りさばくのがクンサーの仕事だった。

 だったというのは、これは1980年代までの話で、10年たった今では、クンサーもミャンマー政府に身柄を拘束され、タイ国内における阿片の産出量はかつてと比べれば見る影もない。それにかわって最近ではヤーバー(馬鹿薬)あるいはヤーマー(馬薬)と呼ばれる覚せい剤系のドラッグが爆発的に蔓延している。

 ケシ畑は土を柔らかくするため、決まってトウモロコシを植えたあとの土地に、茎や雑草を埋めて堆肥にし、鋤でよく耕してから種が蒔かれる。ケシの種を蒔くのは、毎年トウモロコシの収穫が終わる9月下旬から10月初旬にかけてで、たとえばラフ族などではこの時期を1月とよぶ習慣がある。ケシの種蒔きこそが農耕カレンダーの最初であり、それほどにケシ栽培は彼らの生活の中で重要な位置を占めていたのだ。

 ケシの花にはいくつかの種類があり、早咲きのものは11月から12月、遅咲きのものは1月中旬から2月初旬にかけて花を咲かせる。花弁が落ちると、なかなか愛嬌のある形をした直径2〜3センチほどのケシ坊主が現れ、このケシ坊主に釣りのルアーに似たL字型の白銅製の器具で縦に傷をつけると、乳白色の液がにじみ出てくる。液は空気に触れると一日で酸化して茶色に変色する。これをひらべったい鎌のような器具で削り取り、数日するとさらに黒色に変色する。これが生阿片である。生阿片に化学処理をほどこして純度を高めたものがヘロインだ。中でも純度88〜99%にまで精製したものが「NO.4」とよばれる製品で、同じ「NO.4」でも、作り手や工場によって品質の差があり、禁制品であるにもかかわらず公然とブランド名がつけられて売られていたりする。

 「昔はよかった」

 と、阿片の樹脂の収穫の手を休めてアレマの父が言う。

「いくらでもケシが栽培できた。軍隊も警察も入ってこなかったし、どこの山でも自由に焼いて畑にすることができた。阿片はいいときは1チョイ(1チョイは約1・6キロ)7000バーツで売れた。10000バーツから15000バーツの値をつけたこともあったよ。阿片はある程度保存がきくから、収穫してもすぐには売らずに、とっといて値がつりあがるのを待って売ることもあった。阿片を買い付けにきていたのは中国人と、それからタイ人もいたな。昔はよく銀貨と交換していたけど、阿片の値段はしょっちゅう上がったり下がったりした。銀の値段が上がるのか、阿片の値段が下がるのか、どっちだか知らんがな。わしらにとっては昔は阿片がお金の代わりじゃった。阿片で銀を買っていたのじゃから。それから自分の娘に銀をやり、また息子のためには、銀で嫁を買う」ケシの収穫が終わる頃、リス族の正月がやってくる。阿片を売ってお金にし、町で布を買ってきて娘たちに新しい民族衣装を縫ってやる。昔は正月も今よりもっと楽しかったな。盛り上がれば、毎日誰かの家が豚をつぶしてトウモロコシの酒を振る舞い、1週間でも10日でも踊り続けた。今はケシもおおっぴらに作れなくなって、皆貧乏になっちまった」

 通常、1ライのケシ畑から収穫できる生阿片は約1・5キロから2キロ。キロあたり平均3000バーツ程度として、1ライあたりの収入は約ざっと5000バーツから6000バーツである。このあたりで栽培している換金作物の単位面積(1ライ)あたりの荒収益、たとえばとうもろこしの1200バーツ、大豆の1400バーツなどと比較すると、ケシ栽培は確かにかなり効率のいい現金収入の手段に思えた。

「でもね、ケシ栽培はけっして楽な仕事じゃないのよ」とアレマが口をはさむ。

「世話が大変なの。種を蒔いてから収穫するまで、とても手がかかるの。しょっちゅう草とりをしてやらなきゃいけないし、ちょっとした気候の変化にも敏感だし、花が咲く前に途中で枯れちゃうこともあるの。年によっては1ライあたり2000バーツから3000バーツにしかならないこともあるから、とうもろこしや大豆を作って売るよりもいくらかましってぐらいなの。労働力を考えたら割に合わないわ」

 海外でのヘロインの法外な末端価格のことを思えば、確かに彼らにとってケシは単なる農作物の一種にすぎない。ではなぜ、非合法のリスクを冒してまでケシを作り続けるのだろうか。それはやはり、彼らにとってケシ作り以外に現金収入を得る方法がなかったからだ。かつて、車道がなかったころは、何十キロの作物を抱えて町に売りにいくのさえ大変だった。しかし阿片ならばポケットに入れて持って行ける。いやわざわざ出向かなくても、中国人が向こうから買い付けにきてくれるのだ。 

「食べてみる?」

 アレマはケシ坊主を割って種を取り出して見せ、それを口に入れる真似をした。

「駄目だよ、そんなの食べたらトリップしちゃうぜ」

「大丈夫よ。リス族はこのけし粒も葉っぱも料理に使うのよ。とてもこおばしくて美味しいわ」

 そういって彼女はケシの花を数本茎ごとへし折ってショルダー・バッグにしまい込んだ。

「きょうは私の家に泊まるのよ。御飯食べさせてあげるから」

「いや、だけど・・・」

 アレマは私のカメラバッグを担ぐとさっさと山道を降りはじめた。

 

第10話・ケシを作る人々(3) 

アレマの家は村の中央にあった。

 リス族の家の多くは、アカ族やラフ族などに見られる高床式住居ではなく、地面をそのまま床にして主要生活空間とする「地床式」の住居である。アレマの家も地床式で、茅で屋根を葺き、割竹で壁を作った質素で単純な家屋だった。

 家の入り口のドアを開けると、正面に日本の神棚のように壁の上方に棚をしつらえた祭壇があり、杯が10個ほど並べてあった。これがリス族の先祖の霊を祭る「タビャ」という神棚で、アニミズムを信仰する村なら、どこの家でも入り口の正面にある。

 窓がないため、家の中は昼間でも薄暗く、ひんやりと土の匂いがした。タビャの両横には竹の壁で仕切られた寝室らしき部屋があり、入り口の右側にはやはり木と竹で70センチほどの高さにしつらえたほんの1畳分ほどの寝台があった。「ゾマ」といって、お客を泊める寝台なのだそうだ。土間には高さ10センチほどしかない、銭湯のカランほどの大きさの木製の腰掛けがいくつかおいてある。あまりの小ささに、座るとバランスを崩して後ろにのけ反りそうになった。左側の奥の方は台所らしく、地面に直接火が起こした跡があり、七輪の上に煤で真っ黒になった鉄製のヤカンがかけてあった。台所まわりの鍋や食器棚をのぞけば家具らしきものはほとんどなく、家の中はがらんとして、それなりにきちんと整理され、掃除がいきとどいていた。

 アレマの親父さんが「今日はここに泊まっていけばいい」と言う。山岳民族の人々は、いきなり訪ねてきた旅人に対してすら、いとも簡単に「泊まっていけ」とすすめる。この無謀なまでのホスピタリティはどこからきているのだろうか。

 山岳民族の故郷である貴州省や雲南省をはじめ、中国から東南アジア一帯にかけて、ひとつの類型的な説話が残っている。昔、あるところに、貧しい老夫婦が住んでいた。ある晩、一人の乞食がやってきて、一晩泊めてくれという。夫婦は、「うちは貧しくてなにもないけれど、それでもよければ泊まっていってください」といって、その乞食を快く泊めた。翌朝、すでに乞食の姿はなく、乞食の寝た布団の中から黄金がザクザク出てきた。老夫婦はお金持ちになって幸せに暮らした。突然やってきた客人(マレビト)を大切にもてなした者が幸運に恵まれるという信仰は、山岳民族の人々に深く浸透しているようだ。 

しかし、現実的に考えればこの美徳は、さまざまな民族が入り乱れて住む山間に、小さな集落を作って細々と暮らしていた少数民族にとって、外敵の攻撃や略奪から身を守る最大の防御手段だったのではないかと思われる。相手が海のものとも山のものともわからぬ輩だからからこそ、丁重に、暖かくもてなしておけば、むやみに攻撃されることはないという、彼らの生活の知恵なのかもしれない。それはタイ人の一見とらえどころのない「微笑」にもあてはまる。とりあえずほほ笑んでおけば、相手から敵意を持たれる可能性は少ない。

 親父さんは火をおこし、鍋の蓋を七輪にかけてその上でお茶の葉を炒り、なかなか香りのいいウーロン茶を入れてくれた。

 茶を飲みながら、ケシ栽培についての話を聞く。親父さん自身は阿片を吸わない。彼の父親も、祖父も、代々ケシを作ってきたという。

 「20年ぐらい前からかな、タイの金(バーツ)で阿片を取引するようになったのは。最初の頃はだまされたこともあったっけな。あれは500バーツ札が出たばかりのことだった。その頃は村の中のあるリス族の有力者が阿片の仲買を一手に引き受けていたんじゃ。あるとき、阿片と引き換えに、新品の500バーツ札を何十枚かその有力者から受け取った。あとでそれは全部偽札とわかった。やられたな。でもなにしろその頃、500バーツ札なんて高額紙幣、見たこともなかったからね」

「それはそのリス族の有力者が偽札とわかっていてだましたのかな。それとも彼は買い付けにきた仲買人からつかまされたのかな」

「わからんな、今となっては。疑えばきりがないし、わしの口からは言えん」

 そういって親父さんは口をつぐんだ。

「リス族は昔は皆同じように貧しかった」

 当時、その家は、村人の栽培した阿片の集積場のようになっていて、彼はそれを買い付けにきた中国人やタイ人に売りさばくことで利鞘を稼いでいたという。阿片で儲けた金で、村ではじめてピックアップ・トラックを買い、今度は運送業をはじめた。町に用事があってでかける村人から30バーツの運賃をとり、村人が収穫したトマトやしょうがなどの作物を麓の町の買い付け業者のところまで1キロあたり1バーツで請け負った。そしてさらに財を成していった。家は村の中でもひときわ立派だった。村人たちは密かに阿片御殿だと噂している。

 アレマは手慣れたようすで食事の支度をしていた。まもなく、藤で編んだ丸い卓袱台に御飯とおかずが並べられた。豚の脂身の揚げ物と、高菜の漬物の炒め物だった。 

 食事の最中に、村長の長女が突然はいってきた。

「タカシ、どこへ消えたと思ったら、こんなとこにいたのね。御飯よ。早く帰ってらっしゃい」

「いや、でもここでもう御飯をいただいちゃってるから・・」

「わかったわ。ここで待っててあげるから、食べ終わったら家に帰って、もう一度御飯を食べるのよ。食べないなんていわせないわよ」

 私とアレマは顔を見合わせて苦笑いした。本当は今夜はアレマに誘われるままに、彼女の家に泊まっていきたかったが、お世話になっている村長の家にも義理立てしなければならない。私は後ろ髪を引かれる思いでアレマの家をあとにした。

 村長の家に帰る道すがら、アミマが声をひそめて私にいった。

「さっきのあの娘の家、泊まらない方がいいわよ」

「え、なぜ」

 思いがけない彼女の言葉に私は面食らった。

「あの子の母方の血筋ね。吸血鬼なのよ」

「吸血鬼? まさか」

「ほんとよ。彼女のおばあちゃんね。夜になると起きだして動物の腐肉や人の肉をあさるの。吸血鬼と知らないで結婚したりすれば、旦那は夜のうちに首をかまれるのよ」

「まさか」

 実際に、リス族には吸血鬼の伝説があることを後になって知った。


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