<kitunoの旅−飛鳥編−>

                    
                        飛鳥亀型遺跡
                       2001年4月1日撮影

昨年10月、全国の考古学ファンを興奮させた飛鳥亀型遺跡の様子です
落石防止の為か土砂壁面は青いビニ−ルシ−トで覆われていましたが、亀型の水鉢は自由に見学できるようになっていました。この写真上部には「万葉ミュ−ジアム」が建設されており、建物の外観はほぼ完成し、後は館内と周囲の整備を残すのみとなっていました。
この亀型水鉢の後方、青ビニ−ルシ−トの上方の丘陵に「岡の酒船石」があり、『日本書紀』の「石の山丘」にあたるとみられ、この一帯は丘陵の石垣と一体となった装飾性の高い苑池的な施設と考えられ、神仙思想や不老長寿の術なと、中国の民間信仰を基盤とした道教を好んだ斉明天皇の時代に作られたものと考えられています。
道教の文献には、先任の住む蓬莱山を大亀が背負うとかかれているそうで、「斉明天皇は多武峰を蓬莱山になぞらえ、それを支える石造の大亀をふもとに据えたのではないか」という説にも、この場所に立ちその位置関係を実感すると、納得できました。

この亀型遺跡は、ミュ−ジアムの一部として保存が決まっているそうですが、亀型の周辺の古代庭園設備の遺跡は埋め戻されてしまうそうです。(実際、発見当時の遺跡はかなり埋め戻されてしまっていました。)
改めて『万葉ミュ−ジアム』は何を後世に伝えたくて建設しているのか疑問を持たざるを得ませんでした。
『万葉ミュ−ジアム』は、今年の秋に完成予定です。



 

上の2枚の写真は、飛鳥池遺跡の発掘現場です。
日曜日だったので、発掘作業は行われておらず、そのお陰でそばでじっくり見ることができました。
この遺跡の発見でここに斉明天皇の「狂心の渠」が合ったことが立証され、『日本書紀』の記述が事実であったことが証明されました。
『日本書紀』の記述は、実に具体的です。
「天香具山の西から石上山まで水路を掘らせて舟で石を運ばせ、両槻宮(ふたつきのみや)の東の山に石垣を巡らせた。人々はそしって『狂心(たぶれごころ)渠(みぞ)』と呼んだ。水路の工事に3万人余り、石垣には7万人余りを費やした。石の山丘を造っても、造ったところから崩れるだろうとそしった。」
という内容です。
両槻宮(ふたつきのみや)は、多武峰付近にあったのではないかと考えられています。
多武峰を下ってくると眼下に飛鳥が広がります。

最近の発掘結果からは、ただ単に「神仙思想」の影響だけでなく、「水の都」としての「飛鳥京」だったことがわかりました。飛鳥の遺構はすべて水で繋がっていたのです。飛鳥京は飛鳥川に沿ってのみだけじゃなく、豊富な地下水の流れに沿って建設されていたこともわかりました。苑池遺跡は、庭園としてのみならず、水の補給と排水という大切な役割も担っていたのです。

天皇とは「水を支配する者」だったのです。このことは「常陸風土記」からも読みとることができます。
この発掘現場からは、数多くの木簡や、薬木として植えられていた「桃」の種がたくさん出土しました。

この周辺は古代の遺跡の宝庫。
奈良駅から近鉄を利用して「橿原神宮前」で下車、駅前のレンタル自転車を借りてゆっくり遺跡巡りをするものいいかもしれません。そして必ず「飛鳥資料館」に立ち寄って、具体的な史料を集めてくることをお薦めします。^^;

飛鳥京庭園のあったところは、飛鳥の山々に囲まれたとてものどかな田園風景が続き、私が住んでいるところと殆ど変わらないその風景に、ここが「飛鳥」であることを忘れてしまうようでした。

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