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「画家ムンク」のアクセスは上記のHPからできます。


画家ムンク


ノルウェーの画家ムンクの名前を知らなくても、「叫び」の絵を見た人は多いはずです。
1999年日本の新聞に掲載された、
三歳児の「叫び」のコメント。

きっと
なにかすっぱいものでも
たべたんだよ

題名等が日本語に訳される時に、「何これ、こんな訳ではない」と叫びたくなることがよくありますが、「叫び」はノルウェー語で「スクリーケ」まさに「叫び」が適訳です。

1892年1月22日、フランス、ニースで書かれた「叫び」の日記
僕は二人の友人と向こうの道にむかって歩いていた。
日が沈み、僕は悲しみの吐息を感じた。
空は突然血の赤い色に変わった。
僕は死ぬほどの疲労で柵にもたれかかった。
雲は戦いの刀の血にそまり、フィヨルドと町はどす黒い青い色に変わった。
友人は、僕をおいてどんどん先に行った。
僕は不安におののき、立ちつくした。
その時、自然を貫く大きな終わりのない「叫び」を感じた。


今、ムンクの書いた日記の原文をできるだけ、忠実に訳したつもりです。
翻訳をやった人は分かると思いますが、直訳すると変な日本語になり、意訳すると原作者に怒られそうです。
可能なら、原書で読むのが一番いいでしょうね。

5枚の「叫び」
あまり知られていませんが、ムンクは5枚の「叫び」を描きました。
版画を含めると何枚描いたか分かりません。
ムンク美術館にある「叫び」(83.5 X 66)は日本をはじめ、よく外国で展示されています。
ノルウェーに来て、「叫び」が見られないことがあるのはそのためです。

国立美術館にある「叫び」(91 X 73.5)は、画集に収められことが多く、ムンク美術館のより一回り大きいです。
貸し出しは一切しません。
国立美術館に来ると「叫び」は必ず見られます。(但し、月曜日が休閑日)
よく見ると、色の濃さ、目の描き方はムンク美術館のとは少し違います。
絵の上部に描かれた、赤く染まった雲の下に、ノルウェー語で「この絵を描いたのは、きちがいに違い」ないと書かれているそうです。
専門家の話では、ムンクが書いたのだろうということです。

他の絵は、ムンク美術館に1枚あり、厚紙に描かれたパステル画です。
かなり見劣りする「叫び」(75 X 57)です。
国立美術館にも前記した「叫び」の絵の裏側に未完成の「叫び」があります。
また個人所有の「叫び」がありますが、 一般には公開されることはなく、私もまだ見たことはありません。

「叫び」盗難
国立美術館の「叫び」が盗まれました。
詳細は後述しています。

「叫び」「マドンナ」強奪
今度はムンク美術館で2004年8月22日午前11時、観光客の目の前で黒い覆面の武装した2人組の男が絵を強奪して、外に待たせてあった車で逃走しました。
美術館は絵を売る気がないので正確な値段はついていませんが、保険会社との関係から「叫び」500million KR、「マドンナ」250millionKR(現在のレートで二枚の絵で150億円)という値段です。br> 犯人は逮捕され、絵は2006年8月31日に発見されました。
「叫び」にはカンパスに引っかき傷があり、「マドンナ」には1cm四方の穴が発見されました。
修復に約1年ほどかかるそうです。
美術館の展示は修復後になります。

国立美術館にある、同じような「叫び」「マドンナ」はなぜかわかりませんが、一時、展示会場から持ち去り詳細に鑑定されありたようです。
その時に来た旅行者は、ムンク美術館でも国立美術館でも「叫び」と「マドンナ」が見られず、残念そうでした。
9月10日、国立美術館にムンクの「叫び」と「マドンナ」 を見に行きました。
「マドンナ」は以前の見慣れていた絵ではなく色彩が明るくなっていました。
別な「マドンナ」を掛けたのでしょうか。 ?????
9月17日に再び、国立美術館に行くと、今度は「肖像画」と「桟橋の少女たち」がはずされていました。何の為????

今までに盗難にあったムンクの絵
1988年2月
「吸血鬼/Vampyr」がムンク美術館より盗難。
同年8月、犯人自首。懲役4年の刑に服する。
1993年8月
「日本語名不明/Portrettstudie」国立美術館で開館中に盗難。未だに行方不明。
1994年2月12日
「叫び/Skrik」「マドンナ/Madonna」が国立美術館より盗難。首領格の犯人は「吸血鬼」を盗んだ同一人物。逮捕。懲役6年。
2004年8月22日
「叫び」ムンク美術館より盗難。 2006年8月31日に発見。
2005年3月6日
「青いドレス/Blå kjole」「自画像/ Selvportrett」「ストリングバルグ/Stringberg」Hotel Refsnes Gods(モス近郊)より盗難。翌日夕方、ホンダ・シビックを運転中の犯人グループ逮捕。

国立美術館
もちろん、国立美術館はムンクだけの絵があるわけではない。
点数は多くないが、日本でもよく知られている、マネ、モネ、ゴッホ、 ゴーギャン、ルノアール、マチス、ピカソ、ゴヤ、グレコ、セザンヌ、ドガ、私の絵、、(あるはずがない)が展示されています。
太っ腹というか入館料はいりません。

2004年のクリスマス以後、フラッシュどころかカメラの使用が禁止されました。

私の勝手な考えですが、一般の旅行者が持つカメラの弱いフラッシュは絵には影響がないのかもしれません。
ちなみに、ムンク美術館は市営で入館料が60KRで約1000円(2004年)、写真撮影は認められていますが、フラッシュの使用は禁止されています。
とはいうものの、フラッシュのオフの操作の仕方が分からずに、意に反してフラッシュと供に写真を撮る人が多いです。
そのつど、ムンク美術館の係員からこごとを言われています。

クラーゲルーでの話
46歳でコペンハーゲンのサナトリウムから退院した後、 ムンクは1909〜1915年までクラーゲルーに住んでいました。
この時期のムンクは大変充実した日々を送ったように思われます。
2000年10月に、私はその町に取材に行ったことがあります。
幾つか面白いエピソードがあったのでそれを紹介します。
10月19日、当時77歳のハーラルという老人をクラーゲルーの島に訪問しました。
(クラーゲルーには多くの島がある) その時の話です。

そのおじいさんは1人で島にある1軒家に住んでいました。
島といえども本土とのコミニュケイションは小船で簡単に行き来ができて問題はありません。
さて、おじいさんが子どもの頃、おじいさんのお父さんとムンクは親友だったらしいです。
当時、ムンクは何度も何度も家に来て、母親の肖像画を描いたということです。
おじいさんによると「どうも、ムンクは私の母親を好きだったのではないか」という話でした。
確かにおじいさんの居間には額に入った美人の女性の大きな肖像画が飾ってありました。
さらに驚いたことに、ムンクのサイン入りのあかちゃんの小さなデッサンが無造作に机の上に置かれてありました。
クラーゲルーには、ハーラルさんの家以外にもムンクの絵をもらった人が他にも多くいます。
彼らは本物を銀行に預けてコピーを家においているそうです。
ということは、一般には公表されていないムンクの絵がまだまだ沢山あるということですね。

遺言
ささいなことから、ムンクは昔交際のあった彫刻家ヴィーゲラン(フログネル彫刻公園を造った)と絶交しました。
晩年、ムンクはオスロ一の金持ちです。つまり市に一番税金を収めていたことになります。
ムンクの遺言状には私の税金をヴィーゲラン公園の為に使って欲しくないと書いてあったそうです。
お互いひどく気難しい人だけに遺言状にも納得です。

ムンクの生い立ち/1863年12月12日(生)〜1944年1月23日(亡)
5歳の時、母親が結核で死亡。
14歳の時に、一つ年上の姉が結核で死亡。姉とは大変仲がよく、姉の死がムンクに決定的な影響を与えた。
妹は長い間精神病院に入院。父親は度重なる家族の不幸により、 さらに熱心なクリスッチャンになりました。
そしてムンクは病弱でした。
こんな背景がムンクの絵に強い影響を与えた。

1863年12月12日生
オスロから車で北に約140km行ったところにあるルーテンに生まれました。
1864年(1歳)
オスロ(当時はクリスティアナとよばれていた)に移る。父親は軍医だったが、清教徒的信仰から、労働者が多く住んでいる地区に住み、スラム街の人々から診療費を取らなかった。一家の家計は苦しかった。
1868年(5歳)
母ラウラ・カトリーネ、結核で死亡。
1887年(14歳)
15歳の姉ソフィア、結核で死亡。
1879年(16歳)
父の意向で工業学校入学。
1881年(18歳)
叔母カーレン・ビェルステルの尽力で美術工芸学校に入学。
1883年(19歳)
秋季展に入選。「病める子」の第一作クローグに贈る。
1885年(22歳)
パリに三週間滞在。マネに惹かれる。
1889年(26歳)
「春」
初の個展。政府奨学金で10月頃パリに行く。父の死。家計がムンクにかかる。
1890年(27歳)
5月パリより帰国。11月再びパリに発つ。
1891年(28歳)
「メランコリー」1891−92
5月に帰国。 秋再びパリに発つ。ノーベル賞作家ビヨンソン、度重なる政府奨学金授与に紙面にて抗議。
1892年(29歳)
「芸術家の妹インゲル」
フランス、ニースでビヨンソンの抗議に応える。三月末帰国。ベルリンで11月5日〜12日まで55点の作品の個展を開くが、 美術協会の緊急総会で120対105で即日閉館。しかしこれがムンクのデビュー。後デュセルドルフ、ケルンで展覧会を開く。
1893(30歳)
「叫び」「病室での死」「月光」「声」
居酒屋に集まる反社会的なグループ、ボヘミアングループに加わる。 「嫉妬」「愛と死」をテーマにした油絵を描く。
1894年(31歳)
「灰」「不安」「女の三相」「思春期」1894ー5 「その翌日」1894−5
銅版画を試みる。1月、4月ハンブルク。3月ドレスデン、フランクフルト。5月ライプッヒで個展。経済的困窮。
1895年(32歳)
劇作家ヘンリク・イプセンに作品「愛する女」を激励される。 医者の弟アンドレアス死亡。
1896年(33歳)
「メランコリー1」
パリに移る。色彩石版画と木彫画でペール・ギュントの劇のプログラムを作成。
1897年(34歳)
「母と娘」

パリに滞在。オスロで150点展示。ベルリンで個展。
1898年(35歳)
3月にベルリン。5月にパリ。秋ノルウェー滞在。
1899年(36歳)
「生命のダンス」1899ー1900「二人の人間/新陳代謝」
4月ベルリン、パリ、ニース経由でフイレンツエ、ローマに行く。秋からノルウェーでサナトリウムで療養生活。
1900年(37歳)
「汽車の煙」
1月サナトリウムで療養。3月ベルリン、フィレンツエ、ローマ、スイス、コモ。秋にノルウェー。
1901年(38歳)
「桟橋の少女達」
11月ベルリンに行く。
1902年(39歳)
冬から夏にかけてベルリンに滞在する。自殺を企てる。6月ノルウェーに帰国。婚約者トウラ・ラーセンが結婚を迫り、その時にピストルが暴発。ムンクの左手指の関節がとぶ。
1903年(40歳)
ベルリン、ハンブルク、ライプッヒ、パリ、リューベック、オスロ、秋に再びベルリンに行く。
1904年(41歳)
冬、ベルリン滞在。リューベック、ワイマールにアトリエを持つ。ノルウェーに帰国。3月頃から精神不安定。知人としばしば衝突。
1905年(42歳)
ベルリン、ハンブルク、ベルリンに滞在。1909年5月まで帰国せず。
1906年(43歳)
「ワイマールでの自画像」
ベルリンに度々出かける。ドイツ国内で数回個展開催。
1907年(44歳)
年末、ベルリンに定住。
1908年(45歳)
現代労働者と産業をテーマ。秋、ハンブルク、ストックホルム経由コペンハーゲンで10月頃神経衰弱から入院。ノルウェー王室より聖オラヴ騎士章を授与される。
1909年(46歳)
「人間の山」1909−10
フログネル公園にある塔、「モノリット」グスタヴ・ヴィゲラン作は「人間の山」のコピーである。
コペンハーゲンで入院。5月ノルウェーに帰国。一連の等身大男性肖像画、風景画を描く。リューベック、ベルリンに旅行。
1910年(47歳)
「太陽」1910−11「冬の風景」
オスロフィヨルドに面した農地を買う。
1911(48歳)
審査委員会、オスロ大学のアウラ講堂の壁画はムンクに決定。しかし、大学は拒否。
1912年(49歳)
「黄色い丸太」
壁画製作。
1913年(50歳)
「情熱」
ドイツ、北欧の都市を旅行。
1914年(51歳)
「歴史」「フィヨルドに昇る太陽」「アルマ・マーテル」1914ー15
ドイツ各都市で個展。オスロ大学、講堂壁画受け入れ発表。
1915年(52歳)
ドイツ青年技術家への経済援助。
1916年(53歳)
「キャベツ畑の男」
オスロ近郊エーケリを買い取り、そこで亡くなるまで住む。大学講堂壁画序幕。ベルゲンで個展。
1917年(54歳)
ストックホルム、ヨテボリで個展。
1918(55歳)
大学の壁画と生命のフリーズ考案。
1919年(56歳)
生命の製作。ニユーヨークで版画展。オスロで個展。
1920年(57歳)
ベルリンで個展。
1921年(58歳)
第一次世界大戦後を旅して労働者に関心。ベルリン、リューベック、ハンブルク、オスロで個展。
1922年(59歳)
フライエチョコレート工場の従業員カフェテリア用に絵を描く。
1923(60歳)
ドイツアカデミー会員。ヨテボリで北欧美術展に名誉招待画家として出展。
1924年(61歳)
ドイツ芸術家支援基金の為、多くの版画を寄付。夏ベルゲンで過ごす。シツトガルト、ドレスデン、ベルリン、ウインで個展。
1925年(62歳)
ミューヘン、バイエルン造形美術アカデミー名誉会員。西ノルウェーを旅。
1926年(63歳)
妹ラウラ死。ドイツ各地で個展。
1927年(64歳)
ベルリン、ミューヘン、ローマ、フィレンツェ、ドレスデン、ケルン、パリ旅行。オスロ国立美術館で289点展示。
1928年(65歳)
「病める子」ドレスデン絵画館が購入。
1929年(66歳)
エーケリーに冬のアトリエを作る。建設する人達のスケッチ。ストックホルム、ハンブルクで版画展。オスロで個展。
1930年(67歳)
右目出血。制作に支障。後、再発。
1931年(68歳)
叔母カーレン・ビョスタ死去。 目の障害。ベルリン、デュセルドルフ、ベルン、エデインバラで個展。
1932年(69歳)
2月20日〜3月20日、チューリヒで個展。
1933年(70歳)
オースゴールストラン、ヴィトステーン、クラーゲルで過ごす。
1934年(71歳)
ベルゲンに旅行。カーネギー国際展に出展。
1935年(72歳)
???
1936年(73歳)
ロンドンで個展。
1937年(74歳)
ドイツにあるムンクの作品82点が退廃的とされ、ナチス押収。
1938年(75)歳
目の障害再発。
1939年(76歳)
オスロで、ナチスが押収した油絵14点、版画57点のオークション。
1940年(77歳)
「柱時計とベットの間の自画像」 1940−2
目の病気。ナチス、ノルウェーを占拠。ナチス、その協力者を拒絶。自画像制作が増える。
1941年(78歳)
エーケリーとヴィトステーンでジャガイモ、野菜、くだものの栽培をする。
1942年(79歳)
4月、ナチス協力者による「芸術と非芸術」展開催。ムンクの絵4点展示。
1943年(80歳)
エーケリで意欲的に制作。12月9日、近くの波止場の爆発事故で神経が昂ぶり、風邪をこじらす。
1944年1月23日亡(80歳)
遺言で、油絵1,000点、版画1,540点、水彩、素描4,500点、彫刻6点、手記などがオスロ市に贈られる。

ムンク美術館、国立美術館以外で観られるムンクの絵
コンチネンタルホテル
Continental Hotel
Stotingsgt.24−26
0166 Oslo
オスロの街中にあるコンチネンタルホテルの一階フロントの横のバーに 本物のムンクの版画が壁に飾ってありましたが、盗難続発のせいか、今はコピーに変わってしまいました。

グランドホテル
Grand Hotel
Karl Johansgt.31
0184 Oslo
街の目抜き通りカール・ヨハン通りに面しているホテル。
1階のグランカフェの絵。(Grand Cafeと書きますが、ノルウェー語では最後のdを発音しないことが多いです。
この場合グランドカフェとは言わず、グランカフェといいます。ホテルの名もノルウェー語ではグランホテルといいます)
若い頃のムンク達に多大な思想的な影響を与えた人にクリスチャン・クロークがいます。
その息子ペール・クロークの描いた大きな絵がグランカフェの奥まった壁一杯に飾られています。
その絵の中には1890年代のノルウェーの著名人が多く見られます。(当時の彼らの溜まり場だった)
絵の中の右から4人目、座っているのが若い頃のムンク。
一番左に描かれているのは、劇作家のヘンリク・イプセン。
真ん中のひげの男がクリスチャン・クロークです。
絵は1928年に描かれ、グランカフェには1932年に飾られました。
ムンクの描いた絵ではありませんが、こんなところにもムンクが見られます。

ムンクホテル
Munch Hotel
Munchgt.5
0130 Oslo
街中にあるホテル。
ムンク通りの一角にあるホテルには、ムンクの絵が飾られています。
しかし、残念ながら本物でなく全てコピーです。

レストラン・ブロム
Blom Restaurant
Karl Johansgt.41b
0162 Oslo
街中にある高級レストラン。
前記のグランドホテルから王宮に向かって歩いて数分のところにあります。
レストランは通りから奥まったところにあります。
入り口から右側にムンクの本物の版画が数点飾られてあります。

フライエ・チェコレート工場のカフェテリア
従業員用のカフエテリアに明るいムンクの絵が10数点飾られていますが、一般旅行者には解放されていません。

オスロ大学アウラ講堂
Universitetet i Oslo
Karl Johansgt.
1905〜1940年までムンクの大壁画の前でノーベル平和賞の授与式がありました。

オスロ市庁舎
Rådhus
0037 Oslo
毎年12月10日にノーベル平和賞の授与式が市庁舎であります。
市庁舎の授与式のある大きなホールの右の階上にある部屋にムンクの「人生」という絵があります。
ドイツのドレスデンにあったが、ヒットラーには芸術としてみなされず返還されたものです。
今となればラッキーだったかもしれません。
入り口にロープがかかっていて中に入れませんが、外から絵をみることができます。


ムンクを追え「叫び」奪回84日・エピソード
BS−JAPANで2007年2月24日21:00〜22:50に 放送された、ムンクの番組です。
テーマは1994年2月14日リレハンメル冬季オリンピックの開催日に国立美術館からムンクの「叫び」が盗まれました。
その奪回までの話しです。
内容:
事件解明はオスロの警察の手に負えず、ロンドンのスコットランドヤードに捜査を依頼しました。
そこで登場したのが囮捜査官チャーリー・ヒルです。
チャーリ・ヒルは実在するアメリカのバイヤー、クリス・ロバーツに化けて「叫び」を奪回しました。
その物語です。

登場人物はヒル、インタヴィユーをした人たちは実在の人たちです。
そこまではいいのですが、「予算がありません。何とか誰かを探してください。役者ではなくエキストラと考えて下さい」とリサーチ(アポイント取りなどの準備)の後半になってこんなメールがありました。
(実際はエキストラではなく、役者でしたが、、)
仕事の話があった時には、ただのムンクのドキュメンタリー番組と思って引き受けただけに、ビックリです。
よっほど仕事をキャンセルしょうかと思いました。
役者の撮影が1日ならいいのですが、数日にわたって撮影があります。
誰が、学校、仕事を抜け出してまでロケに来てくれるのかと本当に暗い気持ちになりました。
しかし、走り出した汽車を止めることができません。
とにかく、できるだけ自由がきいて、よく知っている人で多少の無理をきいてくれる人たちをピックアップしました。

時間がかかりましたが、犯人役と捜査官役の8人をやっと見つけました。皆、私の知り合いです。が、今までに一度も演技をしたことがなく、学芸会にさえでたことがない100%のど素人です。

下記が製作会社の希望する人物像です。⇒が実像です。

*ウルビク
50歳、少し頭が薄い、神経質、画商で少しプライドが高い。犯人。
⇒54歳、NRK(国営放送)でテレビの字幕つくりをしています。
時々、思い出したように電話をくれます。
ある日偶然電話があり、絶好のチャンスとばかり、「日本のテレビにでない」と声をかけました。OKです。

*ヨンセン
26歳。犯人。
⇒46歳、ロケの時はいつもロケ車の運転を頼む友人です。
スウェーデンからの帰り、ガソリンスタンドで偶然会い、「お前いい男だネ。ところで簡単な役なのだけども日本のテレビにでない」OKです。
撮影が終わった後、「英語を話すとは思わなかった。図られたとぼやいていました」まあ、なかのいい友人なので笑ってごまかしました。
私自身も仕事の依頼があった時は、まさか英語を話すとは思っていませんでした。

*シド・ウォーカー」
183cm、104kgの大柄な40歳後半。捜査官。
⇒30歳、甥(血のつながりのない甥でオスロから西に100km行ったコングスバルグという町に住んでいる)。
暇そうにしていたので頼みました。

*帽子男
26歳。黒ずくめ。いつもニットの帽子をかぶっている。ギョロットした目。目に狂気。犯人。
⇒21歳。学生。次女のボーイフレンド。

*警備員
24歳。小柄。おとなしい。国立美術館の警備員。
⇒ 22歳。帽子男の役の友人。

*謎の男
20代後半。背が高い。黒っぽい服。犯人。
⇒20歳。学生。191cm。三女のボーイフレンド。

*ジョン・バトラー
50代。紳士。捜査官。
⇒54歳。個人会社経営。オスロ大学の柔道部の友人。柔道が大好きなのですが、ひどく弱くいつも派手に投げ飛ばしていました。また寿司大好き人間で今度一緒に日本に行こうとはりきっていますが、一緒に行けば、添乗員みたくいろいろと世話をするのでしょうね。きっと。

*電話の女性
電話で指令を出す人。犯人でも捜査官でもない。
⇒22歳。学生。次女。本当に短いので誰かギヤラなしでやってくれる人を探して欲しいということでした。
まさか、こんなこと人に頼めません。結局私から娘に多少ギヤラを払い、それに「どくだみ茶」2袋で我慢してもらいました。電話をしている口元だけの撮影ですが、それでも3時間も待ち時間がありました。

娘たちのボーイフレンドは、どうも私を怖がっている様子で、 出演は快諾です。
彼らが家に遊びに来るときは、いつも赤鬼のような怖そうな顔をしています(実際は怖くない)。

ノルウェーで人を使うのは、高くつきます。
夜仕事をすると残業手当などが複雑に計算され、その面で必ず誰かから不平、不満が噴出すると思っていました。
仕事を頼む前に、「テレビの仕事は、ヤクザな仕事

後日談
10月中旬にディレクターから連絡がありました
このムンクの番組が「民放連のテレビエンターテイメント部門優秀賞」と「ATP賞の新人賞」を取ったということです。
苦労した番組だけに、めでたしめでたしです。

つづく