追悼ホアキン・ロドリーゴ





『アランフエス協奏曲』を作曲した
ホアキン・ロドリーゴ (Joaquin Rodrigo Vidre) が、
7月6日、マドリードの自宅で老衰のため死去した。97歳だった。
七日、アランフエスの王宮で、追悼のミサが行われた。
アランフエスには、妻ビクトリアが既に眠っており、
ホアキンは、同じ墓地に埋葬される予定である。

ロドリーゴは、1901年11月22日、バレンシア県サグントで、
6人兄弟の末っ子として、生を受けた。
しかし、3歳の時にジフテリアに罹り、失明した。
その後バルセロナで手術を受け、一時的に光を見たものの、
結局視力を回復することはできなかった。
生前ロドリーゴは、この失明こそが
自分を音楽への道にすすませた、と言っている。
盲目の子どもたちの集まるバレンシア音楽院に入学し、
8歳にしてソルフェージュ、ピアノ、バイオリンを学んでいた。
やがて生涯の親友ラファエル・イバーニェスに出会う。
ロドリーゴは彼のお陰で文学的素養をも身につけていくことになる。
さらにイバーニェスは、ロドリーゴの秘書となって雑用をひきうけ、
また、ロドリーゴの曲を浄書したりした。
「私はあいつの眼を借りている」、と言って、
ロドリーゴは彼によく謝意を表したものだった。
20歳で、ピアニストとして素晴らしい技量を披露していた。
また、この頃には既に作曲活動も始めていた。
ラベルやストラビンスキーと交友を持ったのも、この頃である。
1927年、かつてファリャやアルベニスといった先人が
そうしたように、ロドリーゴはパリに留学した。
パリではデュカスに師事し、大きな影響を受けた。
ここで将来の妻となるビクトリア・カミに出逢った。(33年に結婚)
1936年、スペインで内戦が始まり、ロドリーゴはパリにとどまった。
1939年、内戦が終結し、ロドリーゴが再び祖国の地をふんだとき、
作曲家の鞄には、かの『協奏曲』の最終稿が入っていた。
妻が、アランフエスの情景をロドリーゴに語り聴かせていたのである。
スペインの伝統音楽と宮廷音楽を巧みに組み合わせた この『アランフエス協奏曲』は、
1940年、バルセロナで初演され、
大成功をおさめ、世界中の喝采を浴びた。
この協奏曲は、その魅力的で抒情に満ちた音楽性もさることながら、
ギターという楽器の可能性を格段に広げたことで、
音楽史上の記念碑的な作品となり、
ロドリーゴの名声は不朽のものとなった。
また、国内外の盲目者や障害者に対して、
大きな勇気を与えることにもなった。
この成功の後も、ロドリーゴのの創作活動の勢いは止まらなかった。
彼は、80歳になるまで、ジャンルを問わず、
管弦楽曲、ピアノ曲、声楽曲、バレー音楽、
映画音楽、サルスエラなどに、
精力的に取り組み続けた。
老境に入ってからは、様々な賞を受けたが、
ロドリーゴの態度はつねに謙虚であったという。

代表的な作品に、『アンダルシア協奏曲』、
『スペイン舞曲』などがある。
『アランフエス協奏曲』を筆頭にする彼の作品群は、
時を経ても色あせることはなく、
世界中の人々に愛され続けてきた。
巨匠は亡くなったが、人々はこれからも
彼の曲を愛し続けることだろう。


7日付読売新聞夕刊に掲載された、音楽評論家濱田滋郎先生の話

「マヌエル・デ・ファリャ以降のスペイン楽壇の第一人者で、
作風は民族主義だが、そこに二十世紀らしい新しさも加えた。
伝統的な手法の中で、あれだけ個性を発揮できたのは大変なことだ。
盲目ながら、非常に明るく、元気を与えてくれる曲を数多く残した人だった。」


・・・思えば、
このページの作者がアランフエスに傾倒したのも、
ロドリーゴの音楽に魅せられたからでした。

謹んでご冥福をお祈りいたします。




(写真はすべて、1999年7月7日付 "El Pais"紙 より転載しました。)


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