
ポルトガル旅行記
5日目 アルコパサ、カルダス・ダ・ライニャ、アライオロス観光後エルヴァスへ
今日はアルコバサ、カルダス・ダ・ライニャ、オビドス、アライオスを経てエルヴァスへ移動した。
少し寒いが朝食前にホテルの周辺を散歩する。ホテルの前に市場があり野菜や果物が並んでいた。まだ人出が少なかったが買い物に来たおばさんたちは膨らんだミニスカートをはいている。この格好はこの地独特のもので、丈が短いのは浜で仕事をするとき潮に濡れないため、膨らんでいるのは風に当たっても寒くないよう下にペチコートを5枚も重ねているからだという。
路地を歩くと黒い服を着ているおばあさんをよく見かけた。ナザレでは未亡人は黒い服を着る習慣になっている。
市場 路地
8時40分にホテルを出発、20分ほどでアルコバサに到着しサンタ・マリア修道院を見学する。初代のポルトガル王アフォンソ・エンリケスは1147年にイスラム支配下のサンタレンを攻略したさい、勝利の暁には修道院を建設すると誓った。この修道院は祈願が叶った王によってアルコ川とバサ川の間に1153年に建てられたものである。オリジナルの部分はファサードとバラ窓だけで残りの部分はリスボン大自信の後にバロック形式で作り直された。
最盛期には1000人に1人足りない数すなわち999人の修道士がいて13の町を管理していた。修道士たちは白い服を着ていたが、畑私語ををする修道士は茶色い服を着ていた。
サンタ・マリア修道院
この修道院には長さ106mというポルトガルで最も長い身廊がある。この修道院は装飾は瞑想を妨げるという聖ベルナルドの教えの通りに造られているので内部はシンプルである。
身廊 主祭壇
ここには悲恋物語の主人公ペドロとイネスの棺が収められている。ライオンによって支えられたペドロの棺の側面には皮を剥がされて殺された聖バーソロミューの生涯やペドロとイネスが幸せだった頃の生活、イネスが殺されたときの様子が彫られている。
ペドロの墓
聖バーソロミューの生涯の彫刻
イネスの棺はイネスを殺した3人の暗殺者が怪獣の姿になって支えられていて、側面にはキリストの生涯や最後の審判の様子が彫られている。
ペドロとイネスの棺は復活したときにすぐ向き合えるように足を向かい合わせて置かれている。2つの棺はポルトガル彫刻の最高傑作とされているが、イネスの棺はナポレオン軍によって傷つけられている。
イネスの墓
身廊の壁に指を指した手が彫られていた。この修道院では修道士が外に出なくても水を手に入れられるよう川の水を引いてきている。この手は下に水路があることを示す標識である。
水路を示す標識
次に王の間を見学する。ここには歴代の王の像が置かれていて壁の下部にはサンタレンの戦いや修道院建設の様子を描いた18世紀のアズレージョがある。
王の像
次いで沈黙の回廊に出る。修道士たちは口をきくことwぽ禁止されていて、用のあるときは手でサインをしていた。
沈黙の回廊
回廊はアズレージョで飾られ、リスボン大地震の際に壊れたファサードから移したマリア像が置いてあった。
アズレージョ マリア像
中庭の隅には噴水があり、そのそばに食堂がある。修道士たちは当初1日1回しか食事をしない質素な生活を送り、食事中に口をきかないよう壁に向かって座ったり、背中を向かい合わせて座ったりしていた。食堂の壁には食事中に聖書を読み上げる壇が作られている。
噴水 聖書を読み上げる壇
しかし18世紀になると修道士たちは堕落して肉食するようになり働かなくなってしまったので肥満者が増え、テーブルに肥満者のために切り込みを入れていたという。食堂の壁には幅の狭い通路がついているが、ここを通り抜けられない修道士はダイエットをしなければならなかった。
肥満チェック用の出入り口
厨房には川の水を引いてきた水場や高さが35mもある大きな煙突、石造りの流し台や8トンもある大理石製の調理台があり、一度に7頭の牛を調理できたという。修道士は日常身体を洗わなかったが、病気になったときはこの水場で洗ったという。
水場 煙突
流し 調理台
厨房の隣には大きな倉庫があり、隅に狭い牢屋があった。
倉庫 牢屋
倉庫の隣の部屋は修道士のドミトリーになっている。ドミトリーは広い部屋でお互いに監視しながら生活していた。ここからは礼拝堂へ直接下りられる階段がついていた。
ドミトリーから眺めた礼拝堂
会議室には聖ベルナルドのほかたくさんの像が飾られていた。
聖ベルナルド像
10時10分バターリャを出発、35分ほどでカルダス・ダ・ライニャに到着した。カルダス・ダ・ライニャとは「王妃の湯治場」という意味でジョアン2世の王妃レオノールがここで泉に浸かる人々を見て自分も入ってみたところリウマチの痛みが軽減したことから、療養所を作った。今でもレオノーレ王妃鉱泉病院が続いている。
レオノーレ王妃鉱泉病院
町の中心部にあるレプブリカ広場で朝市が開かれ、野菜や果物、菓子などが売られていた。キャベツがおいてあったたが、ポルトガルのキャベツは1m近い茎の先に玉が着き、葉には細かい皺がたくさん入っている。
レプブリカ広場の朝市 キャベツ
自由時間になったので町の中を散歩する。陶器屋の店先にはキャベツの葉など野菜をかたどった陶器がたくさん並んでいた。菓子屋にはカバッカスという菓子が並んでいた。土屋さんが買ってくれたので食べてみるとシュークリームの皮に砂糖をまぶしたようなやたら甘い菓子であった。日本人から見ると外国の菓子はどこの国でもやたらと甘い。
キャベツの陶器 カバッカス
11時30分カルダス・ダ・ライニャを出発し20分ほどでオビドスに到着した。オビドスの町はディニス王の妃イザベラガが気に入って1288年にディニス王にレゼントしてもらった。以来1833年まで王妃の直轄地になっていた。
町の周囲は城壁で囲われており、ポルタ・ダ・ヴィラと言われる城門から中に入る。城門はまっすぐ通り抜けられないよう折れ曲がっていて曲がり角にアズレージョで飾られた祭壇がついている。
城門 祭壇
オビドスの通りは城門の近くで高い通りと低い通りの2本に分かれている。高い通りはディレクタ通りといいメインストリートになる。
高い通りと低い通り ディレクタ通り
ディレクタ通りを歩いていくと右手にサンタ・マリア教会があった。教会の前のサンタ・マリア広場にはペロウリーニョが建っている。レオノーレ王妃は水死した息子への悲しみを胸にオビドスにやってきたが、ペロウリ−ニョには王子の遺体を引き揚げた網が刻まれている。
サンタ・マリア教会 ペロウリ−ニョ
教会の内部には18世紀のアズレージョが残っている。
主祭壇 アズレージョ
広場に面して粘土細工の工房があった。台の上にうどん状の粘土を置いて籠を作っていた。
粘土細工 粘土の籠
ディレクタ通りの突き当たりに城の址があった。この城址は現在ポウサーダになっている。城の前からはオビドスの全景が眺められる。
城址 城壁
城の前からのオビドスの眺め
城址を見た後、ディレクタ通りに面したアルカイドというレストランで昼食をとる。メニューは豆のスープ、子牛肉の赤ワイン煮と野菜とポテト、クレマというカスタードクリームであった。
アルカイド
豆のスープ 子牛肉のワイン煮
食後45分間の自由時間になったので城壁に登って町の景色を見ながら歩く。道幅が1mほどあり片側が壁なので高所恐怖症の私にも歩けたが、路面がごつごつした角のある石畳で、風当たりが強かったのでかなり歩きにくかった。
城壁の道
城壁からの眺め
14時オビドスを出発しエルバスに向かう。途中テージョ川の河口にかかる全長18kmのヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡る。ヴァスコ・ダ・ガマ橋は1998年の万博に合わせて造られた橋でヨーロッパで最も長い橋である。テージョ川はイベリア半島最長の川で全長1120kmある。
ヴァスコ・ダ・ガマ橋
ヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡るとアレンテージョ地方に入る。これまでは道端の林はひょろひょろとうえに伸びたユーカリの林か松林で見栄えがよくなかったが、アレンテージョに入ると横に枝を張り出した樹形の木に変わってきて美しい風景になる。
ドライブインで休憩をとったとき近くにコルク樫の林があった。幹を見るとコルクを剥がした跡がありその部分だけ茶色くなっている。1度剥がすと次に剥がせるようになるまでに7年かかるという。最初に剥がしたコルクはバージンコルクというが、これは使い物にならないそうだ。コルク樫はポルトガル南部に多く生えていて、ポルトガルのコルクの生産量は世界の55%になっている。
コルク樫 コルクを剥がした跡
16時40分アライオスで下車する。アライオロスは人口4000人の村で丘の上には14世紀の初めデニス王によって造られた城址があり、その中に教会が建てられている。
城址 城壁
教会 アライオロスの街
アライオロスの名物はクロスステッチの絨毯で、17世紀から織られている。当初はアジアの影響が強かったが、だんだん花などのデザインに変わってきた。1平方メートル作るのに15日かかるという。
絨毯
17時30分発、19時20分エルヴァスに到着しポウサーダのサンタ・ルチアに落ち着く。このポウサーダは1942年に造られた最初のポウサーダである。
ポウサーダ・サンタ・ルチア
夕食はポウサーダのレストランでとる。メニューはサラミ、豆などを盛り合わせた前菜、干し鱈料理のバッカリャウ・ア・ブラージュ、サーモン、デザートであった。このポウサーダは食事が名物というだけあってどれもおいしかったが干し鱈料理だけで満腹になってしまいサーモンを食べられない人が多かった。