20世紀末、同世紀の初頭に、2度にわたって
 大きな戦争を体験し、国土を焦土化させ、
2度と戦争をしないと誓った欧州が、
再度武器を持ち、同じ欧州の一部に爆弾の雨を降らせた。

1999年3月24日から6月10日までの78日間、
ユーゴスラヴィアは、NATO(北大西洋条約機構)により、
爆撃され、多くの市民が犠牲になった。

「空爆」と称されたその紛争の是非についてはわからない。
しかし、ここにあるベオグラード市の空爆の跡を見て、
はっきりと言えることがある・・・と思う。
暴力のともなったその行為について・・・。


TARGET・1

共和国内務省


 3月24日にNATO軍による空爆が開始されてから、11日目にして、その攻撃対象は、首都ベオグラードにまで及ぶようになった。そして最初の首都の攻撃目標になったのは、共和国内務省であった。4月3日、0時45分。ミサイル攻撃を受け共和国内務省ビルが燃え上がった。当時、コソボ地方では、多数のアルバニア系住民が難民となって、周辺国へ逃げ出す事態が続いており、NATO軍としては、ユーゴ政府にさらなる圧力をかける必要から、首都への空爆へ踏みきったものと思われた。同夜、ユーゴの第2の都市ノビサドのドナウ河に架かる橋も攻撃を受け、市内といえど安全ではないことを知り、市民は大きな恐怖に包まれた。

TARGET・2

連邦内務省


 連邦内務省も共和国内務省とともに、4月3日午前0時45分攻撃を受けた。これら2つの建物は、道路をはさんでお互いに向かい合っており、常に同時に攻撃を受けた。この日に続いて、4月30日午前2時23分と5月25日午前2時50分にも攻撃を受け、まったくの瓦礫と化した。


TARGET・3

空軍司令部


 NATO軍によるユーゴへの空爆は、時間を経るにしたがって、攻撃の範囲も規模も拡大し、その被害も増大していった。
 4月5日には、24時間の空爆体制が整えられ、イタリアの空軍基地からだけでなく、ドイツからも直接、攻撃機が飛来し、首都を爆撃するようになった。
 そして、その5日の午前4時18分、ベオグラード市に隣接するゼムン市にある空軍司令部が爆撃を受けた。同司令部は、街の中心部の民家が密集する地域にあり、その被害は周辺住人にも及んだ。





TARGET・4

ビジネスセンター




 首都ベオグラードの次なるターゲットになったのは、ビジネスセンタービルであった。4月21日午前3時15分。3発のミサイルが同ビルに命中し、ビルの上層部と下層部が炎上した。
 このビルには、ミロシェビッチ当時大統領が党首を務めるセルビア社会党の本部事務所が入っていた他、同人の妻ミリアナ・マルコビッチ夫人が率いる政党・左翼連合のラジオ・テレビ放送局や同人の娘が経営する放送局も入居していた。





 NATOが、ミロシェビッチ体制を支える政権中枢機関とその宣伝機関を攻撃対象にしたのはこれが始めてであった。シェイ報道官は、会見の場で、同ビルの攻撃について、「ミロシェビッチ大統領の権力構造の中心であり、宣伝戦略の道具でもある。価値が大きい標的だ」と説明した。しかし、これはNATOが当初攻撃目標として表明していた軍事施設とは明らかに異なる対象物であり、ミロシェビッチ体制を中心から揺さぶる目的があるといえど、NATO側に戦果をあげられない焦りのようなものが原因になっていることが、見て取れた。



 同ビルは4月27日午前1時4分、再度攻撃を受け炎上する。


TARGET・5

国営放送局


 NATOによる空爆の攻撃対象は、拡大の一途をたどり、放送局もターゲットになっていった。
 4月23日午前2時5分、セルビア国営放送局(RTS)が爆撃された。当時、建物内には70名近くが活動していたとされており、死者は10人を数えた。
 NATOによるユーゴへの空爆は、実際の戦闘とは別に、メディアによる戦争が繰り広げられていた。もともと欧州の一地方の紛争を大きく世界的に報道し始めたのはCNNであり、同局は空爆が始まった当初、特集を組んで、多くの時間を割いてその報道にあてた。他方で、ユーゴのメディアも、国民に対して、政府の正当性、NATOの不当性を訴え、外に対しては、被害を大きく報道し、人道的に不当である旨訴えて、NATO諸国の霍乱を図っていた。

 特に誤爆が起こった際には、ユーゴのメディアは、格好の宣伝材料として、内外に空爆の不当性を報道したことが、NATO以外の国のみならず、NATO諸国内にも動揺を呼び起こし、結束を崩していった。そしてそのことが、NATOの強い反感を買っていただろうことは容易に想像できた。その急先鋒国営放送(RTS)に攻撃の的があてられたのは、ある意味で当然の帰結であったかもしれない。
 しかし、放送局による攻撃は、明らかに軍事施設とは異なることは、誰の目にも明らかであり、結果、さらに内外に空爆に対する疑問の声を拡大させることになった。NATOは、ミロシェビッチ政権は、「憎悪と嘘」の宣伝攻勢に努めており、放送局は「合法的な軍事攻撃目標」と説明した。しかし、イタリアのディーニ外相が同攻撃に対して不満を表明し、「このような攻撃は、作戦計画の標的リストになかった」と指摘し、NATO内部の意見の違いを表面化させただけでなく、ブリュッセルにある国際ジャーナリスト連盟は、「報道関係者の生命を脅かす信義違反の行為」と批難、国際アムネスティも、「攻撃をどう正当化していいのかわからない」との声明を出した。




TARGET・6

アバラ・テレビタワー


 メデイアに対する攻撃は続いた。4月29日午後10時44分、ベオグラード郊外のアバラ山にあるテレビ塔が爆撃を受け、倒壊した。 同テレビ塔は、1966年に建設されたもので、ユーゴ最大のテレビ塔であった。これにより、ユーゴ国内のテレビ放送が一時とだえた。


ありし日のテレビ塔(絵葉書より)





TARGET・7

連邦国防省




 4月29日から30日にかけて、過去最大規模の空爆が実施され、述べ600機を越える爆撃機や戦闘機が出動した。標的目標には、首都ベオグラードの官庁街も標的に含まれ、2時30分連邦国防省ビルがミサイル2発の攻撃を受け炎上した。シェイ報道官は、これらの施設への攻撃について、「コソボ内の軍や治安部隊を指揮する頭脳部だから」と説明した。

 この攻撃で、同ビルを警戒中の警察官1人と、赤信号で停車中の車にいた民間人2人が死亡した。さらに、同ビルから約3km離れた高級住宅街にも爆撃があり民間人に重軽傷者が出た。
 同ビルは、5月7日午後11時40分、8日午前1時51分にも攻撃を受けている。




TARGET・8

中国大使館


 5月7日午後11時40分、世界に衝撃が走った。「中国大使館爆撃」の報道に誰もが耳を疑った。しかし延々と黒煙をあげるビルの映像は、それが真実であることを明らかにしていた。死者4名、負傷者21名。国連安保理は緊急協議を開催し、懸念を表明し、NATO空爆の疑問の声をさらに広げることとなった。





 中国大使館は、5階建てで、市の中心部から数キロ離れた新市街の一角に1994年に建てられたもの。攻撃には、レーザー誘導弾が使用され、操縦士が始めから誤った目標に照準をあてて発射した。被弾は3発。異なった方角撃ち込まれ、うち1発は地下室まで貫通した。

 NATOは、同攻撃は兵器調達司令部と誤認した、いわゆる誤爆であるとして、ソラナ事務総長は自ら陳謝した。そして誤爆の理由として、古い地図を使ったと説明した。しかし、中国大使館に対する空爆が意図をもってなされたのか誤爆だったのかその後も長く議論を呼んだ。



 空爆に対してはそれまで大きな意見表面をせずに、むしろ静観していたといってもよかった中国政府も、これで当事国の一員となった。中国本土では、米国大使館や総領事館に対する学生や市民のデモが白熱し、拡大の一途をたどった。


TARGET・9

ホテル・ユーゴスラヴィア


 中国大使館が攻撃された同時間に、ホテル・ユーゴスラヴィアも攻撃を受けていた。
 5月7日午後11時40分、8日午前1時55分及び2時10分にホテルは爆撃された。
 1回目の攻撃で、ホテルの裏側が被弾し、全館が炎につつまれた。当時約30名の客がいた模様であるが、うち1名が2階目の攻撃で自室で死亡した。





 同ホテルには、アルカン(本名ジェリコ・ラズナトビッチ)が率いる民兵組織「タイガー」の司令部があったとされ、それが攻撃の理由となった模様だ。 
 アルカンは、民兵を率いて旧ユーゴ紛争に参加し、多数の一般市民を虐殺したことで悪名をはせており、1997年には国際戦犯法廷で人道に対する罪で起訴されていた。今回のコソボ紛争にも、民族浄化作戦に加担している疑いが極めて高かった。
 ちなみに、アルカンは2000年1月15日5時15分、ベオグラード新市街のインターコンチネンタルホテルのロビーで、銃弾を受け、戦犯法廷で裁かれることなく死亡した。47歳であった。




TARGET・10

セルビア共和国政府


 5月8日午前3時16分、中国大使館への爆撃で内外から多くの批難が集中する中、NATOは再びベオグラード中心部を爆撃し、セルビア共和国政府を攻撃した。



 同ビルは、1928年から38年かけて建築された風格ある建物だった。



 1999年6月10日。
 マケドニア北部クマノボのNATO軍基地内において、
ユーゴ政府とNATO軍高官による協議の結果、
ユーゴ側はコソボからの全面撤退に同意し、
78日間にわたった空爆は終了した。
当夜、ベオグラードはじめユーゴ全土で
多くの市民が終戦を歓喜で迎えた。

しかし誰しもが納得している訳ではなかった。
紛争の火種であったコソボは、ユーゴ政府の
手を離れ、国連による統治が開始された。
しかし、その後もアルバニア系住民による
非アルバニア系の攻撃事件が続き、
再び多くの難民が発生した。
そして、民族的差異を理由に、殺されたり、
負傷したりする事件は、今なお続いている。
何ら問題は解決していない。

爆撃された国営放送局の傍らに今、碑が立っている。
そこには、この放送局への攻撃で死亡した人の名前とともに、
セルビア語で次の言葉が刻まれている。

「ZASTO?」

「何故」という意味である。
どうして空爆されなければならなかったのか。
どうして殺されなければならなかったのか。
そのような問いかけが、なされている。

「ユーゴスラヴィア空爆」という事実は、
やがて風化していくかもしれない。
しかし、この何故という問いかけに対して
答えを見出そうとしないならば、
場所は異なっても、同じ経験を繰り返すことになる。
涙のともなう経験を・・・。