
威海
威海市は、山東半島の最東端にあり、三面を海に囲まれ、一面は陸と接しています。東は朝鮮半島、日本列島を望み、西は、烟台、青島と連なっています。総面積5436平方km、人口250万人。威海の気候は、恵まれており、厳寒も酷暑もなく、過ごしやすいようです。夏は海水浴ができるし、夜は涼しい潮風が吹くので避暑にはいいかもしれません。年平均気温12℃。降水量800mm。
威海は旅行資源が豊富ですが、なかでも劉公島と成頭山は国家級風景名勝区です。槎山、聖水観、聖経山は省級風景名勝区で、環翠、銀灘、石島湾、天鵝湖は省級旅行区です。
劉公島まで、波止場から船で20分。一人往復20元。
威海から成山頭風景区まで75km、バス停から90分。毎日6:30~17:00、30分に一本発車。一人10元。
威海から昆○山風景区まで65km、バス停から120分。毎日9:54と14:42のバスがある。一人10元。
威海から石島風景区まで80km、バス停から、120分。毎日6:10から、15分おきに発車。一人10元。
威海から槎山風景区まで100km、バス停から、毎日、9:58、13:58、15:28の三本ある。一人10元。
威海から聖水観風景区まで30㎞、バス停から、50分。毎日7:00、7:10、7:30、7:50、9:00、10:00、10:40、11:40、12:30のバスがある。一人4元。
威海から中央電視台威海映画城まで10km、15番バスに乗って40分。毎日6:00から10分ごとに運行しています。一人1元。
タクシー代は初乗り3km5元、その後1㎞ごとに1,2元。
劉公島
入場料;海戦館25元。甲午戦争博物館20元。劉公廟10元。
劉公島は、威海湾に位置し、威海から観光波止場まで、2.1カイリで、船で20分のところです。昔から、沈まない軍艦ともいわれています。劉公島は南から北へと狭くなっており、東西の長さ4、08km、南北の最も広いところで1,5km、狭いところでは、0、06キロメートルで、海岸線の長さは14、95km、面積3、15平方km、最も高い旗頂山は、海抜153、5mです。
それほど大きいわけではないので、徒歩でかなり回れるということです。
島の東には碧海、煙波。島の西は、市区。全島黒松を主とした植物に覆われている。ということで、自然も豊富。
劉公島は、威海の天然の障壁として、国防上きわめて重要な地点です。1888年、北洋海軍が結成されたとき、島に電報局、水師学堂、北洋海軍提督署、鉄の埠頭ができました。中国近代史上はじめての海軍“北洋水師”が発足したのです。1894年、中日甲午海戦がこの島の東部海域でおこりました。今は、観光地と愛国主義教育の基地として有名です。
甲午戦争とは、日清戦争のことです。こうやって呼び方が違うから難しい。
<島にあるもの>
江沢民総書記による“中国甲午戦争博物館”の碑、
甲午戦争博物館(海底から引き上げられた重さ20トンの巨大艦砲、世界でもわずかしか現存しないこのような大量の珍しい文物を収蔵)
北洋水師提督署と丁汝昌の仮住まい跡、
甲午戦争で使われた埠頭や砲台、
甲午の英雄を記念している北洋水師忠魂碑、
中国兵器発展の歴史を展示する中華兵器館、
原始的な風貌を保つ国家森林公園、
甲午海戦館(効果音や光、模型など現代的な手法で甲午海戦の壮烈な場面を再現した)
歴史的背景
劉公島の名前の由来
主に二つの説があります。
1、東漢の末に皇族劉氏が曹魏政権の迫害を避けてこの島にやってきたというもの。
2、劉公劉母の民間伝説によるものです。伝説によると、大昔、南方から北に向かう商船が嵐にあい、数日間陸地をみることがありませんでした。食料も水も底をついて人々が絶望し、天に祈るばかりでした。ある夜一人の水夫が突然前のほうに灯りがあるのを発見しました。すぐさま大声でさけびだしました。“助かったぞ。助かったぞ。”火があるところには人がいる、人がいれば助かると思ったのです。一縷の希望によって急にみんなに力が湧き起こってきました。彼らは、必死に火に向かって船を走らせました。ついに、目の前にひとつの島がはっきりと姿をあらわし、一人の老人が手に彼らを導くための灯りを持って岸辺に立っていました。船を岸につけ、船の人たちは、砂浜に降り立ちました。老人は彼らを自分の粗末な家に案内し“私の姓は、劉といいます。みなさん劉公とよんでください”と挨拶をしました。劉公の妻も、親切な老人で、さっそく食事を用意しました。一掴みの米を鍋にいれると、すぐに煮え10数人が1碗また1碗とがつがつと急いでたべていくが、鍋の中は少しも減ることがありませんでした。船の人々は、これは神仙にちがいない、と悟り慌ててひざまずき、頭を起こした時には、劉公夫妻は見えなくなっていました。
次の日、船の人たちは、島に住む人々に、劉公劉母のことを聞いてまわりました。その後、劉公夫妻が助けてくれた恩に感謝して島の人たちと一緒に劉公劉母の祠を建てました。そこからこの島を劉公島と名づけました。
海軍の歴史
1874年、日本は台湾を侵略し、清政府は、海軍建設の重要性と緊急性を認識しはじめる
1884年8月馬尾海戦、福建水師全軍全滅、馬尾船工場や港湾の砲台はひどく破壊される。
1885年2月、南洋水師沈み、馭遠2艦も沈んでしまう。
これらの屈辱的な打撃をうけて、海軍建設において自己の技術が不充分であり、自身でつくったり購入する必要があることがわかったのです。まず、大小各種の艦60余艘をつくったり購入し、その中で、大きく馬力も強いものを北洋水師の配置しました。当時、北洋、南洋、粤洋の3つの海軍(後に粤洋は福建と広州に分かれて実際には4つの海軍になる)がありましたが、「財力は不充分なので3つに分けないでまず北洋水師を充実させていこう」という意見があり、清政府もこの意見に肯定的で、李鴻章も北洋水師を創立させようとしました。李鴻章は、当時の重臣でした。その権力によって、北方各省の海軍軍事を掌握し、北洋海軍の発展に大きき寄与しました。李鴻章は、清政府が戦艦を買う時に、先進の戦艦を北洋水師のものにしました。
1875年から1884年、清政府はまずイギリス、ドイツなどから戦艦15艘購入し、そのうち8艘を北洋海軍に配備しました。李は、“借調”といって、その他の海軍からも戦艦をもってきました。北洋海軍はみるまに壮大になっていきました。
1888年9月14日清朝廷は、丁汝昌を北洋海軍の提督に、林泰曾を左翼総兵に、劉歩蟾を右翼総兵に任命し、北洋海軍は正式に発足しました。主要な戦艦はイギリス製、ドイツ製というアジア1流の大小25艘の艦船をそろえ、質量ともに当時の水準の先進をいくものでした。そのなかでも定遠、鎮遠は、ドイツ製の先進巨大鉄甲艦で、排水量7335トン、馬力6000匹、口径150mmの大砲1門、口径75mmの大砲4門、機関銃10あまり、魚雷発射装置3、魚雷艇2艘装備、というとても強いものでした。これらの戦艦は、野心をもっていた日本を震えあげさせ、不用意に攻撃しかけようとはさせませんでした。済遠、致遠、靖遠、経遠、来遠の5艘は快速巡洋艦で、船体は軽く、馬力は大きく、船足は速く、いさましく西洋先進武器でした。
しかし1888年以後北洋艦隊は艦ひとつ大砲ひとつも追加しませんでした。大量の軍費は慈禧大后が頤和園を作るために使われていました。その間に日本は海軍を発展させてきました。
1894年、日本海軍の力は、はるかに中国を越えるようになりました。
ということで、丁汝昌、李鴻章という名前が、展示のあちこちに見られます。
現在“丁”の字形埠頭がみえます。これが先に紹介した鉄埠頭です。1889年に建設がはじまり、1891年竣工しました。厚い鋼板でできた柱が、海底まで挿しこまれています。埠頭の長さ205m、幅6、9m、上の軌道は、軍艦に石炭を積みこむためのものです。この橋は、2、3回修理を経ていますが、“丁”の字の橋は1971年もとからの基礎の上に建て増されたものです。
代表的な旅行記念品は、戦艦模型。土産物は、海産物。