青州博物館

最近日本でも公開され、話題の青州仏が展示されている博物館です。
仏像が好きな方なら、必見だと思います。

発見されたのが、1996年ですから、文革にあっていませんし、大事に埋められていたということで、状態がとてもよいといえます。

博物館だけでなく近くのダ山の大仏もいいと思います。

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青州石仏発見のいきさつ

19961016日早朝、博物館の裏手を散歩していた王華慶館長は、工事中に掘り起こされたあとの土層の一部が周囲といささか異なっていることに気付いた。王氏は、すぐに作業をやめさせ、夏名菜副館長を呼ぶとふたりで、スコップで掘り下げていった。

 やがて、薄暗い土中からいくつかの石塊が顔を出した。それらを懐中電灯で仔細に観察してみると、そこには彩色も目に鮮やかな石仏像が幾体となく折り重なっていた。二人が発見したのは、南北朝時代(439589)に隆盛をきわめた青州龍興寺の地下に作られた石仏の窖蔵だった。

 さらに窖蔵を掘り進めていくと、あまたの破壊片とともに3層に重ねられた石仏像が現れてきた。坐像は縦に置かれ、比較的完全な仏像は中間に、頭だけの像はあなの土塀にそってきちんと並べられ、最上段の石仏にはむしろで覆ったあとや焼香の痕跡が認められた。あきらかに計画的組織的にかくし埋められた物である。青州市博物館は技術者を総動員して発掘整理の作業にあたった。

発見後

この発見のニュースは、電光石火のごとく中国全土に漏れ伝えられ闇商人や骨董商らが続々と押し寄せ、市内には、不穏な空気さえ漂い始めた。当時、青州周辺から出土した石仏は、海外のオークションで1体数十万ドルの高値をよんでいたのである。館長らは軍隊と警察に救援依頼し、警護を受けながら突貫作業を続けた。

 窖蔵は底までの深さ345cm南北680cm東西870cmの大きさで、その中に400体あまりの石仏が埋められていた。大きい仏像は光背を含めて3メートル以上、小さな物約50センチ、石材の95パーセント以上が青州産の青灰色石灰岩で、他にわずかながら大理石(漢白玉)、陶質や鉄、泥塑、木質のものもある。製作年代は造像記によると、529年(北魏)から1026年(北宋)にいたる約五百年間に及んでいた。

 館長はじめ専門家たちを驚嘆させたのは、掘り出された石仏群の造像技術がハイレベルであるばかりでなく、千年の時を経ているにもかかわらず、ほとんどの石仏に施されている朱や緑や白や黒の彩色が鮮やかに残っておりふんだんに用いられている金箔が今も燦然と輝いていることだった。仏教美術史上、北魏から北斉における仏像はほぼ間違いなく鮮明な色彩に覆われていたことを新発見の青州仏は証明していた。

 これまで雲岡、龍門など北魏から唐にかけての石窟は知られていたものの、現存する北魏から北斉期の単体石仏の作品は限られていただけに、きわめて質の高い大量の青州石仏の出現は世界の仏教芸術研究者を震撼せしめるほどの事件だった。

 考古・文化財を管理する中国国家文物局は、青州出土の石仏を「1996年全国十大考古新発見」のひとつに指定した。

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最近発見されたばかりで、いろいろな説があるそうです。まだ、未整理の部分もあるようで、そのまま展示されています。

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青州石仏の疑問点

  1. これら四百体にも及ぶ大量の石仏は、どのように龍興寺に安置されていたのか。龍興寺に関する文献上の正確な記録は残っておらず、発見された石仏のすべての台座は地中に埋まったままである。やがて、遺址の発掘が進むに連れて明かになっていくであろう。これほどの仏像を擁していた伽藍の大きさは並大抵ではないと思われる。
  2. いつ、どのような理由で誰が破壊し、埋めたのか。廃仏説や戦争説はあるが、中国の学者内にもまだ定説はない。しかも破壊というものの何かで打ち壊したようなハンマーのあとのような痕跡は認められず、例外もあるがほとんどの仏像のお顔は無傷といっていい。いやいやながらゆっくり大きな石仏をゆっくり押し倒したという風情の壊れ方である。そのため石の崩壊現象みると自然な、つまり石灰岩特有の平行六面体に近い割れ方が傾向として多いように思われる。破壊し、隠した真の理由は何か?
  3. 青州出土石仏と日本の飛鳥・奈良仏との関連性である。環黄海文化(黄海を取り囲む山東半島、朝鮮半島、日本の北九州を一つの文化圏とみなした仏教伝播の様相―田邊三郎助氏の説)が、影を落としているように感じられる。

 

旅行社からもらった資料の引き写しです。不都合があれば、お知らせください。

出典は何かわかりません。