
Al Giovane Matematico in Italia
正宗淳
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東京出身,博士. |
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イタリアでの採用
自分がイタリアに来たのは、学生だったときにイタリアから来日していた数学者から、彼のところで働くのを誘ってもらったのがきっかけである。田舎の小さな大学で給料も安いが、文献が足りないぐらいの環境の方が研究には良いこともあるし、なにより“何の義務もない契約”とあり、経済的な心配をしないで思う存分好きな研究ができるのと“南イタリアの田舎”がいかにも“濃い”イタリア生活を堪能させてくれそうなのが魅力だった。 まだ博士課程をはじめたばかりだったので、いずれにしても当分先の話だろうと思っていたら、半年ほどして「ポストを確保できそうだから、すぐに準備に取りかかってほしい」というメールが届いた。とりあえず、この恩人を学生がつけたあだ名「ディアブロ」でよぶことにしよう。実は、自分はこの話を忘れていたが、あとで聞くと「職不足だというのに、何でわざわざ、外国人をつれてくるんだ?」という反発を封じこむために、ディアブロはその間、動きっぱなしだったらしい。さらに、当時、彼はまだ立場が弱い助教授であり「俺が1欲しがると、教授らは100もっていく」と随分と大変だったが、自分の研究が彼の分野に役立ちそうという数学的な理由と、イタリアと日本とのあいだに橋を駈けるには、若いのを連れてきてイタリアで育てなくてはだめという、もう少し高いところに立って戦いぬいたと言っていた。 イタリアの大学が誰かを雇用するには、コンコルソとよばれる一般公募をしなくてはならない。ただ、これはあくまでも建て前であり、多くの場合、誰を採用するかは事前に決まっている。このようなイタリア社会を代表するコネ体質を「ラコマンダッツィオーネ」とよび、良くも悪くも響く。他の候補者をブロックするために、採用したい人の未発表の結果を解ける力をもっていることを採用条件に設けることもある。じっさい、これでだいたいが応募を諦める。自分の場合はどれほど決まっていたかは不明だが、とりあえず、応募期限までに博士を修了し、全力でイタリア語を含む採用試験にのぞんだ。短時間で書き上げたので博士論文は薄いし、イタリア語も本来ならとても採用されるレベルには達しなかったが、ディアブロのラコマンダッツィオーネの力のおかげか、波乱なく採用された。 契約したのは、日本でいう「助手」という立場であり、学生の質問を受けたりはするが、レギュラーの講義や日本のようにコンピューター管理の義務がないので、その気になれば、もっているエネルギーの全てを研究に費やすこともできる。周りからは「せっかくなのだから、イタリアの文化も勉強しなさい」などと忠告してもらったが、イタリアから食わせてもらっていることに対する感謝の気持ちと単なる穀潰しで終わりたくないという焦りから、パンクするまで研究に打ち込んだ。 朝の8時ころに起きて簡単な朝食をとってアパートを出、通学路の途中にあるピッツェリアでピッツァを買い、昼にそれを食べて、ときどき気分転換に散歩する以外は研究室に閉じこもって、夜中まで粘る。あまりにも遅くなった日はそのまま研究室に泊まる。そういった研究の日々は端から見ると非常に単調であるのに対し、本人の中では、常に何かしらの発見と挫折がおきており、精神的には激しいアップダウンがある。最初の数カ月、このようなパンク寸前の生活を送っていたら、同居人たちから「なんだか様子が変だぞ」と言われたが、それでも気にせずに休みをとらないで勉強&研究を続けた。 実際に精神状態も怪しくなっていたのかもしれないが、ある日、とうとう体を壊した。激しい吐き気と貧血に襲われ、どうにも立ち上がれない状態になった。ただその前にも、問題を考えながら歩いていたら足を踏み外して足首を痛めたが、そのまま椅子に座ってセミナー発表をやり、あとで病院で診てもらったら骨にヒビが入っていた、ということもあり、かなりバランスを失っていたのだろう。 この時に、同居人のみんなが(彼らも気違いと生活するのは嫌だったのか?)手厚く看病してくれたのが、精神的にも肉体的にもとても助かった。大学院生時代に、自分なんかよりよほど優秀な仲間がどんどんノイローゼになり数学をやめたことをボンヤリした意識で思い出し、それと同時にそのころの自分が数学を楽しむのではなく、なんとかして結果をだそうとムキになっていたことに気が付いた。勉強したことは今の研究の土台になっているので無駄だとは思わないが、この休んだ時期にすこし遠くから自分の研究を眺めることができたのは良かったと思う。 そして、数百年間にわたり蒼々たる天才数学者の人生を呑み込んできたフェルマー予想を、20世紀末に解いたワイルズの強靭な精神力の凄みも少しは理解したような気がする。すでに現代の最高の整数論学者として世界に名を轟かしていたワイルズは、ある時期からフェルマー予想に照準を合わせたそうだ。数年間閉じこもって問題の解決に打ち込み、その当時のことを「まるで光のない真っ暗な家の中を手探りですこしづつ理解していく、そのような日々でした。」と言う。この大問題には多くの日本人の数学者も決定的な貢献をしており、フェルマー予想を中心に数多くの豊かな数学の分野が発見された。 実は最近(5/2003年現在)、ポアンカレ予想という非常に重要な予想が解かれたと言う噂が世界中で盛んに流れている。自分の大学でも世界最高の数学者の一人がポアンカレ予想に関する講演を近々する予定であり、さらにその日は他にも同予想に関する講演の予定もあるので、いよいよ?という気がしてくる。 先の話に戻すが、この事件以降はもっと気持ちに余裕をもって生活することにした。人と話すようにして、誘われたらたまには出かけるようにした。狂ったように研究に打ち込む時期も必要だが、基本はやはり本人が楽しむことだと思う。 この二年間での成果は、それ以前からはじめていた論文の仕上げと共著論文が二本。翌年完成された論文の核になる定理。 |
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具体的な採用手続を述べる。 まず、以下の書類をコンコルソを実施する大学に送る:
これらの書類が受理されると、折り返し、コンコルソの日時場所が知らされる。コンコルソは一般公開され、
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博士の取得の基準は各大学、学部、学科によりかなり差があるが、自分の大学はスタンダードにちかいのでそれを紹介しよう。まず、博士課程を始めるには、修士(博士課程前期)を修了している必要がある。博士課程期間は一応、3年間。ただ、これよりも短期間や長期間で修了することも多い。自分は2年半だった。 博士課程の学生は、研究テーマを自分で決めるということから、すでに研究者だと考えた方が良い。研究の進め方は人によりずいぶんと異なるのでここでは何も述べないが、研究と並んで重要なのは研究結果の発表であり、それには基本があるので少し触れる。発表の機会は、
1)結果がまとまったら投稿先の体裁に合わせて論文を書上げ、それを投稿する。投稿先に届いたら、ジャーナルの方から受け取ったことを知らせる手紙かメールが送られてきて、審査が始まる。が、すんなり進まないことが多い。場合によってはエディターが忙しくて手が回ってないこともあるので、あまり待たされるようなら審査の進み具合を問い合わせた方がよい。 2)上手く進んでいる場合でもたいていは「こことここが舌足らずなので補足してください」や「ここに書かれているはよく知られているので、削除してください」という校正が入るが、このメッセージが届けばまず受理されると考えて間違いない。
受理されない場合は、その理由、つまり審査員のコメントとともに送り返されてくる。この場合は、お蔵入りか、審査員のコメントを参考にして書き直してジャーナルのレベルを下げて投稿し直す。ただ、研究は区切りをつけるのが難しいので自分はできるだけ投稿するようにしている。その時点で仕事がひとまとまりになって、次の問題に取りかかれるからだ。 一方、講演であるが、これは日本数学会の一般講演のように会員なら(内容の審査なしに)発表できるものと、研究集会のように、主催者が推薦者の中から選ぶ方式がある。後者だと、学生の間は特に指導教官の方針がものをいう。自分の元指導教官は学生にどんどん話をさせる方針だったので、多くの場所で講演をさせてもらえ、貴重な意見をたくさん聞くことができ、その後の研究に大きく影響を与えた。発表でのポイントに関する自分の先輩や元指導教官の話をまとると、だいたい
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ローマに移った経緯はだいたいこんな感じである。半年ほどすると職位があがり、生活にも余裕ができた。このときは、ある教授の「次はこれで契約しようと思うんだけど」の一言のみだった。ドンの息を微妙に感じた。全てが人の目に触れないところで穏便に行われる。イタリアにはシステムもあるが、それはあくまでも建て前であって、実際にものごとを決定するのは極わずかな選ばれた人の個人的な裁量だという。
この国についたころ周囲と悶着を起こしていたら「ケツをなめる必要はないが、力をもっているやつには気に入られないとだめだ」と嗜められたことがある。これを聞いたからといって、すぐに何かが変わったわけではないが、いつの頃からか、問題なくやって行けるようになっていた。言葉ができるようになったのは大きいと思う。“状況を説明できる”という気持ちの余裕は大きい。自分がしたのは唐突で失礼なやり方だったかもしれないが、ドンがいろいろな数学者を紹介したり、自宅に夕食に招待してくれたりなど、様々なバックアップをしてくれたのは、その頃には自分も腹を割って本音で話すことができるようになっていたからだと思う。もっとも、彼が、はみだした若者の情熱を受け止めることのできる、人情に厚い南の男だということがいちばん大きいが。 イタリアは経済的に強い国ではない。ただ、思いがけないプレゼントをくれることがある。それはすごく人間臭い作業であり、だから、イタリアを愛する人が後を断たないのだと思う。 |
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イタリアの数学は伝統的に代数幾何が有名であるが、微分幾何でも古くはアインシュタインに大きな影響を与えたリッチやその弟子であるレビ・チビタをはじめ、その後もヴェセンティーニやジャックウインターなど多くの数学者が活躍している。日本とくらべるとサバティカルなどの在外研究の機会が多く、土地の便利さもあり、フランスやドイツ、イギリスやアメリカ、日本、ソ連、中国などの数学大国をはじめとする世界各国の研究者との交流である。東北大学は世界でも有数の数学研究機関であるが、そこよりもローマ大学の方が研究者の交流は盛んに感じる。研究の中身はそう変わらないが、ペースは競争というより、ゆったりしている。ただ、何が面白いか?どこに意味がある?ということを大事にし、抽象論よりも具体的に手が動かせるものが喜ばれる。自分にとっても手を動かすのはとても愉しい作業である。また、よく言われたのが「新しい数学も大事だが、知識を多く持っていることが大きく評価される」である。 大学教員の職位は(正確な訳かどうかは別として)、
講義内容や進め方は日本もローマ大学とバジリカータ大学(以下、煩わしいので「イタリア」と書く)もそう変わらないが、試験はイタリアの方が濃い。日本だと定期試験は普通「筆記」のみだが、イタリアの試験は「筆記」と「口答」の二つで構成されており、筆記試験が先に行われて、ふるいにかけられた者のみが口頭試験に進める。ポイントは0~30、30以上を意味する「ロード」。学生は自分に与えられたポイントが気に入らなければ、その試験結果を放棄して新たに受け直すこともできる。ポイントは試験担当の教員との相性が大きな要因なので、そのコースの担当者が変わるまで受け直すこともある。日本とイタリアの定期試験において、どちらがより正確な評価をしているかは別にして、日本の方が客観的であることは確かだ。 教員の研究や講義以外の義務、いわゆる“雑務”は日本にくらべてイタリアの方が少ないようにみえる。たとえば、学科のネット管理は日本では教員かもしくは学生の有志がまかなうことが多いようだが、イタリアでは教員以外の専用のスタッフがいて、彼らがネットを完全に管理する。これは、ロンドン大学も同様。コンピューター管理は慣れてない人には非常に大きな負担なので、この差は大きいように思える。じっさい、場合によっては「キーの叩き方」から学生に説明してプリントを配らなくてはならないこともある。 イタリアの学生は平均的な日本の学生にくらべて、よく勉強する。図書館ではいつも同じ面子が朝から晩まで机にへばりついている。若い学生は知識はないが論理力はあり、よく議論になる。間違えたことも平気な顔をして言うが、その結論に至った道筋を逆に一緒に遡っていく作業はなかなか面白い。大学入学当時は、日本の高校生並みの知識であるが、5、6年かけて大学を卒業するころには日本の平均的な修士修了の学生とだいたい同じくらいの力をもつようになる。試験では、定理のスティトメントや証明をまるまる覚える必要がある。 |