「日本の要塞」由良要塞−加太・深山地区
加太砲台 


'00/08/19作成)


加太砲台(かだほうだい)

 

所 属

:

由良要塞

起 工

:

明治35年12月

竣 工

:

明治37年2月

備 砲

:

ス式30口径27センチカノン x 4門(明治38年12月備砲完了)

首 線

:

SW80°

射 界

:

150°

砲 座

:

4砲座(各1門)

備 考

:

加太町の西南0.8km、標高75mの台地上。
現在は「加太町少年の家」の敷地内。

 

 

 

 

 

 

[概 要]

加太砲台は和歌山県加太町の西南の高台上に設置された砲台である。備砲の仏 スナイドル社製27センチカノン砲は当時としても最優秀の火砲であり、10,000 mというその大射程を活かして、遠く紀淡海峡から紀伊水道までの広大な海面 をその射程内に収めていた。

紀伊水道から紀淡海峡を通過して大阪湾内に侵入しようとする敵艦隊に対して
遠距離から砲撃を加えるための「砲戦砲台」であり、標高75mの高所に設けら れている「高砲台」で、敵艦に対して位置的に有利であり敵艦からの砲撃にも比 較的安全である。

砲座は20m間隔で1門ごとの4砲座、砲座間の横檣下には半地下式の棲息掩 蔽部(砲側弾丸庫・装薬庫)が設けられている。

左翼観測所は砲座最左翼の小山の上に設けられたが、右翼観測所は右翼第1砲 座の右側にコンクリート造りで構築され、隣接して砲台長位置が作られた。

付属施設は砲台入口の手前の広場に設置され、木造の兵舎、砲具庫、便所をは じめ、天水井戸などを備えていた。

昭和20年の終戦時に砲台は廃止され、空き家となった砲台の兵舎などに入植 者が入って付近で農業を始めた。
その後、砲台敷地を利用して「加太町少年の家」というレクリエーション施設 が建設され、砲台も真ん中を大きく削られ現在では左右両翼にその遺構を残すの みである。また、砲台前面の広場をスポーツ広場にしたりしてすっかり姿を変え た。

当時の兵舎には現在でも人が住んでおり、当時の木造建築を今に残す貴重な遺 物であると言えよう。


[
加太砲台現地調査]

平成12年5月20日()、深山地区の探索を終え17:00に今晩お世話に なるペンション「しおじ」さんにチェックインしました。

まだあたりは明るく夕食まで時間がありますので、ムダにしてはここまで来た 甲斐がないと言うわけで、宿で自転車を借りて日没までにさらに探索をするこ とにしました。まずは北に向かって城ヶ崎探照灯設備に電力を供給していた発電 所の跡を探索(男良谷砲台のレポート参照)し、今度は来た道を戻り「しおじ」 の交差点より海沿いに加太の港へ向かいます。

加太港の船溜まりを超える橋を渡って右側が、明日乗船する予定の友が島に向 かう観光船乗り場、そして左側(山側)に赤い大きな鳥居がありますがこれは淡 島神社の鳥居です。今回目指す「加太砲台」は、この淡島神社の手前の小道から 山に登っていったところにある「加太少年の家」の地点のはずです。

 

というわけで、ここから無 謀にも自転車でせっせと登り坂にかかりましょう

部落を過ぎると山道に入りしばらく登ったあたり、道の右側に門柱を発見しま
した。間違い有りません、ここが当時の加太砲台の入口の跡です。

加太砲台入口の門柱

 

 

ここから右に折れる道があり、その先の崖のふもとに小屋が建っていますが、 これはあとで資料を見たところ当時の砲台設備の建物だそうで、終戦後そのま ま入植者の方が住み着いているとのこと。

坂を上りきった突き当たりにポンプ施設があり、ここから道は大きく右にカー
ブしてさらに50mほど登ると、やっと目指す「加太少年の家」の駐車場に出 ました。

資料によると加太砲台では終戦後砲台施設の建物(兵舎跡、集会所跡、倉庫跡 など)に入植者の方々が10家族ほど住み着いた、とのことですが、たしかに駐 車場の左側(山側)にある木造の建物は当時の砲台付属施設の建物です。

 

砲台手前の広場に当時の
付属建物がそのまま残っている

 

同左
今では民家として利用されている

 

 

驚いたことに一番手前のトイレも健在で今でも使用されております。
入って左側の小便をするところは便器は特になく、立ち位置の前方のどこにし
てもいいような構造になっています。(中国の公衆便所みたいです)

ただし、小便側は現在は物置代わりに使われており、入って右側の大便をする 方だけがいまだに使用可能です。おそらくくみ取りなのでしょう、木の床にただ 単に四角い穴があるだけで金隠しはありません。

私はフィールドワークがモットーです、折角なので使用してみましょう。・・ ・(中略)・・・100年近く昔の軍用便器でするウ○チは、、、いつもと何も かわりません。ただのボットン便所でした。

今なお現役の軍用大便器(?)

 

 

 

 

建物列最右翼には井戸が残っておりましたが、これはさすがに使用されていな いようです。(先ほどのポンプ施設から水を供給しているのでしょう。)

花壇の向こう側に見える四角い
ものが貯水槽のカバー

 

 

駐車場の奥に「加太少年の家」の入口があり、ここから中に入ってみると左手 に早速砲台の遺構を発見しました。
4砲座あったうちの最左翼の第4砲座の跡で、砲座をつぶして公園の道路が建
設されており、道路の左右に当時の砲座の左右両側にあたる胸檣の石垣が見えま す。

 

 

第3砲座と第2砲座は完全に撤去されており、「加太少年の家」の建物が跡地 に覆い被さるように建設されていました。

ただし、第3砲座と第4砲座の間の
横ショウ地下の棲息掩蔽部(弾丸/装薬 庫?)は健在で、扉などはおそらく戦後に取り付けたものだと思われますが、現 在でも倉庫として使用されているようです。

 

 

 

 

最左翼の第4砲座をつぶして
道路がつくられている

 

 

 

 

 

 

 

 

第3〜第4砲座間の棲息掩蔽部
木の扉が設置されている

 

左の写真を反対側から撮影
(
撤去された第3砲座の後方から)

もうすこし奥まで行ってみると、第2砲座と第1砲座の間の棲息掩蔽部があり 、こちらはどうやら当時のままと思われる鉄製の扉がついており、左右の窓にも 扉がそのまま残っておりました。これは大変貴重な遺物です。
こういう備品はほとんどが戦後の混乱のなか略奪されたりして残っていないの
が常なのです。

また、扉の上部はレンガでアーチ状に組まれています。

 

第1〜第2砲座間の棲息掩蔽部
当時のままの鉄扉が残っている

写真奥が第1砲座

 

左の写真を第1砲座側から撮影
横檣の塁壁は石積みだが

掩蔽部の塁壁はレンガ積み

 

 

第1砲座は完全に残っており、砲座周囲の胸檣には砲側弾丸置場のくぼみが設 けられています。
胸檣はそれ程高くなく、砲座面から1.5m
ほどの高さです。

最右翼の第1砲座(雑草が茂り荒れている)
胸檣の向こう側に「加太少年の家」

 

 

第1砲座の右翼からさらに交通路が奥へと続いていますので、行ってみること にしました。
交通路の幅は1mほど、下を見ると崖の下の方に先ほど登ってきた坂道から見
えた住宅が見えます。

 

第1砲座から右翼観測所に
続く交通路(奥の暗闇)

 

左の写真の交通路の奥
砲台長位置に登る石段を観測所入口

この先に石段があり、さらにその奥に右翼観測所に登る石段がありました。
手前側の石段は塁壁に沿って2mほど登ってから頭正面方向にL字型にまがり
、その先に直径1.5mほどの観測所のようなピットがあります。
これは砲台長位置といわれる設備で、砲戦の際に砲台長がここに登って指揮を とる場所なのです。

 

 

砲台長位置の右側壁面にある
2箇所の伝声管(?)

 

左の写真の伝声管の反対側
観測所手前の前室に続いている

右翼観測所はまず入口を入ると2m四方ほどの前室があり、この左側の壁面か ら四角錐型の伝声管のような穴が先ほどの砲台長位置まで続いております。
前室からさらに数段の石段を登ったところに見慣れた直径3mほどの観測所の
跡がありました。

 

観測所手前の前室
画面手前側の天井に伝声管の

開口部がある

 

前室から抜けると丸い観測所跡に出る
(
画面奥が前室)

さすがに掩蓋は残っておりませんでしたが、観測所周囲のコンクリートの堅固 な基礎は健在です。

左翼観測所はどこだったかと言うと、先ほど入ってきた「加太少年の家」敷地
の入口(第4砲座跡の近く)のあたりから左翼方向(南側)に登る細い坂道があ り、そのさらに上方の林の中に水タンクが設置されていましたが、あそこが左翼 観測所の設置されていた高所なのではないでしょうか?

これ以上の遺構は発見できません。
「加太少年の家」を建設する際に砲台の遺構は相当破壊されてしまったようで す。

第4砲座を通過するかたちで設置された坂道を越えると、道はぐるっと左に曲 がってさらに山の上に続いていますが、園内の看板を見るとこの道をたどった先 の「家族の広場」 という公園のあたりが「田倉崎砲台」の跡地だということで す。

もう日も暮れつつあり今日の探索はこれで終了です、明日友が島に行ったあと 田倉崎砲台を探索する際にまたここを通りますので、明るい日の下で写真を撮り 直しましょう。

というわけで、登りは自転車でヒィヒィ言った坂道を、今度は快調にとばして 淡島神社まで下ってゆき、夕日の港を眺めつつ宿に帰ったのでした。

[後 評]
加太砲台は「加太少年の家」の建設の際に相当破壊されてしまっていますが、 砲台付属施設の建物がいまだに現役で使われており、当時の木造施設を見るに はとてもいい遺構(現役ですが)だと思います。

また、右翼の砲台長位置の構造など他にあまりない構造です。そして、さらに 貴重なのが棲息掩蔽部の扉などではないでしょうか。
ひきつづき今の状態で保存されることを期待しますが、倉庫の扉などはそのう ちに新しいものに替えられてしまうのではないでしょうか?

おわり

( 以 上 )


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