南アフリカの歴史
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白人の進出

 南アフリカの歴史は、食糧供給地として始まった。
 
1652年、オランダ東インド会社は喜望峰を寄港地として確保することに決めた。当初、会社の目的は単に食糧を供給することであり、植民地化の意図はまったくなかった。開発隊の指揮官ジャン・バン・リーベックに与えられた任務は、食糧供給活動にとどまり、それ以上の活動は禁じられていた。
 供給物は、最初は原住民との物々交換によって確保されていたが、ジャン・バン・リーベックは会社の直轄管轄下で、これらの物資を自給したほうが、安くまた確実であると考えた。そこで
1657年、白人の労働者が導入され、この任にあたることになったのである。
 彼ら白人労働者の前に、アフリカ大陸は大きく広がっていた。そして、導入された労働者たちは内陸へと開拓を推し進めていったのである。
 開拓をすすめるにあたって、原住民の抵抗はほとんどなかった。ホッテントット族はかんたんに白人社会に吸収されていった。いっぽう、狩猟民族であるブッシュマン族は、毒矢を武器として開拓者と小ぜりあいをくり返した。だが、馬と銃をもつオランダ人の前には彼らの抵抗もむなしく、生き残ったブッシュマン族は砂漠へと移動していった。こうして原住民は、あるいは飼いならされ、あるいは追い出されていったのである。
 
1658年、オランダ東インド会社は、白人労働者にかわるものとして東西アフリカ、マダガスカルなどから奴隷を輸入した。当初、開拓者には皮膚の色に対するよりも、キリスト教徒か異教徒かという宗教的区別のほうが問題であった。
 たとえば、オランダ東インド会社のある外科医が、キリスト教に回宗したホッテントット族の娘と結婚したときは、盛大な祝福を受けた。たしかに野蛮人は下等なものだと思われていた。だが、彼らは、この野蛮人の下等性は白人のことば・習慣・宗教を取り入れることにより解消できると考えていた。
 しかし、奴隷制度が確立されていくにしたがって、しだいに、皮膚の色と、社会的地位が結びつけて考えるようになった。これが南アフリカの人種差別の源であるともいえる。

ボア、内陸へ進出

 オランダ東インド会社が、植民地化に対してどういう考えをもっていたかはともかくとして、現実に植民地化は、開拓者の手によって推し進められてしまった。彼らはしだいに内陸へと進入して行き、18世紀にはボアという半遊牧民的な農畜業者になっていった。ボアは土地が荒廃すると、また新たな土地を求め、自由に移り歩いていた。そして、喜望峰から600マイル東のガムツース川近辺まで進出したとき、ゾーサ族と衝突が起きた。
この種族は、バンツー語を話す民族のうちで、いちばん西に住む種族であった。彼らは人数も多く、独自の文化を持っていたため、ホッテントット族のようにかんたんに征服することもできず、また北部、北東部は、他のバンツー語族にふさがれていたため、ブッシュマン族のように追放することもできなかった。
ボアとゾーサ族のあいだには、たびたび衝突が起きた。家畜が盗まれ、トレックボアが討伐隊を派遣する。それに対してゾーサ族報復する。――これが幾度もくり返された。
 
1777年から100年のあいだに、9回戦闘が行なわれ、いずれもゾーサ族敗北に終わったが、征服されるにはいたらず、両者は、ガムツース川をはさんで、にらみ合っていた。
 
18世紀の終わりごろには、開拓者たちは、ボア独自の生活様式を形成していた。彼らの生活は貧しく、土地を耕すだめの毎日を送っていた。教育もほとんどなく、聖書が唯一の書物であった。彼らは、カルビン派であったが、西のケープ地域から遠ざかるにつれて、物資面とともに宗教も簡素なものになっていた。
 また彼らは、自分たちで法律を決め、独自の秩序を保っていた。彼らは政府には何も要求しないかわりに、干渉されることも拒否していたのである。もっぱら不平は税の高さや牛の値段の安さなど、経済面にむけられ、政治面での不平はなかった。彼らの気質は、小農階級的であるよりも、むしろ貴族的であった。奴隷制度の確立とともに、労働は奴隷に任され、土地の保有が彼らの唯一の仕事となったのである。

この内容は書籍「南アフリカの人種差別」を参考にさせて頂いております
樺゚書房 昭和47年7月1日発行
ゴッドフリー・メイ著 トーマス・イワネ、森泉淳翻訳