南アフリカの歴史
(2)

イギリス来たる

 18世紀になると、オランダ東インド会社はその勢力を失い、ケープでの支配力は弱まっていた。
 オランダが喜望峰に侵入したのは、インド航路の基地としての役割を重視したからであったが、イギリスも同じ理由で、
1795年にこの地を軍事力をもって占領した。アミアン条約によって一度は返還したが、1806年ふたたび占領し、ナポレオン戦争の平和条約によって、喜望峰を正式にイギリス領となる。イギリスの目的は、オランダと同様、港を確保することにあり、内陸には興味がなかった。
 
1852年にイギリス植民地長官は、ケープタウンの知事に次のように述べた。「喜望峰を海運基地として確保する以外に、イギリスは、南アフリカに植民地的野心を持ってはならない」
 また、
1875年、ヨーロッパ人の居住範囲がケープタウンから1000マイル北に広がった時点においても、植民地省のある役人は、「アフリカの開拓は、南海岸にとどまるはずであった」と報告書に記している。
 事実、新植民地は、イギリス国内ではあまり人気がなかった。ライダー・ハガードは、それを次のように表現している。「南アフリカが、他のイギリス植民地と決定的に異なる点は、吐気を催すほどの嫌悪感をもって見られていることである」
 喜望峰は、そこに費やされる費用のわりには生産性がひくく、まったく採算がとれない植民地であった。
 イギリスは新植民地の占領とともに、この地に住む多くのオランダ人を抱えこむことになった。オランダ人つまりボアは、すでに内陸深く侵入しており、ケープタウンの政府に対しては好意的ではなかった。彼らにとってイギリスは、税金取り、行政長官、宣教師として、彼らの秩序に介入してくる邪魔者でしかなかった。
 イギリスは、この新しい植民地に対して、本国の政策をそのまま適応させた。特に黒人に対する政策は、オランダ人のこの地での政策とはまったく異なっていた。オランダ東インド会社時代には、裁判は身分によって左右されるものであったが、イギリスの法のもとでは皆平等であるという政策をとった。
 
1812年、奴隷やホッテントット族を虐待したという訴えが巡回裁判でとりあげられ、オランダ人を驚かせた。こうした訴えはおもに宣教師によってなされ、多くは却下されたが、オランダ人にとっては、裁判にもちこまれるということ自体がすでに信じられないことであった。
 ベジデンホウトという開拓農民は、裁判所の出頭命令を無視し、逮捕の際には抵抗して射殺された。このため彼の兄はスラグターズ・ネックという場所で反乱を起こした。このスラグターズ・ネックの反乱は、ボアに何人かの犠牲者を出した程度で、植民地の治安を脅かすほどのものではなかった。だが、この犠牲者たちは英雄として伝説化され、のちに述べるアフリカーナ・ナショナリズムの原動力となるのである。
 
1833年に法令が下り、3万9000人にのぼる奴隷は開放された。ヨーロッパでは、すでに産業革命によって奴隷制度は不必要なものとなっていたのである。しかし、ケープにはまだその余波はもたらされておらず、またボアたちは、ヨーロッパ人が奴隷制度を非難する思想的背景も理解できなかった。ボアたちは、自分たちの正当性を頑固に信じようとした。今まで当然であったものが、いつの間にか非人間的なものとして非難される――彼らは、それをすべて宣教師のためだと考えた。彼らは宣教師が、イギリス政府に事実をまげて報告したのだと思ったのである。
 この時の態度はそのまま、現在(アパルトヘイト時代)のアフリカーナーにも通じている。つまり彼らは、これらの考え方を「病的人道主義」と呼び、頭から軽蔑しているのである。

この内容は書籍「南アフリカの人種差別」を参考にさせて頂いております
樺゚書房 昭和47年7月1日発行
ゴッドフリー・メイ著 トーマス・イワネ、森泉淳翻訳