南アフリカの歴史
(3)

大いなる放浪

 1836年、多くのボアが植民地からの移動を開始した。これは単なるボアの遊牧民的性格の現われではなく、イギリス支配からの脱出を意図するものであった。のちにこの移動は「大いなる放浪」と呼ばれるようになり、また移動した開拓者たちは、ボアトレッカーと名づけられた。彼らがイギリスの支配下から脱出を計った直接的原因は、奴隷の解放にあったが、ボアトレッカーのひとりは、のちに次のように感想を記している。
 「我々が土地を捨てることを決意したのは、ただ単に奴隷が自由になった不満からではない。人間は生まれつき”神の意志”によって定められた、人種的、宗教的な身分がある。奴隷が我々クリスチャンと同じ地位に置かれるということは、その”神の意志”にそむくことにほかならず、我々の宗教的純粋性は、それに堪えられなかったのである」
 ケープの政府は、この”放浪”を黙認していた。なぜならば、法務長官がいみじくも述べたように、「逃亡を決意した物を阻止しようとするなら、境界線を越えるときに射殺するしか方法がない」からであった。
 ボアの移動は、また新たな問題をまき起こし、従来のイギリス政府の政策(南アフリカにおいては、植民地の拡張をしないという政策)は、継続することはむずかしくなっていった。開拓者を放置すれば、彼らは原住民の略奪や家畜への襲撃に対して自衛手段を講じるであろうが、その手段は、残酷なものとして世論の非難を浴びかねず、ひいてはイギリス政府の評判にはね返らぬともかぎらなかった。あるいはまた、原住民との間に、戦争を引きおこしてしまうことも考えられた。
 いっぽう、彼らをイギリス軍で守るとすれば、イギリス政府の経済的負担はばくだいなものになるし、また植民地の境界線に守備隊を置くことは、従来の非拡張政策から離れるものであった。かってに逃亡した者たちをかばう必要はないと主張する者もいたが、結局のところ、彼らがイギリス政府に属する以上は、虐殺の危険のあることを承知のうえで放置しておくことはできないのであった。
 ボアトレッカーは奥へ奥へと侵入し、バンツー民族の勢力範囲にまでもはいりこんでいった。その当時バンツー民族間では、激しい勢力争いが展開していた。なかでもズル族は首長シャカのもとで軍事力を増し、一大勢力を誇っていた。
 L・M・トンプソン教授は、次のように書いている。「ズル王国は、ケープ植民地からタンガニカ湖まで幅広い影響力をもっていた。大陸の5分の1に近い地域はその勢力下にあり、多くの部落が彼らによって破壊された」
 こうした中に、ボアは新勢力として進入していったのである。
 しかし、ボアを侵略者ということはできない。多くの部族がいり乱れて勢力争いを展開していたこの地域だは、侵略者とか被侵略者とかいうことばは意味をなさないのである。
 ボアとズル族の間には戦闘がくり返されたが、戦いは結局馬と銃を持つボアの勝利に終わった。
1838年12月16日、ズル族はブラッド・リバー(血の川)の戦いで決定的打撃をうけ、背走したのである。
 ついに
1836年、イギリスは『喜望峰刑罰法令』を制定した。
 この法令のなかで、イギリスは、アフリカ大陸において南緯25度(現在のプレトリア市から北へ50マイルの地域)までの裁判権を持つことを宣言したが、この宣言は従来の非拡張政策にそむくものであった。ボアトレッカーの内陸進入がやむを得ずこうした処置をとらせたのであり、あたかもイギリス政府は、ボアトレッカーによって内陸深く引きずりこまれていくようであった。
 
1843年、イギリスはダーバン港のあるナタール地方を合併した。ボアに海の道を持たせるのは危険だと考えたのである。このため、この地に住みついていたボアトレッカーの多くは、また新たな土地へと脱出していった。
 
1848年、さらにオレンジ川とバール川にはさまれた地域を合併し、これをオレンジ川植民地と呼んだ。しかし、さらに北の地域(のちのトランスバール)にも、ボアは侵出していったのである。ある政治家はこう述べた。
 「逃げるボアと追う植民省――こんな奇妙な競争は初めてだ」

この内容は書籍「南アフリカの人種差別」を参考にさせて頂いております
樺゚書房 昭和47年7月1日発行
ゴッドフリー・メイ著 トーマス・イワネ、森泉淳翻訳