南アフリカの歴史
(4)

ボアの独立

 しかし18世紀の半ばになると、事態は一変した。1850年にケープの東国境付近で原住民との戦争が起きたとき、399万ポンドにおよぶ金額が費やされ、イギリス議会を仰天させた。この結果、植民地政策に対する不満の声が高まり、政府は当初の非拡張政策を再確認しったのである。
 植民地長官であったグレー卿は、
1851年に次のように書いている。
 「野蛮人と半野蛮人(ボア)が首の切り合いをするのを防ぐような努力は、もう止したほうがよい。こうした騎士的な博愛心は、かえって彼らを敵にまわす結果にしかならない」
 今はもう開拓者たちが、自分たちで行動の責任をとるべき時期だ。戦争をするたびに、その経済的負担がかかってくれば、彼らは少しは平和を守る努力をするだろう。――多くのイギリス人もそう考えていた。
 グラッドストーンは、議会で次のように述べた。
 「伝染病のような植民地での戦争は、開拓者たちが自分であと始末の責任をとるようになるまであとを絶たないだろう。経済的負担こそが新たな戦争を防ぎ、人間の感情、領土への野心を抑制するのである」
 新しい処置として、
1853年、ケープ植民地に自治が与えられた。しかしこれは、植民地の自由と独立を与えられたという理念よりは、むしろ大蔵省の経済上の要請から来ていた。同様に、1852年1月のサンド・リバー会議によって、バール川の北に住むボアトレッカーの独立が正式に認められた。
 彼らと交渉するために派遣されたホッジ曹長は、次のうおに述べている。
 「南アフリカでは、アメリカの歴史と同じように、白人の数が増せば増すだけ原住民の数は減っていくはずだ。どのような人道的努力をもってしても、このような普遍的法則を変えることはできない」
 こうした意見はそのまま、当時のイギリス政府の見解を示している。実際イギリスは、ボアに対して、「我々は、我々の方法で野蛮人に対処するだろう。お前たちはお前たちの方法で対処するがいい」と述べているのである。一度ボアトレッカーの独立を認めた以上、オレンジ川植民地の支配を続行する正当な理由はまったくなかった。
 
1854年、イギリスはこの土地からの撤退をはじめた。こうして南アフリカには、ふたつの新しい国が誕生した。オレンジ自由国と、トランスバール共和国である。

この内容は書籍「南アフリカの人種差別」を参考にさせて頂いております
樺゚書房 昭和47年7月1日発行
ゴッドフリー・メイ著 トーマス・イワネ、森泉淳翻訳