南アフリカの歴史
(5)

アフリカーナ・ナショナリズム

 「大いなる放浪」は、南アフリカ史上最大の出来事であった。
 共和国の成立によって、ボアトレッカーは、ケープを脱出したときの目的を達したことになる。彼らは、ありあまるほどの土地を手に入れた。地理的にも独立することができた。そして、何よりもイギリスの支配から離れて、いわゆる「宗教の純粋性」を守ることができたのだった。彼らの独立の結果、南アフリカには、黒人に対するふたつの異なった政治理念がすることになった。
 J・S・マレー教授は、次のように述べている。「”大いなる放浪”は、人道主義に対するボアの反逆にほかならなかった。その結果、共和国が誕生したが、そこでは有色人種に対して”ケープの伝統”とは正反対の理念が深く根をはっていた」
 「ケープの伝統」とは、イギリス人がもちこんだもので、法律のうえでは、皆平等であるという考え方のことである。財産さえあれば、選挙権は誰にでも与えられた。植民地に自治権が与えられてからも、ケープにおいては、この政策には変わりはなかったのである。
 これに対して、トランスバール共和国の最初の憲法には、次のように記されている。
 「ボルクは、教会におけると国家におけるとを問わず、黒人と白人が同権利を有することを欲するものではない」
 この「ボルク」ということばは、「我々と同じ民族」、または「我々ボア」を意味するものにほかならない。
 いっぽうナタール地域においては、人種問題に対する態度は、ケープとふたつの共和国との中間的なものであった。ナタールには、新しくインド人が移住して来ていた。ズル族を労働者として使うのを困難とみたヨーロッパ人が、砂糖きび業に従事させるために連れて来たのである。
 
1860年には、約6000人のインド人(そのうち3分の1は女性だった)が、契約を済ませた。契約の条件は、彼らにとって魅力的なものであった。5年間働けば、自由に仕事を変えることが許され、10年間働いたならば、インドへの船賃、もしくはそれと同価値の土地が与えられ約束であった。このため、彼らのほとんどは、定住することを決意していた。
 こうした現象は、ヨーロッパ人にとっては、おもしろくないものであった。ヤン・ホフメイヤーは、次のように書いている。
 「ヨーロッパ人の利己主義が、インド人を南アフリカに連れて来た。今(アパルトヘイト時代)は、同じ利己主義から、インド人を追放し、あるいは圧迫しようとしている」
 ナタールのヨーロッパ人は、ケープの自由主義に反して、人種的偏見を強めていった。しかし、ボアの共和国のように、それを立法化するまでには至らなかった。

この内容は書籍「南アフリカの人種差別」を参考にさせて頂いております
樺゚書房 昭和47年7月1日発行
ゴッドフリー・メイ著 トーマス・イワネ、森泉淳翻訳