南アフリカの歴史(1)

観光地の紹介の前に、説明がしやすいように歴史を掲載させて頂きます

南アフリカの歴史

詳しい歴史については専門書を参考にして下さい。南アフリカを観光する上で知っていた方が便利な内容をかいつまんで紹介します。

ディアス航路         バァスコ・ダ・ガマ航路
 

南アフリカには、もともと狩猟民族のサン族(ブッシュマン)とコイ族(ホッテントット)が住んでいたといわれます。
15世紀頃に現在のバンツー系のアフリカン(黒人)が南下してほぼ全域に定着したといわれます。
ほぼ同じ時期の1488年に、ポルトガルのバーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見し、1497年には同じポルトガルのバァスコ・ダ・ガマがナタールを発見しました。

オランダ船ケープ沖の到着
 

ヨーロッパ人の入植は、ずっとあとになった1652年にオランダ人のヤン・ファン・リーベックがオランダ東インド会社の東洋貿易の中継基地として、ケープタウンに居留地をつくったのが始まりです。
オランダからの移民たちは、自らをボーア(オランダ語で農民)と称して入植地を開拓していきました。またオランダに亡命していたフランス人のユグノー(新教徒)も多数移住し、入植者の増加で殖民地は内陸に向けて拡大しつづけました。しばしばコサ族(黒人の一部族)の抵抗にあい衝突が起こるようになりました。

先住民との交渉               フォール・トレッカー
 

ボーア人の内陸への移動

18世紀末から19世紀の初頭にかけて、ヨーロッパでナポレオン戦争が起こると、喜望峰をインド航路の重要拠点と認識したイギリスは、フランスの手に落ちることを危惧して、この地を占領しました。1803年に一旦はオランダに返還しましたが、1806年に再度占拠しました。1814のウイーン会議で正式にイギリス領としました。1820年には大量の移民が到着し、総督がおかれて本格的なイギリス支配が始まりました。

1833年にイギリス本国で奴隷制度が廃止され植民地にも適用されると、多くの奴隷労働力に依存してきたボーア人は反発して、新天地を求めて北方へ移動しました。1838年にナタールでズールー族(黒人の一部族)と衝突し、”血の戦い”で勝利してナタール共和国を建国しました。しかしイギリス軍の追撃に敗れ、さらに内陸に移動し1852年にトランスバール共和国を、1854年にはオレンジ自由国を建国しイギリスに承認させました。

1867年にオレンジ自由州でダイヤモンドが発見されると、イギリスは現地のグリカ族首長の所有権の保護をして参入して1871年に占領しました。さらに1877年には財政的に困窮するトランスバール共和国へ進出して併合しました。
トランスバールのボーア人は、ロンドンに代表団を送って独立の回復を主張しましたが拒絶されました。1880年についに蜂起しました。これが第一次ボーア戦争です。翌1881年に勝利して主権を回復しました。

1886年にトランスバール共和国で金鉱が発見されると事態は再び暗転することになりました。ゴールドラッシュでなだれ込んできたイギリス系白人は、ボーア人の反英感情に直面して鉱山開発を思いどおりにすすめられませんでした。
イギリスはトランスバール共和国の征服を企てたり内部干渉をしました。そして1899年にイギリスはボーア人の武力蜂起を誘発するのに成功しました。これが第二次ボーア戦争とも独立戦争といわれるものです。1900年にトランスバール共和国の首都プレトリアが落ち、1902年にイギリスの勝利で終結しました。

第二次ボーア戦後、イギリスはボーア人との和解をはかり自治権を与えて、1910年にトランスバール州、オレンジ自由州、ナタール州、ケープ州からなる南アフリカ連邦を設立しました。初代首相に政治的結束を強めたボーア人からルイ・ボータが就任しました。
ボーア人たちは新国家誕生とともに”アフリカーナー”と称して民族主義意識を強め権利を主張し、黒人に対して1911年に鉱山労働法、1913年には原住民土地法といった人種差別法を立法化していきました。またボーア人は、オランダ語を母体として生まれたアフリカーンス語を英語とならんで公用語に定めました。
経済はイギリス人、政治はアフリカーナーが牛耳るというかたちになっていきました。

第二次世界大戦後、アフリカ、アジア各地で独立運動が展開されはじめると、南アフリカ内でも反人種主義闘争が繰り広げられるようになりました。人口比率で少数派の白人は、かの有名な”アパルトヘイト”制度を制定しました。アパルトヘイトとはオランダ語で分離、隔離といった意味です。
当時、南アフリカ民族会議(ANC)のメンバーだった前大統領のネルソン・マンデラは、1957年に逮捕され拘留されました。
南アフリカはアパルトヘイト政策のため諸外国から政策を受けたり、イギリス系財界人が海外へ流出するなどなどして、経済的に苦境にたたされました。

1989年にフレデリック・デ・クラークが大統領に就任し、黒人との対話路線が一気にすすみました。1990年にはマンデラが釈放され、1991年にはアパルトヘイトが廃止されました。
これにより外国による全ての制裁処置がとかれ、オリンピックに復帰し、海外からの観光客で賑わいはじめました。

1994年4月、全人種参加による南アフリカ共和国の総選挙がおこなわれ、アフリカ民族会議(ANC)が勝利し、ネルソン・マンデラ議長が黒人最初の大統領に就任しました。
ネルソン・マンデラは全人種融和路線を推進し、白人たちからも信頼されまています。ネルソン・マンデラは”私の仕事は終わった”と言って、一期で大統領をやめ政界から引退しました。
現在の大統領はターボ・ムベキです。

注)
私が新聞を読んでいましたら、現地のイギリス系の白人の友人(年齢は50代前半)が来たことがありました。マンデラ大統領(当時)の写真が載っていましたので「マンデラをどう思う?」と尋ねましたら、彼はマンデラのことを「いい男だ!」と言いました。また彼はマンデラ大統領のことを「マンダーラ」だといいました。「マンダーラ」とは黒人のある部族の言語で、「部族の長老」というような意味で、愛称をこめて呼ぶ名前らしいです。
彼はザンビアで生まれたと言っています。育ったのはジンバブエで、毎年フィッシングを兼ねて自分の育ったジンバブエの町へ行っています。ジンバブエが黒人政権になった時に南アフリカに移ってきたと言っています。彼はイギリス系白人にはめずらしく、アフリカーンス語もしゃべります。(余談ですが、イギリス系白人のほとんどはアフリカーンス語を理解しますが、ほとんどしゃべることはありません。しゃべれないのではなく、しゃべらないのです)
私の友人にもう一人イギリス系の白人がいます。彼もザンビアかジンバブエで生まれました。彼も年齢は50代前半です。彼と南アフリカ東北部のジンバブエとの国境の町へ仕事で行ったことがあります。道路脇にあった小さなホテル(民宿みたいなもの)を指差して、「ジンバブエが黒人政権になった時、両親につれられてやっとの思いでジンバブエを抜け出し、このホテルに泊った」と言ったことがありました。
この二人の友人は、つい数年前までイギリスのパスポートを持っていました。今では”南アフリカ人”になっているかもしれません。
私はオランダからの移住者”ボーア”についてもう少し詳しく知りたいと思っています。私が知っているのは、上記の歴史からもわかるように彼らは帰る祖国がなく、祖国は南アフリカだということです。自らを”アフリカーナー”と称してアフリカの大地に自分たちの祖国を建国していかなければなかったということです。
私はアフリカーナーの友人に、これらの歴史について教えてもらいたいと思っていますが、いまだその機会が訪れません。

2000.02.05

不備な点がありましたらご指摘下さい。今後、修正・追加をしていくつもりです。
「日地出版/ひとりで行ける世界の本/28/南アフリカ」と「Africa Info」を参考にさせて頂きました。
「南アフリカの歴史」の写真は南アフリカで購入した歴史の本を参考にさせて頂きました。