18世紀末から19世紀の初頭にかけて、ヨーロッパでナポレオン戦争が起こると、喜望峰をインド航路の重要拠点と認識したイギリスは、フランスの手に落ちることを危惧して、この地を占領しました。1803年に一旦はオランダに返還しましたが、1806年に再度占拠しました。1814のウイーン会議で正式にイギリス領としました。1820年には大量の移民が到着し、総督がおかれて本格的なイギリス支配が始まりました。
1833年にイギリス本国で奴隷制度が廃止され植民地にも適用されると、多くの奴隷労働力に依存してきたボーア人は反発して、新天地を求めて北方へ移動しました。1838年にナタールでズールー族(黒人の一部族)と衝突し、”血の戦い”で勝利してナタール共和国を建国しました。しかしイギリス軍の追撃に敗れ、さらに内陸に移動し1852年にトランスバール共和国を、1854年にはオレンジ自由国を建国しイギリスに承認させました。
1867年にオレンジ自由州でダイヤモンドが発見されると、イギリスは現地のグリカ族首長の所有権の保護をして参入して1871年に占領しました。さらに1877年には財政的に困窮するトランスバール共和国へ進出して併合しました。
トランスバールのボーア人は、ロンドンに代表団を送って独立の回復を主張しましたが拒絶されました。1880年についに蜂起しました。これが第一次ボーア戦争です。翌1881年に勝利して主権を回復しました。
1886年にトランスバール共和国で金鉱が発見されると事態は再び暗転することになりました。ゴールドラッシュでなだれ込んできたイギリス系白人は、ボーア人の反英感情に直面して鉱山開発を思いどおりにすすめられませんでした。
イギリスはトランスバール共和国の征服を企てたり内部干渉をしました。そして1899年にイギリスはボーア人の武力蜂起を誘発するのに成功しました。これが第二次ボーア戦争とも独立戦争といわれるものです。1900年にトランスバール共和国の首都プレトリアが落ち、1902年にイギリスの勝利で終結しました。
第二次ボーア戦後、イギリスはボーア人との和解をはかり自治権を与えて、1910年にトランスバール州、オレンジ自由州、ナタール州、ケープ州からなる南アフリカ連邦を設立しました。初代首相に政治的結束を強めたボーア人からルイ・ボータが就任しました。
ボーア人たちは新国家誕生とともに”アフリカーナー”と称して民族主義意識を強め権利を主張し、黒人に対して1911年に鉱山労働法、1913年には原住民土地法といった人種差別法を立法化していきました。またボーア人は、オランダ語を母体として生まれたアフリカーンス語を英語とならんで公用語に定めました。
経済はイギリス人、政治はアフリカーナーが牛耳るというかたちになっていきました。
第二次世界大戦後、アフリカ、アジア各地で独立運動が展開されはじめると、南アフリカ内でも反人種主義闘争が繰り広げられるようになりました。人口比率で少数派の白人は、かの有名な”アパルトヘイト”制度を制定しました。アパルトヘイトとはオランダ語で分離、隔離といった意味です。
当時、南アフリカ民族会議(ANC)のメンバーだった前大統領のネルソン・マンデラは、1957年に逮捕され拘留されました。
南アフリカはアパルトヘイト政策のため諸外国から政策を受けたり、イギリス系財界人が海外へ流出するなどなどして、経済的に苦境にたたされました。
1989年にフレデリック・デ・クラークが大統領に就任し、黒人との対話路線が一気にすすみました。1990年にはマンデラが釈放され、1991年にはアパルトヘイトが廃止されました。
これにより外国による全ての制裁処置がとかれ、オリンピックに復帰し、海外からの観光客で賑わいはじめました。
1994年4月、全人種参加による南アフリカ共和国の総選挙がおこなわれ、アフリカ民族会議(ANC)が勝利し、ネルソン・マンデラ議長が黒人最初の大統領に就任しました。
ネルソン・マンデラは全人種融和路線を推進し、白人たちからも信頼されまています。ネルソン・マンデラは”私の仕事は終わった”と言って、一期で大統領をやめ政界から引退しました。
現在の大統領はターボ・ムベキです。