南アフリカの歴史(2)

 南アフリカの歴史 追加版

この文章は「南ア日本人会月刊新聞のスプリングボック」で、在南ア日本人大使館の方が書かれた文章を参考にさせて頂いています。

なぜオランダ人は南アに来たのか

南アの国家起源は、1652年にオランダ東インド会社がアジア貿易の中継地とするためにケープタウンのテーブル・マウンテンの麓に要塞を築いたのが始まりです。

1.オランダの黄金時代と海外進出

ライン川の河口に位置するオランダは、その地理的条件のため、神聖ローマ帝国であった時代から、都市間の移動・運搬手段として船による水上交通が発達し、その延長として北欧や南欧との海上貿易で栄え、富の備蓄が行われました。こうして形成された裕福な商工業者相の間に、16世紀の宗教改革時代になって、質素・倹約・勤勉を尊ぶカルビニズム(新教一派)が広まり、オランダでは新教勢力が強まっていきました。

1555年に退位した神聖ローマ皇帝カール5世は、スペインとオランダを息子のフィリップ2世に譲り、オランダは、新教徒が多い地域にもかかわらず、旧教国であるスペイン領になってしまいました。スペイン王フィピップ2世は、オランダで厳しい新教徒弾圧を開始しました。オランダの新教徒はドイツの貴族オレンジ公ウィリアムを指導者に迎え、1568年に対スペイン独立戦争を開始しました。1581年にオランダ連邦共和国が独立を宣言し、1609年にスペインとの休戦が成立し、1648年にオランダの独立が正式に認められました。このスペインとの休戦成立後の17世紀前半から、オランダはいわゆる「黄金時代」を迎え、経済・文化面で未曾有の繁栄をし、欧州の先進国となりました。

16世紀のアジア貿易を牛耳っていたのはポルトガルで、オランダはアジア産の香辛料等をリスボン港で仕入れ、それらを欧州内で売りさばくことによって大きな利益を得ていました。ところがオランダにとって運が悪いことに、1580年にポルトガル国王が後継者がないまま死去してしまい、スペイン王のフィリップ2世がポルトガル王位を継承してしまいました。そしてフィリップ2世は1585年にオランダ船のリスボン港寄港禁止令を出して、オランダ経済の息の根を止めようとしました。

いよいよオランダは、富の源泉のアジアの香辛料を求めて、自らアジアへ航路を開拓することを余儀なくされました。

当初、オランダは、ポルトガルの航路とは反対の北回りルートを探索しますが失敗し、探検隊は北極海の島で越冬し引き返してきました。オランダがポルトガルに対抗して敢えて南回り航路を開拓しようと決心したのは、オランダ人の書いた一冊の本がきっかけでした。ファン・リンスホーテンはインドのゴアへ渡り、5年間に渡ってポルトガルのもとで働き、この間に個人的に収集したポルトガルのアジア貿易に関する資料や航路図等をまとめ、1593年にオランダへ帰国した後に「Itinerario」という旅行記を発行しました。これを契機としてオランダのさまざまな都市で貿易会社が次々と設立され、1595年以降、オランダ船によるアジア貿易の航路開拓ラッシュが始まりました。(徳川家康の外交顧問になった三浦按針やヤン・ヨーステンを乗せて1600年に大分に漂着した船もこのようなオランダ船のひとつでした)

多くのアジア貿易会社が乱立し、持ち帰った香辛料等で莫大な利益をあげ会社の競争が激化したところで、オランダは国家利益の促進のため、長い交渉の末にこれらの会社を一つにまとめました。こうして1602年に設立されたのがオランダ東インド会社でした。1600年にはイギリスでも東インド会社が設立されていましたが、当初の資本規模はオランダの方が10倍以上ありました。オランダ東インド会社は、喜望峰からマゼラン海峡までの極めて広範囲な地域における貿易独占権、条約締結権、行政権および司法権を与えられ、軍事力をも保有する国家のなかの国家のような存在でした。また、船の建設等に出資した株主に対し貿易であがった利益に応じて配当を出すといったオランダ東インド会社のシステムは、今日の「株式会社」の起こりであると言われています。

2.貿易中継地点の模索

欧州からアジアまでの航路は長く、航海中に栄養失調による船員の死亡率が高かったため、オランダ東インド会社は水と食料を補給する中継地点を確保する必要性に迫られました。まず目につけられたのは大西洋のセント・ヘレナ島で、オランダは1633年に占領しました。しかし同じこの島に目をつけたイギリスとの競争を避け、1638年にはより適した中継地としてインド洋のモーリシャス島を選びました。モーリシャスは1638年から1710年までの間、島の南部に要塞が築かれ、寄港するオランダ船に水・食料が供給されました。オランダ東インド会社はあくまで利潤追求のための会社であり、中継地点は会社の負担にならないように、自給自足を達成したうえで、その余剰物を船に供給することを建前としていました。しかし、モーリシャス島はサイクロン被害の影響や、歴代のモーリシャス総督に卓越した人物がいなかったこともあり、自給自足どころか時として寄港する船への食料供給さえもままならず、次第に会社の負担になっていきました。オランダ人のケープ入植後、モーリシャスの存在意義は薄れ、1710年にオランダはモーリシャスから自ら撤退します。(その直後にフランスが入植しました。今でもモーリシャスの言語は、フランス語から発生したマウリ語が使用されています)
(余談ですが、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に登場するドードー鳥をご存知ですか? 私は空想上の鳥だと思っていました。この鳥は17世紀までモーリシャスに生息していた鳥で、食用に捕らえて絶滅したといわれています)

3.オランダ人のケープ入植

1647年3月のある日、喜望峰を回って本国へ帰るオランダ船団の中の1隻「ハーレム号」がテーブル・ベイの北方でたまたま運悪く座礁してしまいました。座礁した船には数多くの高価な商品が満載されていたため、船団長は乗組員のレンダード・ヤンセン以下58名に対しこれらの商品を守って、翌年の本国向けオランダ船の到来を待つように指示を与えました。こうして彼らは今日のケープタウン北方のリートフレイ近辺に砦を築き、年を越すはめになりました。彼らは原住民と取り引きを行ったり、テーブルベイ近辺の様子を視察してまわり、翌年にアジアから本国へ帰る船に拾われて無事に本国へ戻りました。たまたまその船の中にいたのが、長崎の出島勤務時代に闇取り引きの嫌疑をかけられ、本国召還処分とされたヤン・ファン・リーベックでした。

オランダ東インド会社は、レンダード・ヤンセンにテーブルベイ付近の状況に関する報告書を提出させました。この報告書に基づきオランダの東インド会社は、テーブルベイ近辺の気候・風土が食料補給地として適していると判断し、ケープ入植を決定しました。入植の指揮官の人選にあたっては、若いレンダード・ヤンセンは見送られ、ヤン・ファン・リーベックに白羽の矢が立ちました。彼は再びアジアで勤務する夢を捨てきれれず、そのための踏み台としてケープ入植の指揮官職に自ら応募していたのです。

オランダ東インド会社がヤン・ファン・リーベックに与えた命令は、@寄港するオランダ船に水と食料を調達すること、Aケープ植民地として自給自足を維持すること、B原住民との紛争を避け、平和を維持すること等でした。こうして1652年4月6日、「ドロメダリス号」でテーブル・ベイに総勢約90名で来航し、テーブル・マウンテンの麓に歴史的第一歩を印しました。ケープ上陸後、ヤン・ファン・リーベックは、さっそく食料の調達に取りかかりました。肉類はホッテントット族とのバーター取り引きで牛や羊が手に入りました。また野菜類については大きな畑を作り、南アの気候も手伝ってか、よい収穫が得られたようです。

オランダ東インド会社はあくまで利潤追求を目的とする会社であったため、当初はケープ植民地の領土拡大の意図はなく、原住民との争いを避け、自給自足を維持しつつオランダ船への安定的な食料供給ができればそれで十分との立場でした。原住民との最初の紛争(コイコイ・オランダ戦争)が生じた際にも、停戦後にヤン・ファン・リーベックは、これ以上の紛争を避けるために原住民との境界線にアーモンドの垣根を植え、相互不干渉の意思表示をしました。しかし、肉や野菜は足りても主食である小麦粉などを本国やアジアからの輸入に頼らざる状況が続き、ケープ植民地の自給自足は実現困難であることが次第に判明していきました。かといって原住民に農業を経営させることは困難と判断されたため、入植5年目に、ヤン・ファン・リーベックは社員9名を解雇して「自由市民」として土地を与え、農業開墾を行わせることにしました。これがケープ植民地の拡張の始まりと言えます。

その後、オランダ人の移民だけではなく、フランスでの宗教迫害を逃れて移住してきたユグノー(フランスのカルビニスト)などが加わり、自由市民の数は増加の一途をたどり、彼らに与えられた土地は次々と内陸へと広がっていきました。こうしてオランダによるケープ植民地支配が始まり、1795年のイギリス来襲までの約150年間、オランダ東インド会社を中心として今日の南アの基礎が築かれたいきました。

2000.02.21