■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 1993年の南アフリカ 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

**************************************************************************
No.4 1993年8月

**************************************************************************

 《今月の主な掲載内容》

1.無差別テロが続発
 この時期に、南アフリカのニュースは、あまり日本で報道されていません。
黒人右派勢力「インカタ自由党(IFP)」支持者が、黒人開放組織「アフリカ民族会議(ANC)」支持者中心の住民を襲撃などのテロが続発しました。
7月の死者は500人を超し、デクラーク大統領が民主化に着手した90年以来、最悪の事態に陥ったと報道されています。

2.黒人初のミス南ア誕生
 サンシティーで7日、史上初めて黒人の「ミス・南ア」が誕生しました。昨年はカラード(白人との混血)の「ミス・南ア」でした。
(選挙後の1997年にはインド系の「ミス・南ア」が誕生しています)

ミス南ア・1997

3.フレデリック・ウィレム・デクラーク大統領
 選挙後に第2副大統領に選出された時に、日本の新聞に紹介された内容を掲載しました。マンデラANC議長ばかりが注目されていて、デクラーク大統領の苦労についてあまり紹介されていないのは残念なことです。

今日のアフリカ各地の部族抗争ニュースを読みむにあたり、この南アの選挙のニュースが何らかの参考になって頂ければ幸いです。

ズールー族母体のインカタ自由党のデモ

(1993年以前の写真?)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
《南アフリカのニュース》
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

また黒人同士の抗争 南ア 無差別発砲で32人死亡

【ナイロビ8月1日】1993.08.02読売

 南アフリカからの報道によると、ヨハネスブルグ郊外のタウンシップ(旧黒人居住区)で31日夜から1日未明にかけ、黒人右派勢力「インカタ自由党(IFP)」支持者が、黒人開放組織「アフリカ民族会議(ANC)」支持者中心の住民を襲撃、自動小銃で無差別発砲した結果、少なくとも32人が死亡した。これは、31日夜、他の地区でANC支持者が数人のIFP派を殺害した事件の報復とみられる。
 南アの政治暴力事件は、ANC、白人与党国民党主導の複数政党間制憲会議が先月2日、初めて黒人に参政権を認める制憲会議選挙の日程を決めた直後から激化。7月の死者は500人を超し、デクラーク大統領が民主化に着手した90年以来、最悪の事態に陥った。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

黒人武力抗争でさらに3人射殺 南アフリカ

【ヨハネスブルグ】1993.08.06共同

 黒人同士の武力抗争事件が続く南アフリカのヨハネスブルグ近郊の黒人居住区カトレホンで4日、先週末死亡した黒人5人の葬儀の最中に、警備の警察部隊と群衆の間で銃撃線が発生し、黒人3人が射殺された。警察当局はほかに3人が負傷したとしているが、救急関係者は少なくとも10人が負傷したとしている。
 カトレホン、テンビサなどヨハネスブルグ近郊では先週末以来、武力抗争で少なくとも124人が死亡。非政府間機関(NGO)の「人権委員会」は4日、南ア全土で先月28日から1週間で175人が死亡したと発表している。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

初の黒人 ミス南ア誕生

【ナイロビ8月8日】1993.08.09読売

 南アフリカ共和国からの報道によると、ヨハネスブルグ郊外サンシティーで7日、史上初めて黒人の「ミス・南ア」が誕生した。
 この女性は、旧黒人居住区ソウェト出身で、モデルのアルバイトもする学生、ジャッキー・モフォケンさん(21)で、昨年のミスのエミー・クラインハンスさん(カラード=白人との混血)に祝福のキスを受けた。
 「ミス・南ア」コンテストが始まった1954年以来、白人女性だけが選ばれてきた南アで、エミーさんは初の非白人女性として注目されたが、黒人としてはジャッキーさんが初めて。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

1994年選挙の写真

投票を待つ長蛇の列

1994年選挙後のニュース

  1994年5月11日、選挙後、フレデリック・ウィレム・デクラー
  ク元大統領が、第2副大統領に選出された時に、日本の新聞に紹介さ
  れた内容です。

  フレデリック・ウィレム・デクラーク第2副大統領
  東欧崩れ改革決意 被害者意識強い白人救えるか

   「信念を持って、大統領権限を渡す。これは、主権が国民、憲法と
  ともにあるからだ」「マンデラ氏は全国民の祝辞、希望と祈りに値す
  る人物だ」

   デクラーク氏は2日、首都プレトリアの党本部で、アフリカ民族会
  議(ANC)の勝利をたたえ、1948年以来の与党だった国民党の
  敗北内外に認める歴史的な演説を行った。
   演説を終えると、目をうるませ、傍らで夫を勇気づけるマリケ夫人
  の姿とともに、支持者の胸を打った。「偉大なる改革者」「真の勇気
  を持つ男」とも称賛された。
   50−60年代にアパルトへイト(人種隔離政策)体制を築いた南
  アでは、低賃金の黒人労働力により、白人は一時、「欧米以上」とも
  言われる生活水準を維持した。デクラーク氏は1936年、ヨハネス
  ブルグで曾父母の代から政治家という家に生まれ、この「黄金期」を
  見て育った。
   父親は元上院議長。高校時代から白人政党、国民党の青年部に入り
  政治家を志した。78年以来、大臣職を歴任し、89年2月、国民党
  党首に就任。同年9月、大統領となり、白人が権力を独占する南アで、
  既成のエリートコースをまい進してきた。
   しかし、ホームランド(部族別黒人居住区)政策の失敗による都市
  への黒人流入、国際的な南ア制裁などで少数支配体制にも陰りが生じ、
  大統領就任時には、体制崩壊の兆しすら、少しずつ見え始めていた。
   デクラーク氏は改革に着手した後、「(89年の)東欧社会主義の
  崩壊を見て、それまで考えていた改革を決断した」と、述懐している。
  南部アフリカの牙城(がじょう)だった南アで、南ア共産党と密接な
  関係を持ってきたANCに、後ろ盾がなくなるとの現実的な判断だっ
  たようだ。大統領就任後、マンデラ氏釈放(90年2月)、アパルト
  ヘイト法案の撤廃に踏み切った。
   アパルトへイトは、黒人だけでなく、アフリカーナー(欧州系白人)
  をも、世界情勢から遠ざけた。知識階級以外の多くの南ア白人は、い
  まだにデクラーク氏を「売国奴」「史上最低の白人大統領」と呼び、
  憎悪すら抱いている。
   こうした現状の下、副大統領となった同氏は、これまでの現実的な
  政策運営を新政権にも反映させ、被害妄想に悩む白人を救済できるか、
  という重い責務を負っている。