南アフリカの古いニュース

この記事は1991.7.4の'Newsweek'を利用させて頂いています
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「白い大都会」は変わった
かつて白人の牙城だった南ア経済の中心地ヨハネスブルク。
今では白人は郊外へ移り、黒人が職と家を求めて流入したことで、
街は「褐色」に塗り替えられた。
アパルトヘイト後の将来像がここにある。

(2)

A Town Transformed
「白い大都会」は変わった(1)
ヨハネスブルクに南アの明日を見る

 かつては、ヨハネスブルク市内でも閑静な一角を占めていたヒルブラウ地区。今ではそこをパトロールする白人警察官が、ニューヨークの犯罪地帯になぞらえて「ブロンクス」と呼ぶ。
 1980年代、アパートを借りていた白人が郊外に脱出し、困った家主が集団地域法を無視して部屋を黒人に貸した。問題は、すべてがそこから始まった。その結果、ヒルブラウは人種統合のモデルではなく、アパルトヘイト(人種隔離政策)の創始者たちが見えたら腰を抜かすような市街戦の町となった。
 アフリカーナー向けのゲイバーや非合法の賭博場が堂々と店を開き、白人の暴走族や黒人の売春婦が路地をうろつく。南アフリカで最も人口密度が高いこの地区は、犯罪発生率でも国内最高になった。
 そこから2キロ東のヨービル。以前は「中の下」クラスのユダヤ人が住んでいた界隈だが、今や白人の年金生活者と黒人の専門職、南欧からの移民と時代遅れのヒッピーが混在する人種のるつぼだ。ここにはヤッピー同士の白人と黒人が気軽に席を共にするカフェがあるかと思えば、ANC(アフリカ民族会議)幹部の自宅もある。
 将来の南アでは、人種ではなく収入に基づいて住み分けが進むにちがいない。ヨービルや、インド系の中流階級が住むメイフェアはその実例だ。「ここでは階級社会への移行が進んでいる。いわば非人種的アパルトヘイトだ」と、都市開発コンサルタントのマーク・スウィリングは言う。
 これまでも、ヨハネスブルクは劇的な変化を経験してきた。
 この町が、荒くれ男の集まる金鉱の基地として開けたのは1880年代。それ以来、南アにおける金融・工業の中心地の地位を保ってきた。
 だがアパルトヘイト関連法案撤廃が始まる以前から、都心部は特権的な白人の砦ではなくなった。1970年代に白人がベッドタウンへ移住していくと、南ア当局はレストランや公共施設から「白人専用」の標識を撤去した。
 白人が出ていった後に、快適な生活を求めて無数の黒人が殺到した結果、80年代半ばまでに住民の人種構成は一変した。今のヨハネスブルクは、新生南アの象徴的首都だ。ネルソン・マンデラ釈放と同時に合法化されたANCも、市中心部の高層ビルに本部を構えている。
 南アの首都はプレトリアであり、議会はケープタウンに置かれている。だが経済の中心は、ずっとヨハネスブルクだった。黒人居住区ソウェトを含むこの巨大都市は、900億ドルにのぼる南アの国内総生産(GDP)の約25%を占める。ジンバブエ、ザンビア、ザイール、ケニアのGDPの合計に匹敵する規模だ。
 1世紀前、金を求めて外国人が殺到したように、ここ数10年のヨハネスブルクには仕事に飢えた黒人が大量に押し寄せた。黒人たちが町を激変させた。南アのジャーナリスト、アリスター・スパークスは90年にこう書いている。
 「私が出ていったとき、この町はアメリカにあるような中規模の地方都市を気取っていた……私が帰ってきたとき、ここは黒人があふれるアフリカの都会になっていた」
 都市問題コンサルタントのナイジェル・マンディに言わせれば、「ソウェトの住民が入植した結果、ヨハネスブルクは白人の町ではなくなった」のである。

「白パンと黒パン」で挟んだサンドイッチ

 人種に基づく居住地の分離を図る集団地域法の下で、ヨハネスブルクは20年近くアパルトヘイトの都市だった。だが70年代半ば、インド系やカラード(混血)が都市のアパートに住み出すと、さしもの人種隔離政策をほころびはじめる。デクラーク政権が発足した89年8月には、すでに多数の黒人が中心部に殺到していた。
 白人たちも、この変化をおとなしく見ていたわけではない。一部の地区では、非白人系住民の増加が右翼の反撃を誘発した。1988年には、長年「進歩的な」立場を守ってきたとされるヨハネスブルクで、公然とアパルトヘイト支持を掲げる保守党が市議会に数議席を獲得した。
 現大統領のデクラークも、与党国民党のトランスバール州支部長だった87年、白人居住区に住む黒人を見つけたら警察に通報するよう白人に呼びかけていた。だがソウェトをはじめ黒人居住区の住宅不足が切迫してくると、都心に押し寄せる非白人を食い止める手段はないことが明らかになった。
 ヨハネスブルク(人口460万)の人種構成は、サンドィッチによく似ている。まず、都心の北は白パン。以前から白人富裕層が住んでいる緑豊かな郊外である。
 南側はさしずめ黒パンだ。都心部の南西には犯罪が多発する大ソウェトのスラム(黒人居住区)やエルド・パーク(カラード地区)、レネージア(インド系地区)。南東には黒人居住区のトコザ、カトルホング、フォスルーラスがある。
 さらに白パンと黒パンの間には、インド系が多いメフィアやホームステッド・パーク、混在の進んだトロイビルやジェップスタウン、高層アパートが並ぶヒルブラウやヨービルなどがある。新しい南アが生まれつつあるのは、この長さ約10キロの中間帯だ。
 最後にサンドイッチの中心には、かつてにゴールドラッシュに沸き、ヨハネスブルク発展の基礎をつくった都心部がある。アフリカ大陸最大のビジネス拠点であり、ソウェト住民が可処分所得の多くを散財するショッピングのメッカだ。南アの6大鉱山会社と、マスコミを牛耳る2大コングロマリットの本拠もここにある。
 南ア経済が市場まれにみる景気後退に襲われている今も、ヨハネスブルク中心部では建築ブームが起こり、街の化粧直しが進んでいる。その目玉となるのは、1996年完成予定のバンク・シティ建設プロジェクト(工費1億7500万ドル)だ。
 だが人込みであふれる大通りの雰囲気は、ヨーロッパよりアフリカの都市に近い。そこでは「ホーカー」と呼ばれる露天商がTシャツやトマトなどあらゆる品物を売っている。かつて警察の取り締まり対象だった彼らの存在も、昨年デクラークが行政命令で規制を撤廃して以来、すっかり日常風景となった。

黒人用住宅の不足は絶望的な状態にある

 ヨハネスブルクの都心部で、1日のリズムを決定しているのは黒人たちだ。朝、職場に向かう黒人がどっと押し寄せると、ビジネス街は活気にあふれる。夕方になると、彼らは長い行列を作ってミニバスに乗りこみ、黒人居住区などに帰っていく。これが昼の顔だ。夜になると都心からは人影が消え、強盗や暴力事件の絶えない危険地帯と化す。
 この界隈が最もアフリカ的な顔を見せるのは、土曜日の朝だ。白人ビジネスマンは郊外に引きこもり、買い物にやって来た大勢の黒人でデパートが大混雑する。
 変貌するヨハネスブルクをどう治めていくか。それが大きな問題だ。南ア議会は先週、各都市に対し人種の枠を超えた単一の行政機関の設置を認める法案を採択した。
 おおかたの予測によれば、ヨハネスブルク全市を統合する行政機関の誕生までには、異なる人種間の交渉が最低2年はかかるといわれる。その間、市の行政は白人、黒人、インド系、カラードそれぞれ15の行政組織でバラバラに担当する。
 それでも、ヨハネスブルクは70年代からレストランや公共施設での差別撤廃を進めてきた。この町には、現実の変化に対応した新しい行政機関を他に先駆けてつくり出すだけの素地がある。
 すでにヨハネスブルク圏に住む黒人300万人の多くは、差別撤廃の恩恵を受けている。中央駅の近くで2つの露天商を開いているクレインブーイ・マジャレナ(43)も、その1人だ。
 マジャレナがホームランド(黒人部族別居住地域)からヨハネスブルクに出てきた1974年には、都心の街頭で野菜を売るのは違法だった。彼は1日のうちに3度も警察に逮捕され、いったんは商売をあきらめて故郷に戻った。
 だが「ホーカー」に対する規制が撤廃されると、マジャレナは再びヨハネスブルクで露天商を始めた。今は妻と3人の子どもを十分に養えるだけの収入がある。以前のことを思い出して、マジャレナは言う。
 「あのころは、街で露天を開くだけでパス法に引っかかった。商売をしているという理由で捕まるんじゃないかと、ビクビクしていた。だから、今の状況には満足している」
 とはいえ黒人向けの住宅が絶望的に不足している点は、大ヨハネスブルク圏も他の都市と同じだ。1960年代、南ア政府は都市への黒人の流入を食い止めようと、黒人居住区内の住宅建設を中止した。だが1986年にパス法が撤廃されると、都市にやって来る黒人の数は雪だるま式にふくれ上がり、住宅不足は一気に悪化した。
 ヨハネスブルク周辺の空き地に続々と出現する不法居住キャンプは、住む家のない黒人がいかに多いかを物語っている。都心部に住む黒人たちも、法外な家賃を支払ってスラム街のみすぼらしいアパートを借りているケースが多くみられる。

1991.7.4 Newsweek日本版