南アフリカの古いニュース

20世紀からの伝言 ヨハネスブルグ

許す試練、自らに課し

 南アフリカがアパルトヘイト(人種隔離)の撤廃を宣言してから7年、ヨハネスブルグの地図は変った。
 南の黒人が都心に進出し、白人は押されて北に退く。黒と白のまだら模様が増えて来た。
 南西部の旧黒人居住区ソウェト。なだらかな丘陵地帯に、黒人用の平屋住宅が延々と連なる。
 ポリナ・ズィンバさん(72)は、ここで暮らして50年になる。自宅の広さは50平方メートルほど。「昔はこの家に32人もいた。ベッドの下にも、テーブルの上にも寝ていた」
 差別がなくなり、黒人は居住区の外にも住めるようになった。身内が次々に独立し、いまは長男一家と5人暮らし。やっとゆっくり眠れるようになった。
 旧白人地区のメルデイル。白人だけの学校はなくなり、この地区の学校もすべての人種を受け入れるようになった。
 「最初のころ、子供たちは人種ごとに固まっていました」とジェニファー副校長。「でも最近は、肌の色ではなく、家庭環境でグループが出来るようになった。それが小さな希望です」
 白人たちは落ち着かない。
 黒人の住民と周辺国からの移民が旧白人地区に流れ込み、治安は急激に悪化した。350万の人口に対し、昨年の殺人事件は1,116件。市警本部によると「発生率はたぶん世界一」。
 車の盗難も増え、盗まれた車を取り返すビジネスが登場した。車に発信器を付ける。盗まれたら衛星経由でシグナルを送り、発信器を作動させて犯人を追う。
 大手の追跡会社の回収率は90%以上、5万円ほどの発信器が1年半で4万個も売れた。
 塀に有刺鉄線を巻いて、白人たちは身構える。

____________

 ヨハネスブルグは牧草もろくに育たないような荒地だった。1886年、金鉱脈の露頭が発見され、風景が一変した。一獲千金を夢見る荒くれ者が集まり、町はたった6年で南ア最大の都市になった。
「古顔の白人は『お前の顔が気にくわない』と、けんかを売ってきた」。イタリア移民のジョゼッペ・カターネオさん(69)は半世紀前を振り返る。「口ごたえした黒人は、構内で半殺しにされた」
 市内の鉱脈は1960年代に掘り尽くされ、鉱脈を追って金鉱は次第に遠くなった。南ア有数の金鉱バールリーフは、ヨハネスブルグの南西300キロにある。
 堅坑のリフトで2,000メートルの地下まで4分。地熱で胸に汗がにじむ。切り羽にもぐり、金鉱脈にさわった。灰白色の岩石がかすかに輝く。鉱脈の厚さは、わずか50センチ---。
この50センチが、英国系とオランダ系の白人をボーア戦争へと駆り立て、黒人労働者を地底に引きずり込んだのだった。
 白人政権は第二次世界大戦後、人種差別を制度として確立した。
 国民を人種別に登録し、10ヶ所のホームランドに閉じ込めた。黒人の人口は75%、与えられたのは13%の不毛の地。黒人の多くは家族を置いて、都市や金鉱へ出稼ぎに行くしかなかった。
 全国鉱山労組のモトラツィ議長は「アパルトへイトは黒人を隔離するだけでなく、その家族を引き裂く制度だった」と語る。

____________

白人との血みどろの戦いが続いたが、開放闘争の指導者マンデラ氏は「抑圧する側も『憎しみの因人』であり、開放されなければならない」と説き続けた。
 差別を告発し続けた写真家のピーター・マグバネ氏は「私は白人を許す」と言う。「心に憎しみを抱いていたら、いい仕事はできないから」。体には、警官隊に浴びた散弾の傷跡が17ヶ所に残る。
 「報復はしない」。黒人側が約束し、4年前の選挙で白人政党を取り込んだ連立政権が発足した。
 南アが目指したのは、単なる差別の撤廃ではなかった。「人は人をどこまで許せるか」という試練を自らに課したのだ。
 アフリカは奴隷貿易で若い働き手を連れ去られ、植民地支配で土地を奪われ続けた。
 その中で最後まで苦しんだ南アが、もっとも険しい道を選んだ。
 20世紀の実験である。

1998.4.4 新聞不明