新生南アフリカ・1994

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1994年4月は、全南アフリカ人が参加した記念すべき選挙です。
黒人最初の大統領にマンデラ氏が就任しました。
この選挙の記事は南アフリカを知る上での貴重な内容があります。
当時、私は混乱する南アへの渡航が出来ず、日本で新聞を読んでいました。

新聞記事は、私自身の興味のある内容から掲載していく予定です。
まだよく整理されていません。

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ここは、「南アフリカ・1994」メニューです

 M E N U 

   選挙前の南アフリカ・プロローグ

   選挙前の南アフリカ・1993年6月

    選挙前の南アフリカ・1993年7月

    選挙前の南アフリカ・1993年8月

    選挙前の南アフリカ・1993年9月

    選挙前の南アフリカ・1993年10月

    選挙前の南アフリカ・1993年11月

    選挙前の南アフリカ・1993年12月

    選挙前の南アフリカ・1994年1月

    選挙前の南アフリカ・1994年2月

    選挙前の南アフリカ・1994年3月

    選挙前の南アフリカ・1994年4月(1)

    選挙前の南アフリカ・1994年4月(2)

    選挙前の南アフリカ・1994年4月(3)

    選挙前の南アフリカ・1994年4月(4)

    選挙後の南アフリカ・1994年5月(1)

    選挙後の南アフリカ・1994年5月(2)

    選挙後の南アフリカ・1994年5月(3)

    選挙後の南アフリカ・1994年5月(4)

    選挙後の南アフリカ・1994年5月(5)

    選挙後の南アフリカ・1994年6月以降

 先ずは下記の「選挙後の新生南アフリカ」を読んでから、
各ページへお進み下さい。

1994年当時の南アフリカの主な政党 <国会議席400>

ACDP  (アフリカキリスト教民主党) <2>
ANC   (アフリカ民族会議) 
<252>
AWB   (アフリカーナー抵抗運動)
AZAPO (アザニア人民機構)
CNETU (非ヨーロッパ人労働組合評議会)
COSATU(南アフリカ労働組合会議)
CP    (保守党)
DP    (民主党) 
<7>
FF    (自由戦線) 
<9>
FSAW  (南アフリカ女性連合)
ICU   (産業商業労働者組合)
IFP   (インカタ自由党) 
<43>
NP    (国民党) 
<82>
NUM   (全国鉱山労働者組合)
PAC   (パンアフリカニスト会議) 
<5>
SACP  (南アフリカ共産党)
SACTU (南アフリカ労働組合会議)
SAIC  (南アフリカ・インド人会議)
SANNC (南アフリカ原住民民族会議)
SASO  (南アフリカ学生機構)
UDF   (統一民主戦線)
UP    (連合党)

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 マンデラ新大統領の就任演説 (要旨)
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1994.05.11(ヨハネスブルグ10日=西田)

 南アのマンデラ新大統領が10日行った就任演説の趣旨は次ぎの通り。
 1.今日、我々は新たに生まれた自由に、栄光と希望を与える。あまりに長く続いた人類への災厄から、すべての人が誇りをもてる社会が生まれなければならない。
 1.恐ろしい抗争に我々の郷土は涙した。また、世界的に人種差別が有害とされるイデオロギーになったため我々の国は世界の人々から軽蔑され、孤立してきた。
 1.我々は、比較的平和のうちに、自由への最後のステップを踏み出すことに成功した。我々は多くの国民の胸に希望を植えつけるべく努力し勝利を収めた。黒人、白人を始めすべての南ア国民が胸を張って歩ける社会を、世界とともに築く段階に入った。
 1.国家刷新のあかしとして、新政府・国民統合政府は、様々な因人に対し、恩赦を発表する。
 1.この日を、この国のすべての英雄と、様々な形で生命をかけてくらた世界の人々にささげる。
 1.すべての国民に、正義と平和、さらに職、パン、飲料水、塩が行き渡るようにしよう。
 1.一部国民が他の国民を抑圧することや、世界の嫌われ者となる不名誉を、この美しい国で決して繰り返しはならない。
 1.これだけの輝かしい偉業を前に、決して日は沈むことはない。アフリカに神の祝福あれ。

東欧崩れ改革決意 被害者意識強い白人救えるか
1994.05.11(ヨハネスブルグ=勝田)

南ア第2副大統領に選出された フレデリク・ウィレム・デクラーク氏

 「信念を持って、大統領権限を渡す。これは、主権が国民、憲法とともにあるからだ」「マンデラ氏は全国民の祝辞、希望と祈りに値する人物だ」
 デクラーク氏は2日、首都プレトリアの党本部で、アフリカ民族会議(ANC)の勝利をたたえ、1948年以来の与党だった国民党の敗北内外に認める歴史的な演説を行った。
 演説を終えると、目をうるませ、傍らで夫を勇気づけるマリケ夫人の姿とともに、支持者の胸を打った。「偉大なる改革者」「真の勇気を持つ男」とも称賛された。
 50−60年代にアパルトへイト(人種隔離政策)体制を築いた南アでは、低賃金の黒人労働力により、白人は一時、「欧米以上」とも言われる生活水準を維持した。デクラーク氏は1936年、ヨハネスブルグで曾父母の代から政治家という家に生まれ、この「黄金期」を見て育った。
 父親は元上院議長。高校時代から白人政党、国民党の青年部に入り政治家を志した。78年以来、大臣職を歴任し、89年2月、国民党党首に就任。同年9月、大統領となり、白人が権力を独占する南アで、既成のエリートコースをまい進してきた。
 しかし、ホームランド(部族別黒人居住区)政策の失敗による都市への黒人流入、国際的な南ア制裁などで少数支配体制にも陰りが生じ、大統領就任時には、体制崩壊の兆しすら、少しずつ見え始めていた。
 デクラーク氏は改革に着手した後、「(89年の)東欧社会主義の崩壊を見て、それまで考えていた改革を決断した」と、述懐している。南部アフリカの牙城(がじょう)だった南アで、南ア共産党と密接な関係を持ってきたANCに、後ろ盾がなくなるとの現実的な判断だったようだ。大統領就任後、マンデラ氏釈放(90年2月)、アパルトヘイト法案の撤廃に踏み切った。
 アパルトへイトは、黒人だれでなく、アフリカーナー(欧州系白人)をも、世界情勢から遠ざけた。知識階級以外の多くの南ア白人は、いまだにデクラーク氏を「売国奴」「史上最低の白人大統領」と呼び、憎悪すら抱いている。
 こうした現状の下、副大統領となった同氏は、これまでの現実的な政策運営を新政権にも反映させ、被害妄想に悩む白人を救済できるか、という重い責務を負っている。58歳。

ANCの緻密な交渉役
1994.05.11(プレトリア=五十嵐)

南ア第1副大統領に選出された ターボ・ムビュエルワ・ムベキ氏

 「第1党・アフリカ民族会議(ANC)の外交局長を務めた「国際部門の顔」。タンザニア、ナイジェリアなどブラック・アフリカ主要国の駐在。国内で非合法組織だったANCを海外から支援する体制を組織してきた。
 ソフトな物腰と軽妙な語り口。国境、党派を超えた交際の広さには定評がある。全人種の和解と共存を至上命題とする「国民統合政府」には不可欠な存在だ。
 マンデラ新大統領と同じトランスカイの出身。父、ガバン・ムベキ氏もANCの活動家。14歳からANC青年同盟に参加する一方、英才教育を受け、英国サセックス大学に留学、経済学修士号を取得した。
 91年12月、政府やANCなど主要政治勢力19団体が参加して開いた「民主的南アを目指す大会」では、ANCの交渉代表として、本格的な制憲交渉に先べんをつけた。当時の交渉相手だった国民党の担当者は、ムベキ氏について「表の陽気さにだまされると大変。頭の中は非常に緻密(ちみつ)で、言葉もよく計算されている」と評する。
 ANCと対立する黒人右派「インカタ自由党」の選挙参加を求める交渉では、ANC交渉チームの代表のラマポーサ事務局長(41)を前面に立てて参謀役に徹し、マンデラ氏と緊密に連絡を取って交渉の道筋をつけた。マンデラ氏がナンバー2に抜てきした背景には、緊急時でも国政を任せられる人物との判断があったようだ。51歳。

選挙直後の新生南アフリカ

黒人「忘れないが、許そう」南ア、善意が融和を後押し
1994.05.12
(那須)
   
 
アパルトヘイト(人種隔離政策)の国、南アフリカ共和国は、初の黒人大統領ネルソン・マンデラ大統領の就任で、民主国家として生まれ変わる。

 南アの建国は1652年、当時の列強、オランダの東インド会社船団がアジア貿易の拠点として入植したのに由来する。他のアフリカ諸国との違いは、欧州大陸系白人入植者の子孫が自らをアフリカーナーと呼び、南アを単なる植民地を越え、神が与えてくれた神聖な祖国と見なしたことだ。
 だから、第二次大戦後の1960年代、アフリカに独立の風が吹いた時、南アはこの動きと逆に、アフリカーナーの国民党政権が白人支配をますます強化していった。国民党が御旗に掲げた政策が、人口のほぼ二倍に過ぎない白人社会が富と権力、87%の国土を独占、圧倒的多数の黒人を国土のわずか13%に当たる不毛の地に押し込め、白人の既得権益を守っていくアパルトヘイトだった。
 80年代、国民党政権は黒人だけを独自の居住区に押し込めるホームランド政策を一層推進、黒人を除外し、カラード(混血)、インド系社会をアパルトヘイトの中に取り込む三人種会議制度を創設した。
 しかし、こうしたうわべの改革政策は当然のように失敗に記し、89年発足したデクラーク前政権は、最終的にアパルトヘイト放棄を決断、黒人との融和、共存模索に追い込まれた。背景に、@国際社会が課した制裁による南ア経済の疲弊Aアパルトヘイトゆえの国際社会からの孤立Bアフリカ民族会議(ANC)など反アパルトヘイト組織の抵抗運動などがある。
 だが、何よりも、人口500万人に過ぎない白人社会がその6倍の人口を有する黒人社会をいつまでも力で支配するのは、おのずと限界があった。行き場のない黒人若者の怒りが南ア当局を越え、やがて一般の白人社会を標的に据えるのは目に見えていたからである。
 デクラーク前政権からバトンタッチを受けたマンデラ新政権は、白人と非白人の膨大な経済格差というアパルトヘイトの傷痕だけでなく、他のアフリカ諸国が独立時に持ち得なかった利点も譲り受ける。それは、長年の反アパルトヘイト闘争で白人、黒人双方の社会が高い政治意識に目覚めていることだ。
 デクラーク前大統領は今月2日、政権引き渡し式の演説で、「すべての南ア国民は今、自由の身となった」と語った。むろん、富裕な一部白人層が高圧電流の通った塀に囲まれた生活している現状が、南アから即刻消えるわけではない。
 しかし、この発言が、反アパルトヘイト運動で84年にノーベル平和賞を受賞した南アのデズモンド・ツツ大主教が訴え続けてきた「南アでは黒人が開放されるまで、だれも自由になれない」という主張と同じだったことは印象深い。
 南ア放送テレビの視聴者参加の討論番組では今、アパルトヘイトの悪を率直に論議する場面にしばしば出くわす。黒人参加者はアパルトヘイトの非人間性は激しく糾弾しても、耳を覆いたくなるような敵意、憎しみはそこにはない。黒人ゲストは口々に、「忘れないが、許そう」と語る。
 新生南アには、幸い、白人、黒人双方の社会にはまだ十分な愛、善意が残っている。  

選挙2年後の新生南アフリカ

南ア、新憲法を採択 主要政党間で妥協成立
1996.05.09
(ナイロビ=川崎)

 南アフリカ共和国の新憲法法案がマンデラ政権誕生二周年を前にした8日、ケープタウンで開かれた制権議会の特別会合で三分の二以上の賛成多数で採択された。
 新憲法制定の大詰め作業では7日深夜まで、黒人層を代表するアフリカ民族会議(ANC)と旧白人与党の国民党が教育、財産権、労働権の三点で対立した。このうち教育は、オランダ系白人の望む単一言語での教育を許すため、公立学校を私立学校に転化することを認め、公費補助を続けることで妥協した。
 また、財産権では白人優位の土地制度改革のために土地分配に際し、市場価格での購入処置をとることで妥協。労働権では、暫定憲法に含まれていた経営者のロックアウト権を削除することで合意した。
 ANCと国民党の二大政党を中心とした2年間の交渉はたびたび暗礁に乗り上げたが、そのたびに切り抜けてきた。南アは1990年2月に非合法だったANCのマンデラ副議長(当時)を釈放して以来、6年で抑圧的な警察国家からリベラルな憲法を持つ民主国家に変わった。
 しかし、今回の新憲法制定に懸念が全くないわけではない。ズールー族中心のインカタ自由党(48議席)はANCと国民党中心の制憲論議に反発して昨年春から交渉をボイコットした。今後の同党の出方が注目される。
 南ア新憲法は、民主主義の価値と社会主義の現実をうたい、人権、性による差別を禁じた。また、強い大統領制とともに州の自治権も認めた内容。暫定憲法で求められた、5%以上を得票した政党による強制的連立である国民統合政府構想は削除された。妊娠中絶などの権利も盛り込まれているが、昨年憲法裁判所が決めた死刑廃止については盛り込まれていない。新憲法は憲法裁判所の審査の後、施行される。

南ア国民統合政府2年で幕閉じる

1996.06.28 (ヨハネスブルグ=川崎)

 南アフリカの政府は30日、1994年5月のマンデラ政権発足から続いてきた国民統合政府から第2党で旧白人政権与党の国民党が離脱することで、大きく転換を迎える。少数白人支配から平和的な民主化を図る交渉で実現した「人種間の権力分有」制度だった暫定的な国民統合政府は2年で終わった。

白人政権与党の国民党
マンデラ氏の前に影薄く 政権離脱し野党で「再起」

 マンデラ大統領は、国民党の6閣僚のうち、4人を自ら率いるアフリカ民族会議(ANC)で埋め、2閣僚のポストを廃止することを明かにした。第2副大統領だった国民党党首デクラーク氏が抜けた後は、空席にする模様だ。ブテレジ議長(内相)ら3人を送り込んだ第3政党のインカタ自由党は、内閣にとどまるので、7月1日以降のマンデラ政権はANCとインカタとの連立になる。
 国民党は、知事と議会を握る西ケープ州以外の州政府からも離脱することを表明している。国民党がねらうのは、黒人層の圧倒的な支持があり、前回選挙で62%の票を得たANCに対抗する「批判的、建設的な野党」になることである。
 デクラーク氏は。89年に党首に就任して以来、黒人保守層を取り込むことをめざし、国民党を「キリスト教民主主義」的な全人種政党に変えようと努力した。
 しかし、国民統合政府に加わって以来、圧倒的なマンデラ大統領のカリスマ性の前にデクラーク氏の存在は薄れ、マンデラ政権の政策に表立った反対もできないままで、政権最大与党のANCが中央や地方で着々と支持を広げるのを阻めなかった。
 今年5月に成立した新憲法づくりの交渉でも、ANCの主張が大幅に通り、国民統合政府の廃止が合意された。党内では、政権に残っていれば、同党のもともとの地盤であるアフリカーナーとカラードの利益も守れなくなっていくという保守派の不満が強まっていた。
 このため、デクラーク氏は新憲法の国会投票で賛成票を投じることによって制憲過程という移行期間での責任を果たしたうえで、99年の選挙をにらみ、野党としての再出発を図る考えのようだ。
 今後、国民党はANCの失策や、黒人中心となる行政組織の腐敗などの失点を攻撃し、キリスト教民主主義を掲げて、急増している黒人中産階層の支持獲得をめざすことになろう。

20世紀からの伝言 ヨハネスブルグ

1998.04.04 (長岡)

許す試練、自らに課し

 南アフリカがアパルトヘイト(人種隔離)の撤廃を宣言してから7年、ヨハネスブルグの地図は変った。
 南の黒人が都心に進出し、白人は押されて北に退く。黒と白のまだら模様が増えて来た。
 南西部の旧黒人居住区ソウェト。なだらかな丘陵地帯に、黒人用の平屋住宅が延々と連なる。
 ポリナ・ズィンバさん(72)は、ここで暮らして50年になる。自宅の広さは50平方メートルほど。「昔はこの家に32人もいた。ベッドの下にも、テーブルの上にも寝ていた」
 差別がなくなり、黒人は居住区の外にも住めるようになった。身内が次々に独立し、いまは長男一家と5人暮らし。やっとゆっくり眠れるようになった。
 旧白人地区のメルデイル。白人だけの学校はなくなり、この地区の学校もすべての人種を受け入れるようになった。
 「最初のころ、子供たちは人種ごとに固まっていました」とジェニファー副校長。「でも最近は、肌の色ではなく、家庭環境でグループが出来るようになった。それが小さな希望です」
 白人たちは落ち着かない。
 黒人の住民と周辺国からの移民が旧白人地区に流れ込み、治安は急激に悪化した。350万の人口に対し、昨年の殺人事件は1,116件。市警本部によると「発生率はたぶん世界一」。
 車の盗難も増え、盗まれた車を取り返すビジネスが登場した。車に発信器を付ける。盗まれたら衛星経由でシグナルを送り、発信器を作動させて犯人を追う。
 大手の追跡会社の回収率は90%以上、5万円ほどの発信器が1年半で4万個も売れた。
 塀に有刺鉄線を巻いて、白人たちは身構える。
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 ヨハネスブルグは牧草もろくに育たないような荒地だった。1886年、金鉱脈の露頭が発見され、風景が一変した。一獲千金を夢見る荒くれ者が集まり、町はたった6年で南ア最大の都市になった。
 「古顔の白人は『お前の顔が気にくわない』と、けんかを売ってきた」。イタリア移民のジョゼッペ・カターネオさん(69)は半世紀前を振り返る。「口ごたえした黒人は、構内で半殺しにされた」
 市内の鉱脈は1960年代に掘り尽くされ、鉱脈を追って金鉱は次第に遠くなった。南ア有数の金鉱バールリーフは、ヨハネスブルグの南西300キロにある。
 堅坑のリフトで2,000メートルの地下まで4分。地熱で胸に汗がにじむ。切り羽にもぐり、金鉱脈にさわった。灰白色の岩石がかすかに輝く。鉱脈の厚さは、わずか50センチ---。
この50センチが、英国系とオランダ系の白人をボーア戦争へと駆り立て、黒人労働者を地底に引きずり込んだのだった。
 白人政権は第二次世界大戦後、人種差別を制度として確立した。
 国民を人種別に登録し、10ヶ所のホームランドに閉じ込めた。黒人の人口は75%、与えられたのは13%の不毛の地。黒人の多くは家族を置いて、都市や金鉱へ出稼ぎに行くしかなかった。
 全国鉱山労組のモトラツィ議長は「アパルトへイトは黒人を隔離するだけでなく、その家族を引き裂く制度だった」と語る。
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白人との血みどろの戦いが続いたが、開放闘争の指導者マンデラ氏は「抑圧する側も『憎しみの因人』であり、開放されなければならない」と説き続けた。
 差別を告発し続けた写真家のピーター・マグバネ氏は「私は白人を許す」と言う。「心に憎しみを抱いていたら、いい仕事はできないから」。体には、警官隊に浴びた散弾の傷跡が17ヶ所に残る。
 「報復はしない」。黒人側が約束し、4年前の選挙で白人政党を取り込んだ連立政権が発足した。
 南アが目指したのは、単なる差別の撤廃ではなかった。「人は人をどこまで許せるか」という試練を自らに課したのだ。
 アフリカは奴隷貿易で若い働き手を連れ去られ、植民地支配で土地を奪われ続けた。
 その中で最後まで苦しんだ南アが、もっとも険しい道を選んだ。
 二十世紀の実験である。