〜Drink from me and live forever〜

吸血鬼伝説
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第3章・歴史の中の吸血鬼

3.エリザベート・バートリー

<名家の血筋>
 好むと好まざるを問わず、政治的にヴァンパイアを演じてきたヴラド・ツェペシュとは異なり、自らの欲望のためにその身をヴァンパイアへと変貌させた女性が、「血塗れの伯爵夫人」と称されたエリザベート・バートリ(1560〜1614)である。彼女こそヴァンパイアと呼ばれるにふさわしい魔人である。

 エリザベートは1560年、ハンガリーはトランシルヴァニア地方の名家、バートリー家の娘として誕生した。

 バートリー家は、名門ハプスブルグ家とのつながりもある古い貴族の家柄でもある。その血筋は13世紀まで遡り、バートル(強者の意)の異名をもつブリッキウスという人物を祖に持つ。トランシルヴァニア各地に半独立の領主国を持ち、歴代の枢機卿やハンガリーの大臣トゥルゾ・ジェルジ、果てはポーランド国王シュテファンを出すほどの名家であった。エリザベートの父ゲオルグ・バートリーと、母アンナがいとこ同士であることからも血縁を重視した貴族であった。

 しかし、その高貴な血筋は、度重なる近親結婚により暗黒への傾倒を強めてもいた。エリザベートの親族には、悪魔主義者である伯父、同性愛者である伯母、色情狂である兄がいた。その血は、確実にエリザベートにも受け継がれていたのである。

<エリザベートの変貌>
 エリザベートの少女時代は不遇のものであった。バートリー家が名門であるがゆえに、11歳の時から婚約相手の手に委ねられたのである。相手はハンガリーの貴族フェレンツ・ナダジー伯爵である。このナダジー家も900年以上続いた由緒正しい軍人貴族の名門である。

 彼女の不幸は、この婚約者ではなく、婚約者の母ウルスラ・ナダジーとで会ったことであった。口やかましい養母を見るや、エリザベートは一目で嫌いになった。後のエリザベートを生み出す原因となったのは、バートリー家の血もさることながら、この養母との確執にあったのかもしれない。1575年5月8日、ナダジー伯爵は26歳、エリザベートは15歳で結婚し、ハンガリーのニートテ地方にあるチェイテ城に移り住んだ。後の惨劇は全てこの城を中心に起きることになる。

 ナダジーは「ハンガリーの黒い英雄」として知られるようになったほどの国民的英雄で、戦場に出陣することも多く、よい夫であるとは言えなかった。戦国時代であった当時、夫ナダジーは自分の領地を見回るため、城を不在にすることが多かった。そうして暇を持て余したエリザベートは、下男のツルコから幾つかの魔術を学び、そのことを手紙に書いてナダジーに送ったりもしている。

 始めの頃はこうした魔術で気を紛らわしていたが、いつまでも続くわけがなく、ついに彼女は不貞を働くようになった。この不貞にも様々な説があり、チェイテ城から抜け出して駆け落ちしたとか、同性愛にふけったというものなどがある。いずれにせよ、この浮気な妻をナダジーは寛容にも許した。

 しかし、姑となったウルスラはエリザベートを許そうとはしなかった。この不貞騒ぎのあと、エリザベートを厳しい監視下においたのだ。うるさい姑にほとほと嫌気がさしていたエリザベートは、ついにウルスラの使用人を地下室に閉じ込めて、拷問し殺害してしまう。この時、エリザベートに従って拷問に協力したのは、エリザベートの乳母イロナ・ジョー、執事ヨハネス・ウィヴァリー、下男のツルコ、女魔術師ドロテア・ツェンテス、森の巫女ダルヴァリといった面々である。彼らは後にエリザベートが「血の伯爵夫人」となるまで、従い続けることになる。

 嫁と姑の確執はしばらく続いたものの、夫との間に3人の息子と一人に娘が生まれると、それも収まったかに見えた。

 16世紀野ハンガリーは、ルネサンスの輝きから取り残された闇であった。エリザベートの居城チェイテ城があるニートテ地方は、中世の暗い雰囲気の残る田舎であり、ウィーンの豪華な宮廷など夢のまた夢であった。

 エリザベートは、夫と共に何回かウィーンの宮廷を訪れたことがある。その際、オーストリア帝国皇帝マクシミリアン2世は、彼女の美しさを褒め称えたとされているが、ニートテのような片田舎でしか暮らしたことのない彼女にとって、舞踏会や音楽会が連日のように行われるウィーンは、まさに別世界であった。

 楽しいひと時を過ごした後にチェイテ城に戻ったエリザベートを待っていたのは、変わり映えのしない毎日であった。華やかな生活から一転、退屈な世界に閉じ込められたエリザベートの気持ちはどのようなものであっただろうか。戦争に出掛けほとんどいない夫、口やかましい姑、そして退屈この上ないチェイテ城。その退屈と倦怠感が、やがてエリザベートをの精神を蝕んでいった。

 フランスの女流詩人ヴァランチーヌ・ペンローズの書いた伝記によると、エリザベートの日常は、次のようなものであった。宝石類を並べて鏡の前で衣装を着替えたり、女中に命じて髪の毛をくしけずらせたり、肌の手入れを丹念に行ったりした。時には、魔女の大釜のような鍋で草をぐつぐつ煮て、肌を奇麗にする薬を作っていたという。彼女はただ、自分の美しさにのみ、興味を示していたのである。

 1600年、エリザベートが40歳の時、夫ナタジーが死に、次に口うるさい姑ウルスラが死んだ。ウルスラは毒殺されたとも伝えられているが、詳細は不明である。こうしてエリザベートを押さえるものがいなくなったチェイテ城は、魔城へと変貌した。彼女は、その魔性を開眼させ、血の饗宴にふけっていくのである。 <血塗れの伯爵夫人>
 実際にエリザベートが地の饗宴にふけるようになった時期は、はっきりしていない。一説によると、ある女中を折檻した歳に、血の喜びに目覚めたという。エリザベートの身の周りの世話をする女中がふとしたことで彼女を怒らせてしまった。その際にエリザベートは、返り血を浴びるほど女中を打ち据えた。ここまでなら貴族が下僕を虐待するというよくある話に過ぎないが、問題はその後で、女中の返り血をぬぐったエリザベートは、女中の新鮮な血のかかった肌が、まるで若返ったかのように見えてしまったのである。エリザベートは、すぐに女中を手にかけ、その血を全身に浴びた。こうして血液による若返りの作用を信じたエリザベートは、凶行を繰り返すようになる。4人の子供を産み、女の盛りを過ぎたエリザベートにとって、「老い」は最も忌むべきものであった。

 昔から若い処女の血は、美容や若返りに効果があると信じられてきた。古代から現代に至るまで、血は生命の源であるという思想があるのだ。エリザベートもまたこの思想に見入られたのであった。

 かくして、血液による若返りを確信したエリザベートは、執事ヨハネス・ウィヴァリーらに命じて、次々と女中達を殺していった。娘達の血をより効率よく集めるため、エリザベートは、「鉄の処女」という拷問道具を使った。この道具は鋼鉄製で、人間の形を模しており、機械仕掛けになっていた。人形には宝石で装飾が施されており、これがスイッチになっている。この宝石を押すと、人形の両腕が上がり、抱えこむ格好になるため、手の届く範囲にいるものは抱き締められることになる。また、人形の胸は2つに分かれ左右に開くようになっており、開いた胸の内側には、鋭い刃がついている。抱き締められた犠牲者は、内部の空洞に押し込められ、否応無しに刃に貫かれて血を絞り取られることになる。絞りとった血は浴槽にためられ、伯爵夫人が浸かるのだ。

 他にも奇怪な拷問器具がある。人が入るくらいの鳥籠の内側に無数の鋭利な刺をつけ、その中に娘を入れて天上から吊り下げ、左右から思いきり揺さぶる。当然ながら、中にいる娘は傷つき血を流す。そこから流れる血を、下でシャワーのように浴びるのだ。エリザベートは泣き叫ぶ娘の声を聞きながら、恍惚とした表情で血を浴びていたという。

 貴族であるエリザベートにとって、女中の命の1つや2つ、どれほどの価値があろうか。娘が足りなくなれば、近隣からかき集めれば用が足りた。その当時、農民達は貧困に喘いでおり、毎日の生活費を稼ぐのがやっとの有様であった。ましてや、貴族の城に奉公するなどという仕事がおいそれともらえるはずがない。さらに城の中で行われていることなど知るよしもない。娘達はわずかな報酬を受取り、城に奉公に上がるのであった。娘達は嬉々として城の門をくぐっていく。

 城に上がった娘達は誰一人として戻ることはなかった。娘達に会いに行った親達も、ある者は不慮の事故で死んだと言われ、ある者は不祥事を起こして城から逃げ出そうとしたため殺したなどと言われた。結局、奉公に上がった娘と再会できた親は誰もおらず、その噂は、やがて近隣に広がり、城へ奉公に上がろうとする者もいなくなった。

 血が足りなくなると、エリザベートは下男達に命じて、娘達を誘拐させるようになった。やがて、チェイテ城の近辺から、若い娘達が次々と消えていった。

 エリザベートのおぞましい所業は、とどまるところを知らなかった。農民達の娘では飽き足らず、その範囲を徐々に広げていったのである。

 ウィーンでは、彼女のことを「血塗れの伯爵夫人」とあだ名するようになった。これは、彼女がウィーンに滞在したときの行いに由来する。彼女がウィーンに滞在する時に必ず泊まる宿屋があった。伯爵夫人が宿泊した夜には、必ず娘の悲鳴が聞こえ、街路に血が流れていたこともあったという。ウィーン滞在に限らず、伯爵夫人が旅行をする際には必ず何人かの侍女が付き添っていた。当然侍女としてではなく、エリザベートの美容のためである。また彼女のいくつかある別荘の地下室には、常に血の供給源となるべく、十数人の処女が準備されていた。

 その残虐性もとどまるところを知らず、時にはただ死んでいく娘を見て楽しむために、殺すこともあった。ある冬の極寒の日に、女中に頭から水をかぶせて裸にし、外に放り出した。伯爵夫人はその娘が凍えて死んでいく様を見て楽しんだこともあるという。 <女ヴァンパイアの最期>
 1610年12月30日。稀代の悪女に裁きが下る時がきた。エリザベートのいとこであるサルーゾ伯爵に、エリザベート・バートリーの逮捕が命じられる。

 ことが発覚したのは、生贄の一人がチェイテ城を脱走して、当局に所業を訴えたとも、下級貴族の娘をさらったためとも言われている。いずれにせよ、その悪行が当局の耳に入ったのは間違いない。

 この知らせを聞いたハンガリー王マーチェスは、大喜びしてエリザベートを捕らえるべく手配を整えた。カトリックであるマーチェスにとって、バルカン一帯に勢力を持つプロテスタントのバートリー家は、目の上のたんこぶであった。先代の王にして、マーチェスの兄であるルドルフ2世ならば、その神秘主義を愛する性格により、内密に処理したかもしれない。しかし今は陰謀によって兄王をプラハに幽閉した現実主義社マーチェスの時代なのだ。

 部下を引き連れたサルーゾ伯爵がチェイテ城で見たものは、目を覆わんばかりの惨劇であった。大広間には、血を絞り取られた娘の死体や、全身穴だらけになり、息も絶え絶えの娘達がいた。地下牢には、「生贄」となるべく捕らえられていた娘達が、半死半生の状態で脅えながら身を寄せ合っていた。また城の土中から、娘達の遺体が数え切れないほど発見された。一説によると伯爵夫人の狂気による犠牲者は、300人とも400人とも言われている。

 数々の物的証拠が集まり、エリザベートは逮捕された。彼女の身柄はチェイテ城に軟禁状態となり、翌年の1611年1月から貴族院裁判所による裁判が行われた。この間エリザベートは法廷に一度も姿を現わさず、結果は有罪。また、彼女に従った者も有罪となった。イロナ・ジョーとドロテア・ツェンテスは、指を一本ずつ引きぬかれた後、生きながら火あぶりにされた。ヨハネス・ウィヴァリー、ツルコ、ダルヴァリは斬首刑にされた。しかし、首謀者であるエリザベート・バートリーは、公式上何ら罰を受けなかったのだ。王室と血縁関係にあるエリザベートを、簡単には処刑できなかったのだ。だが、このような凶行を繰り返したものを自由の身にしておくわけにもいかず、エリザベートはチェイテ城に監禁されることになった。勿論、その背後にはバートリー一族とマーチェス王とのやり取りもあったであろう。

 そして、チェイテ城には死刑執行人ではなく、大工が派遣され、彼女は寝室に幽閉される。ほんのわずかな隙間が食事の差し入れ口として残され、窓も扉も全て漆喰で塗りつぶされた。こうして、女ヴァンパイアは暗闇の中に封じ込められたのである。

 そして、3年半が過ぎた1614年、エリザベート・バートリーは、54歳で死亡した。彼女の城チェイテ城は、呪われた場所として忌み嫌われ、打ち捨てられるように滅びていった。

 3年半に渡る暗闇の中での生活で、彼女は何を思ったのだろうか。後悔の念に追い詰められていたのだろうか。いや、彼女ならば、光のない暗黒の世界で、もう2度と老いた己の顔を見ずに済んだと喜んでいたのかもしれない。


4.ペーター・プロゴヨヴィッチ

<ヴァンパイアの発見>
 18世紀のヨーロッパに、ヴァンパイアの渦を巻き起こした原因として必ず挙げられる事件が、この「ペーター・プロゴヨヴィッチ」事件である。なぜこの事件がそれほどまでに有名になったかというと、ヴァンパイアという言葉が初めて公式に用いられた事件だからである。

 18世紀当初、セルビアとワラキアの一部が戦争により、オーストリア帝国に割譲された。その際にオーストリア帝国の研究者達が、セルビアやワラキアの風習に着目していったことと、当時流行していたペストの状況調査などによって、地方独自の「ヴァンパイア」を知ることになった。

 1725年9月、セルビア領キシロファ村にて起きたこの事件は、農民ペーター・プロゴヨヴィッチ(?〜1725)が、死亡した後ヴァンパイアとなって蘇り、住民を襲ったというものである。

 ペーターが死んで埋葬された後、一週間以内に合わせて9人が病気にかかり、死亡したことが明らかになった。事件の詳細は文献により異なっているが、死亡した人間が9人いたこと、いずれも著しく消耗してから死亡したこと、犠牲者が死亡する前に、ペーターが夜に現われ首を絞めたと周りの者に告げたこと、などが共通している。ペーターが家族の前に現われたとする文献もある。死んだ後に妻の前に現われ、オパンキと呼ばれる靴を求めたという。妻は、ペーターの犠牲者が増えるに連れて、いたたまれなくなって村を出たといわれている。また、ペーターの息子が、彼の襲われて死んだというものもある。ペーターが死んでから3日後、息子のもとに彼自身が墓から抜け出して訪ねてきた。ペーターは食糧をせがんだが、息子はこれを拒否した。プロゴヨヴィッチは一度は墓に戻ったものの、翌日の夜に再び訪れて食べ物をせがみ、再度拒否されると恐ろしい形相で息子を睨みつけ、去って行った。翌朝、息子は死亡していたという。

<ヴァンパイアの証拠>
 この際の教区司祭および、司祭代理の記録によると、死んでから10週間が経過したはずのペーターの遺体は、以下のような特徴をしていた。

 1.死者特有の臭気が全くと言っていいほどない。
 2.身体は、鼻が少し低くなった他は、生きている時と同じで欠陥はない。
 3.毛髪や髯が伸び、爪は古いものが生え変わっていた。
 4.古い皮膚は白くなってむけて、新しい艶やかな皮膚ができていた。
 5.死体の口の中には血液があふれていた。
 6.生殖器が膨張し、いわゆる「勃起」の状態にあった。

 村人達は、これこそがペーターがヴァンピールである証拠だといい、司祭らが見守る前でくいを彼の心臓に打ちこんだ。死後10週間とは思えないほどの大量の鮮血が胸からほとばしると、村人達はこの大量の血液こそが、犠牲者から奪い取った血なのだと主張した。最後に死体を焼いて灰にすることで、ペーターの処置は終わった。

 この報告書で現われたヴァンピールこそが、今で言うヴァンパイアに他ならない。やがて、この「ペーター。プロゴヨヴィッチ」報告がヨーロッパで広がっていくに連れて、あちこちから同様な事件が次々と見出されるようになっていくのである。


5.アルノルト・パウル

<血塗れのアルノルト>
 「ペーター・プロヨゴヴィッチ」事件と並ぶ歴史的に有名な事件に、1727年から1728年にかけて発生した「アルノルト・パウル」事件がある。同じくセルビアのメドヴェキア村で起きたこの事件は、医師による検死報告書が上げられたことで有名となった。医師の中の一人、ヨハン・フルッヒンガーの報告書である「検死報告」は、ヨーロッパ中の知識人に広まった。また、ロンドン・ジャーナルがこの報告書を翻訳した際、ヴァンパイアという単語が英語に取り上げられるようになった。ヨーロッパ中の知識人達が先を争うようにして読みふけったこの報告書には、時のオーストリア皇帝カール4世も多大な関心を寄せていた。さらに、フランスのルイ15世は、詳細な報告書を別途に求めるほどだったという。

 この事件と、先に挙げた「ペーター・プロゴヨヴィッチ」事件を経て、今まであまり知られていなかったヴァンパイアに対する関心が、ヨーロッパ中で高まっていくのである。

 ことの起こりは、傭兵アルノルト・パウル(?〜1727)が干草を運搬する車から転落し、首の骨を折って死んだことから始めまる。そして、このアルノルトがヴァンパイアとなったために、何人もの犠牲者が出たという報告が、当局に寄せられたのだ。報告書を読んだ地方最高司令部の将官達は、早速事件を調査すべく、数人の将校と医師をメドヴェキア村に送りこんだ。

 傭兵仲間の証言によると、アルノルトは生前、トルコの支配下にあったセルビアのゴサワ近くでヴァンパイアに取り憑かれたが、そのヴァンパイアの眠る墓の土を食べ、血を体に塗ることで身を守ったと話していたという。そのアルノルトが死んでから20〜30日が経過した後、彼に襲われたと証言する者達が現われ、実際に死者も4人出ていたのだ。

 この凶行を終わらせるために、メドヴェキアの村人達は、彼の墓を暴くことにした。その村人達の証言によれば、アルノルトの死体にはどこにも腐敗の兆候は見られず、目、鼻、口、耳から鮮血が見られたという。さらにアルノルトの屍衣や死体を包んだシーツ、そして柩までもが、血に濡れていた。また、爪ははがれ、新しい爪が生えていたという。

 村人達は風習に従って心臓に杭を突き刺した。すると呻き声が上がり、アルノルトの死体から大量の血液が噴出したという。次に村人達は、アルノルトに襲われて死んだ犠牲者達の墓を暴き、同様の処置を行った。また、村人達は、アルノルトは人だけでなく、家畜も襲って血を吸い、その家畜を食べた村人が、この2〜3ヶ月で17人も死んでしまったのだと証言している。村人達は、こうして死んだ者もいずれヴァンパイアになると主張した。

 派遣された将校達はこれらの証言を元に早速死んだ者の墓を暴き、柩の中を調査した。調査結果は報告書としてまとめられ、同時期に死亡しつつも普通に腐敗している例と共に比較検分された。こうすることで、ヴァンパイアと呼ばれる奇怪な現象が現実に起きていることを強調しているのだといえる。

 「ヴァンパイア化」の状態を示した遺体はというと、その地方に住むジプシー達によって、頭を切り落とされ、体と共に焼かれ、灰は川に流すといった処置が施された。


6.切り裂きジャック

<登場>
 19世紀のイギリス。その首都ロンドン。

 世界中に植民地を築き、日の沈まぬ世界帝国を作り上げながら、その首都には闇が覆っていた。「切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)」犯罪史上、世界で最も有名な迷宮入り連続殺人事件である。5人の売春婦が次々と殺され、いずれも死体は無惨に切り刻まれていたため、犯人は「切り裂きジャック」と呼ばれた。その残虐な犯行と神出鬼没の行動から、犯人は悪魔であるとか、ヴァンパイアであるとまで言われるようになった。

 1888年のロンドンで起こったこの連続殺人は、現代に至っても、解決されておらず、犯罪研究家や推理小説家が好んで使うテーマとなった。事件を扱った専門書が何冊も出版され、「切り裂きジャック」事件の専門家のことを「リッパロロジスト」と呼ぶようになった。

 切り裂きジャックの犠牲者は、現在の定説では5名とされている。順に、メアリ・アン・ニコルズ、アニー・チャップマン、エリザベス・ストライド、キャサリン・エドウズ、そして、メアリー・ケリーである。

 19世紀末のロンドンは、繁栄と衰退が同時に存在した時代である。ロンドンのウエストエンド地区は、貴族や特権階級が裕福に暮らしていた。対するイーストエンド地区は貧困の中心であり、犯罪の温床でもあった。事件はその貧困の象徴、イーストエンドで起きた。

<第一の犠牲者>
 切り裂きジャック第1の犯行は、1888年8月31日午前3時、ホワイトチャペル・ロードに面した、地下鉄駅の裏側にある小道バックス・ロウにて発生した。真夜中とはいうものの、地下鉄ホワイトチャペル駅のすぐ後ろという大胆な犯行であった。被害者はメアリ・アン・ニコルズ、42歳。売春婦である。失血が死因であった。彼女の喉は、左耳から喉の中心部にかけて、鋭利な刃物でざっくりと切り裂かれており、その傷の下には、右耳から喉に向けて同様の長く深い傷があった。さらに下腹部に2ヶ所、それも腹部から胸部にかけて切り上げるという残忍な手口によるものであった。

 犠牲者であるメアリは、20歳の時、印刷工ウィリアム・ニコルズと結婚。5人の子を儲けるも、彼女の怠け癖と飲酒癖のせいで、1881年に離婚した。酒で身を持ち崩した女性に働き口などあるはずもなく、結局は金を稼ぐために身体を売るようになった。当時、メアリのような境遇の女性は、何百、何千とおり、人口約300万人を抱える大都市ロンドンの最下層、20万人の貧民たちの一人が彼女だった。

 この事件は、当時発生していた2件の売春婦殺人事件と関連付けられた。新聞は、大々的に書き立て、民衆の好奇心を広く掴むことになったが、やがてこれが、ジャックの犯行を助長していくことになる。

<第2の犠牲者>
 メアリが殺されてからわずか8日後の9月8日早朝、第2の犠牲者が出た。場所はハンバリー・ストリート。労働者や外国船員を相手にする娼婦の巣窟である。犠牲者はアニ−・チャップマン、47歳。彼女もメアリと同じく酒で身を崩し、日銭を稼ぐためにドーセット・ストリートの簡易宿泊所に寝泊りしながら商売していた。

 アニーの足取りは、被害にあった当日の午前1時40分まではつかめている。簡易宿泊所の主人がアニーと話をしており、その際アニーは宿代が払えないため、金を工面してくるからベッドを確保していてほしいと頼んでいる。

 アニーの遺体が見つかったのは、午前6時。野菜市場の運搬人夫が仕事に出ようとした時に、無残な様子で息絶えていたアニーを見つけたのだ。相当抵抗したらしく、顔も手も血塗れであった。彼女が着ていた黒のコートとスカートはたくし上げられており、腹部もめちゃめちゃに切り裂かれていた。前回と同様、喉を切り裂かれ、それが直接の死因となっている。前回と異なる点は、腹部を切り裂いた後、腸を引きずり出し、子宮、膣の上部、膀胱の一部が切り取られていたという点である。この行動から犯人は、医学の心得があるか、屠殺場の作業員ではないかと推測された。

 また、現場で皮製のエプロンが発見されたことから、一時期この連続殺人犯人を「レザーエプロン」と呼ぶようになった。実際には、この皮製エプロンはたまたま前日に捨てられたものであり、事件とは関係がなかった。しかしこのせいで、レザーエプロンを着ける職人が、犯人扱いされてリンチ寸前の目に遭う事もあった。

<第3、第4の犠牲者>
 連続殺人犯の正体がつかめぬまま、9月も終わりを迎えようとする頃、次の殺人が起きた。しかも2件連続して。

 そのうちの一人は、エリザベス・ストライド、44歳。彼女もまた売春婦である。通報が速かったせいで、彼女が死んでからわずか数分で警官が到着。すぐに検死官が呼ばれ、エリザベスの検死が始まった。彼女の死因は、喉の切り傷による失血で、凶器は鋭利なナイフ。連続殺人犯の使う手口と一致した。だが、今までの手口と違って腹部を切り裂いていないのは、犯行の途中で、第一発見者でもある装飾品の行商人の乗った馬車が近づいてきたためであると考えれらた。

 警察は早速周囲の聞きこみを開始し、犯人逮捕に向けて動き出した。だが、事件現場のバーナー・ストリートでエリザベスの検死が行われている頃、もう既に犯人は次の仕事を終えていたのである。

 バーナー・ストリートから徒歩で15分ほどの場所、マイター・スクエア。次の悲劇はここで起きた。犠牲者は、キャサリン・エドウズ、46歳。またしても売春婦である。

 この不幸な目に遭ったキャサリンは、事件の起きた前日の9月29日、夫とともに仕事を探して街をさまよっていた。当然のことながら、仕事が簡単に見つかるはずもなく、二人は途方にくれていた。金策をつけるために2人が別れて行動することにしたのが、午後2時の事だ。その後、夜の8時半、酔いつぶれているところをシティ警察に保護され、留置された。そして30日の午前1時、酔いのさめたキャサリンは釈放された。その後わずか30分後に、キャサリンは切り裂きジャックに出会い、殺されてしまう。

 巡回中の警官が彼女の死体を発見したのが、午前1時半。このわずか30分の間に、ジャックはエリザベス・ストライドでは果たせなかったおぞましい欲望を果たしていた。キャサリンの遺体は、みぞおちからへそ下まで数回に渡って切り裂かれていた。他にも、腸は右肩に掛けられ、肝臓は尖った刃先で突き刺され、さらに腎臓がそっくり切り取られていた。

 幸か不幸か、キャサリンが釈放された直後の午後1時、マイター・スクエアを歩いていた行商人ら3名が、キャサリンと話している男を目撃している。時間的にも、この男がジャックである可能性が高い。目撃者の証言では、男は年齢30歳前後、身長175cmくらいで、手入れの行き届いた口髭、中肉で、大きめのジャケットを着ていた。他にも何人かから、怪しい人物を現場近くで目撃したという証言があり、警察はそれらから人相書を作成し、新聞に掲載した。しかし残念ながら、ロンドンシティ警察もスコットランドヤード(内務省直属の首都警察本部)も、この容疑者を見つけ出すことはできなかったのである。

<ジャックからの挑戦状>
『 親愛なるボスへ。

 警察が俺を捕まえたと言っているが、俺の正体なんざ皆目見当もついちゃいない。やつらが得意げに目星はついたなんてのを耳にして、俺は腹を抱えている。レザーエプロンが犯人だなんて、悪い冗談だ。

 俺は、売春婦に恨みがある。お縄をちょうだいするまでやめる気はない。この前の殺しは大仕事だった。女に金切り声を上げる暇も与えなかったよ。(中略)お次は女の耳を切り取って、警察の旦那衆のお楽しみに送ってやる。この手紙をしまっておいて、俺が次の仕事をしたら、世間に知らせてくれ。俺のナイフはよく切れる。チャンスがあればすぐにでも仕事に取りかかるぜ。あばよ。

   あんたの親愛なる切り裂きジャック    』

 これは切り裂きジャックがセントラル・ニューズ・エージェンシーという通信社に送った手紙の抜粋である。2重殺人が起きる2日前に届いたものだ。この手紙は当初、いたずらによるものだと思われていたが、事態を重く見た通信社がスコットランド・ヤードに回送し、後にその全文が新聞に掲載された。

 今までレザーエプロンなどと呼ばれていた連続殺人犯からの犯行声明文である。マスコミにこのような犯行声明文が載る事事態、前代未聞であり、相変わらず犯人の目星がつかない事もあってか、ロンドン中がこの連続殺人事件の話題で持ちきりとなった。

 この当社が掲載されるや否や、スコットランド・ヤードには多くの手紙が届いた。手紙を真似たものやいたずらと思われるものだけでも、わずか1ヶ月の間に1400通を越えるという有様であった。さらに外国の新聞にも切り裂きジャック事件が報じられるようになり、ロンドンはまさに切り裂きジャック一色と化した。

 警察もあの手この手を尽くしたが、結局は徒労に終わり、切り裂きジャック最後の事件が幕を開ける事になる。

<最後の犠牲者>
 ロンドン市長就任式の日である11月9日。

 スリート・ストリートは、シティ市長のパレードを見ようと集まった人々でごった返していた。その群衆達も、新聞売りの掛け声によって一瞬にして大混乱の渦と化したのである。新聞を求める人々によって、シティ市長のパレードは中止となった。これもジャックによって中止させられたようなものである。

 切り裂きジャックの最後の凶刃に倒れたのは、メアリー・ケリーという25歳の女性であった。彼女が殺されたのは、今までのような路上ではなく、メアリーの借りていた部屋だ。発見者は家賃を取立てに来た使いの雇い人である。その彼が見たものは、血塗れの部屋に転がる、肉塊であった。メアリーの遺体は、誇張なく、肉塊だった。喉は左耳から右耳まで大きく裂かれ、首と胴体が皮1枚でつながっているという状態であった。顔面はめちゃめちゃに傷つけられ、耳と鼻は切り取られていた。他にも内蔵が切り取られていて、一部はテーブルの上に、一部は壁に打ちつけられていた。

 犠牲者となったメアリーは、夫と喧嘩別れをして、簡易宿泊所に宿を取ってはそこで仕事をしていた娼婦であった。当日の午前2時頃、紳士風の身なりをした男と共に自室に入っていくのが目撃されている。その男がジャックであるかどうかは不明であるが、検死によって死亡推定時刻は、午前2時から4時の間とされているため、この男が犯人である可能性は高い。

 この事件に深く関心を持っていたヴィクトリア女王は、このメアリー惨殺事件の報を知るや、ソールズベリー首相に檄を飛ばしたり、関係者による対策会議を行わせたりと、切り裂きジャック対策に力を入れた。一介の犯罪者に過ぎないジャックによって、一国の女王が動いたのである。

 この事件は警察犬の導入など様々な努力がなされたが、結局は解決せずに終わった。以後、類似した事件が発生するも、犯人が逮捕されたり、決め手に欠けるものが多かったりと、切り裂きジャックの犯行であると見られる事件は全く起きなかった。メアリーを解体する事によって、おぞましい欲望を満足させたのか、切り裂きジャックはこの事件を最後に姿を消したのである。

 ジャックは殺人鬼である。だが、そのたった1人の殺人鬼によって、イギリス、いや世界中が振り回された。一国の女王が官僚閣議を開かせ、ロンドン中を恐怖の渦に巻き込んだのだ。その渦は、謎が解明されていない現代まで続いている。いまだにこの事件の謎に惹かれた研究者達が後を絶たないのだ。

 切り裂きジャックの出現は、新しい時代の闇の部分の前触れでもあった。ジャックは20世紀になって数多く出現する、異常犯罪者の祖先とも言うべき存在であり、象徴でもあったのだ。

 ジャックが殺したのは、ヴィクトリア朝時代そのものだったのかもしれない。