鹿島城(別称 吉岡城)


場所      鹿嶋市宮中字城山

城主      鹿島政幹

立地      山城

創築年代   養和元年(1181)

鹿島と言えば今や鹿島アントラーズのホームタウンとして有名だが、立派な城址も残っている。
国道51号線を潮来から鹿嶋市内へ向かう。神宮橋を渡ってすぐ登り坂になるが、国道の北側一帯の台地上が鹿島城である。この国道51号線はかつては空堀で「船津の堀」「大江堀」と呼ばれていた。
「鹿島小前交差点」あたりに往時は大手門があり、現鹿島高校は二の丸であった。二の丸の東、現護国院のあたりは「射の馬場」と呼ばれ練兵場のあった場所である。二の丸と射の馬場の区切りはなく、東西600m×南北500mと広大なものであった。本丸は二の丸のすぐ北側に隣接し、空堀でもって区切られている。現在本丸は城山公園として整備されている。

本丸の北と西側は広いところで幅50mもある立派な水堀で囲まれていた。このあたりの城郭で水堀があるのは珍しいが、特にこの鹿島城の水堀は大規模である。写真は水堀の名残で現在は水田となっている。

本丸北西部に残る腰曲輪。古城の腰曲輪というと、普通は山林に覆われていて確認しにくいものだが、この鹿島城はしっかり整備されているので、木々も伐採されて、この通り腰曲輪も丸裸である。

大手門があった「鹿島小前交差点」。このあたりになると、城の遺構は全く残っていない。地元の人も気付かないのではなかろうか。

本丸と二の丸を隔てる空堀。幅25m、深さ10mくらいの大規模なものである。この鹿島城最大の見どころと言っていいだろう。

本丸への虎口ならびに土橋。ご覧の通り、舗装されてしまっている。幅は狭く、車が一台通れる程度だ。虎口の遺構はほとんど残っていない。

本丸内部の写真。南北180m×東西150mのほぼ正方形の形をしている。なにせ城山公園なのできれいに整備されている。

本丸の周囲はご覧の通り、舗装された遊歩道と化してしまっている。おそらくこの土の高まりは土塁跡に違いないのだが、なにもこんなことにしなくてもいいものを・・・。残念なこと限りない。

調査しに行った時はちょうどツツジ祭りの最中で、美しいツツジが咲き誇っていた。

本丸から西側の北浦を望んだところ。遠方に見えるのは最近、バス釣で有名な北浦。その対岸は潮来町である。なかなか風光明媚な場所で、軍事的に見ても西から攻めてくる敵は丸見えで、優れた立地といえる。

鹿島城は常陸大掾氏の一族、宮本郷粟生(鹿嶋市)に住む鹿島三郎成幹の子、政幹がこの地に移り住み吉岡城を築城したことに始まる。治承4年(1180)に源頼朝が平家追討の軍を起こしたとき、政幹はこの宗幹・弘幹を源義経の軍勢に参加させたが、文治元年(1185)の屋島合戦の際、討ち死にした。頼朝はその功を労い政幹を鹿島神宮の総追捕使の職に任じ、以後、鹿島氏は急速に勢力を伸ばしていった。
『鹿島治乱記』によれば、大永3年(1523)、城主義幹は城の大改修を行い、それが高天原合戦の引き金になったという。高天原合戦というのは城主義幹と家臣たちとの間での内紛である。島崎氏が家臣たちに力を貸したこともあって、義幹は敗れ鹿島城を捨てて下総の森山城へ逃れていった。残った一族は義幹の兄の女婿として府中から大掾高幹の子、通幹を迎えて新城主とした。
天正19年(1591)、佐竹義宣は「南方三十三館」と呼ばれる鹿島・行方両郡の諸豪族の当主とその息子たちを太田城へ梅見に招いた。鹿島城主鹿島清房も嫡男伊勢寿丸とともに参加した。佐竹義宣は常陸統一を狙っていたが、南方三十三館はいずれも結束が強く、城はどれも難攻不落で攻略は容易ではないと考えていた。宴もたけなわ、程良く酔いも入ってきたところで、義宣は三十三館の領主たちを親子ともどもことごとく謀殺してしまった。謀殺後、義宣は三十三館の城を次々に攻撃し始めた。鹿島城では清房の奥方を中心に家臣たちは籠城して佐竹氏と戦ったが、佐竹氏の鉄砲導入と城主不在も手伝ってわずか半日で落城し鹿島氏は滅亡した。
この時、幸いにも清房の子、伊勢寿丸は助かり、のちに徳川家康の命により国分光胤を継ぎ、鹿島神宮の総大行事となり、この職はその子孫によって明治維新まで受け継がれた。この国分氏というのは大崎城(佐原市)の国分氏である。鹿島氏と国分氏は同盟を結んでいたようで姻戚関係でもあった。