第六章
〜土匪、匪賊と馬賊の区別を学ぶ〜

1.土匪、匪賊と馬賊の区別を学ぶ
2.匪賊討伐に明け暮れる日本軍
3.洗顔一つでバレル日本の習慣
4.日本軍の妨害相次ぐ
5.満洲を彷徨う興亜挺身軍
6.山下奉文から挺身軍集結禁止命令
7.騙し討に会い挺身軍滅亡
8.弾雨の中を三千五百騎の馬賊が疾駆

1.土匪、匪賊と馬賊の区別を学ぶ

 彼らの同じシナ服を着て、生ニンニクをかじり、白乾を飲み干すという進一郎の生活振 りは馬賊そのものだった。
 ここで初めて進一郎は土匪、匪賊と馬賊の区別を学んだ。
 各村には自衛組織があり、その構成員のなかには平常は良民として田畑を耕していなが ら、生活のために、あるいは時勢に反抗するために相集まって盗賊行為をするものもいた 。これに無頼の徒も加わることがあったが、この連中がいわゆる「土匪」とか「匪賊」で あった。
 シナ人民の歴史は古代の昔から歴代王朝や官憲の苛斂誅求に悩むとともに、北方 から砂漠を越えて疾風のように襲ってくる略奪者に脅えていた。王朝や官憲がこれらの略 奪者に防衛の処置をとらない上、略奪者以上の簒奪をして農民を脅かす以上、農民がみず から自衛する以外に道はない。そこで自衛組織が生まれ、かつ異常に発達し、「保衛団」 とか「連荘会」などどいう民間自衛組織が発達していた。(この自衛組織は古来中国では、「侠」と呼ばれ、三国志に登場する劉備玄徳や関羽雲長はその頭目だった。)
 この「保衛団」の専従職員ともいうべき遊撃隊隊員が、「馬賊」であった。彼らは自ら「緑林の徒」であることを誇りにし、少なくともその縄張り内においては仁義を守る任侠的な存在として農民たちを守るという、日本の任侠仁義とかなり相通ずる馬賊道ともいうべき一面を持っていた。
 実際に彼らは日本の任侠の徒と同じく「縄張り」をもち、その維持に多大な精力を傾け ていた。まるでそっくりではないか。
 その正統馬賊のいう任侠とは、道教の教えに従うもので、仁は人をたすけること、侠 は命を捨てて模人を助けることで、このために命を落とす勇士も多かった。
 日本の任侠は盃を交わした義兄弟という言い方をするが、馬賊ではお互いの腕にナイフで 傷をつけその血をお互いにすすりあうことで義兄弟の契りを交わす風習だった。
 進一郎も当然のごとく命を的に闘った数多の勇士と義兄弟の契りを交わしていた。腕に ある幾筋かの傷跡はこの時の契りの跡であった。
 馬賊たちの統制も立派なものだった。隊員たちは厳格な統制があり、独自の作法や習慣 があって、彼らはあくまでも住民の自衛のための組織集団、ないしは住民の唯一の保護者 であることを自負していた。
 彼らが村落を訪れる時の住民の視線はまさに「清水の次郎長一家の大政小政」に通じる ものがあって、住民の間では一種のスターでもあった。
 それだけに彼らは勇敢であることと同様にスター性を重んじて身形には気をつかい、そ れなりにお洒落でもあった。
 小日向は日本人としては珍しく、シナ人の自衛組織のなかに入り込み「総攬招」(大頭 目)になった稀有の人物だったが、「正統馬賊のメッカ」ともいうべき千山無量観で葛月 潭老師についてまる三年間修業していることを知ったのもこの時だった。

2.匪賊討伐に明け暮れる日本軍

 日本軍はこの当時、日夜、「匪賊討伐」に明け暮れていた。前述したようにシナでは農 業や牧畜を正業とする良民といえども自衛のために銃器を保持していなければ生存してい くことは難しかった。なにしろ、高粱が収穫できる時期になると、収穫の悪かった村では 村ぐるみ近隣の村落を襲って略奪する歴史が長かったのだ。
 ところが日本の常識、日本軍の知識では良民は銃器とは無縁であった。
 従って、日本軍は土匪、匪賊、馬賊、山賊、良民の区別がつかず銃器をもっていれば、 誰彼問わず匪賊として討伐の対象にしていた。
 日本軍が正規兵で銃器、火器のレベルが格段に優れていることは今更言うまでもないこ とである。迫撃砲、臼砲、機関銃などの火器がものを言って、小銃と拳銃しか所持していな い匪賊や馬賊など討伐することはいともたやすいことであった。
 しかし、日本軍がトラックや徒歩で移動するのに対して、匪賊や馬賊は乗馬で移動するの が常だった。しかもトラックの入れないような山間地でも彼らは自分の家の庭のように軽 々と移動し、日本軍を悩ませた。
 従って、日本軍が「匪賊を討伐した」と記録したもののの大半は単に騎馬隊を追い払っ ただけで、彼らの息の根を止めたわけではない。
 相変わらず日本軍は鉄路の点と線を確保するだけで、満洲の荒野は匪賊や馬賊が支配し ていることに変わりはなかった。

3.洗顔一つでバレル日本の習慣

 このようにして進一郎は馬賊になりきり、シナ人に成り切って生活していたが、あくま で日本人であることを思い知ることになった。例えば、シナ語がいくら上手くなっても日 本人のシナ語はあくまで日本人のシナ語であった。
 だから、シナ服に身を包んで大陸浪人だのと豪傑ぶっても所詮日本人はシナ人になりき ることはできないというのが当時の進一郎の信条だった。
 とくに日常の生活習慣に深く根ざしたものは一朝一夕には変えられなかった。
 顔の洗い方一つでも日本人はシナ人になりきれないのだ。日本人は手を動かして顔を洗 うが、シナ人は手を動かさず顔を動かして洗うのだ。これだけは長年の習慣で簡単には変 えられない。この日本人式の洗顔のためにシナ人に変装した日本人密偵の身分がバレて一 命を落とした例も多く、進一郎はシナ人の変装は滅多にしないことにしていた。
 また戦闘中であるから、敵に追われて逃げる時に落馬し、もはやこれまでと拳銃を口にくわ え、自決しようとしたことさえあった。
 この時に、  「命を粗末にしてはいけない」  と進一郎から拳銃を取り上げ自殺を止めさせたのが尹徳炎だった。
 ここで、進一郎はシナ人の人生哲学も学んだ。
 「一つしかない命は粗末にしてはいけない。日本人は命を粗末にするが、シナ人は両手 両足を失っても自殺なんかせず、乞食をしながらでも堂々と生きていく強かさがある」  のだ。この後、いくたびか危険な目に合うが、絶対絶命の危機にあっても生き延びる強 かさを身につけたのはこの尹徳炎の一言がモノを言ったようだ。
 その頃の戦地の写真が今も残っている。進一郎がシナ服で真っ白な蒙古馬に跨がり、青 龍刀を背負い、懐には愛用のモーゼル8号をしのばせ、手には白い穂のついた手槍をもち 、尹徳炎を従えている姿はまさに戦場の勇姿といってもいいだろう。
 その他、戦地での写真は数多いが、当時の戦地では写真を取りたがる豪傑?が多かった のかもしれない。
 後年、進一郎は二挺拳銃の名手として知られたというが、その使い方は西部劇とはまっ たく異なる馬賊流のものだった。
 西部劇では二挺の拳銃を両手で同時に発砲するが、馬賊の二挺拳銃は敵と戦う場合に一 挺の拳銃で敵と戦いながら、片手でもう一挺の拳銃に弾を込めるのが流儀だった。
 激戦の間も弾丸がある間だけは射撃を続けられ、友軍が到着するまでの時間稼ぎをする というのが馬賊流の二挺拳銃の使い方だった。

4.日本軍の妨害相次ぐ

 山西省喜県城における籠城戦からやっと脱出した興亜挺身軍であったが、行く手には悉 く妨害する日本軍の姿があった。
 昭和十二年秋から十三年の夏までの興亜挺身軍に起きた数々の不祥事件を列挙すると。
一、第一支隊の隊長、非(非の上に告)天は北京郊外の玉泉山に集結中を北京の牟田口簾 也連隊長の連絡員黒木某の謀略にかかり、北京郊外の「火の会」という山窩の縄張り地区 におびき出され、副隊長、皆川修太郎と共に生きたまま古井戸に投ぜられて虐殺された。
二.第三支隊は昌平県内に約六千余を集結中、その支隊長の候顕成が日本軍某機関に拉致 されたので、隊の編成に大混乱を生じたが、辛うじて副支隊長馬有山をして、その編成を 完成させた。
三.第四支隊は、北京北方の楊房に本部をおいて、約二千人が集結したところ、当時南口 に駐屯していた穂積大尉の指揮する一個中隊に包囲されて不意の攻撃を受けた。支隊長劉 玉才と隊付き日本人田中某は、反撃に出ようとする部下を慰撫し、日章旗を挙げ前進し、 了解を求めたが、日本軍は盛んに銃火を浴びせた。
 彼我の距離は僅か二百メートルであり、我が方の敵意のないことは明らかに日本軍に判 るはずであるのにもかかわらず銃火熾烈を極めたので、遂に反撃に出たため、穂積隊は混 乱し危機に陥った。
 この昌平駐屯の一木少佐(芦溝橋事件発端の責任者)は大隊を率いて南口まで出動しし 応援体制をとり、北京からは牟田口連隊まで出動して味方を包囲殲滅にかかった。
 ここでわが第四支隊は日本軍の意図をはっきり見破って、四辺の山峡に馬賊得意の戦法 で一瞬にして散ったのであった。
四.第六支隊の一部が集結したため北京南方の郊外の大王廟に本部をおいたところ、日本 軍が検閲を名分として出動したので、味方がこれを歓迎して迎えたところ、一斉に包囲捕 捉して武器隠蔽を理由として日本軍は悉く味方を試し斬りにして惨殺した。
 など、信じがたいことだが、すべて友軍からの殺戮行為であった。
 このようにして興亜挺身軍は発案者である谷萩中佐を除いては、日本軍からあらゆる妨 害を受け、そのため玉泉山を中心に集結しようとしていた第五支隊も第六支隊も動揺の色 を見せ始めた。
 小日向も少々狼狽していた。もし小日向を信じて生死を預けて華北に移動してきたあま たの義士たちに不信の念を抱かせたら、折角のこれまでの苦労も水の泡となり、彼らは直 ちに土匪と化してしまうのである。
 こうした小日向の憂慮を知ってか知らずか、突如として北京の警備指令官山下奉文の名に よって興亜挺身軍集結禁止の命令が発せられた。

5.満洲を彷徨う興亜挺身軍

 歩騎兵併せて一万三千五百余の兵は日本軍からの最後の拠点と頼んだ懐来県をも追われ 、五千の騎馬隊を先頭に砲車をひき、銃を持ち粛々として死のような沈黙を続けながら長 城を越えて北京北方の鎮辺城の山中に馬を進めた。
 時々、四辺の山峡の影から土着の山窩部落「火の会」の一味が銃撃をかけてくると、弾 丸が騎兵の耳を掠めた。
 この時、進一郎は馬上で丹念に記録をとっていた。
 小日向はこの若き純真な青年は、  「明日の運命を知っているのだろうか」  と、ふとものの哀れを感じた。
 その時、長城の壊れた城壁の片隅に雨と風とに叩かれた一枚の伝単(ビラ)が張り付け てあった。
 その伝単には、
 「一、民家に入る時には持主の許しを得、出発する時には万事異状ないよう注意せよ。
  二、以下を清潔せよ。
  三、人民に愛想よくし、その手助けをせよ。
  四、借りたものは皆返せ。
  五、壊した物は皆修繕せよ。
  六、正直に買った物には正価どおりの金を払え。
  七、衛生第一、便所は民家から離れた安全の所に掘れ。
  八、捕虜を殺したり、捕虜から略奪したりするな」  と書いてあった。
 これは興亜挺身軍の軍規であった。
 このような軍規をもった友軍を日本軍は目の仇にしていたのだ。

6.山下奉文から挺身軍集結禁止命令

 昭和十三年十二月、山下奉文から興亜挺身軍集結禁止命令が出ると、小日向はすぐ谷萩 中佐をして山下奉文に連絡させ、せめて長城の張家口に当たる懐来県に集結出来るよう懇 請した。
 ここは後宮兵団の管轄地区であったが、無政府状態であったのだ。
 小日向は山下との了解がつくと、谷萩を通じて後宮兵団の許可を得た。
 小日向の意図としては,まず一応懐来県に全軍を集結して、さらに長城外部に沿って南 下迂回して山西河北の省境に跨がる来源、霊邱、渾源、広霊の地区に移動して、ここで満 洲馬賊の自治組織を作ろうと考えていた。
 懐来県に集結すると、次の移動の打合せのため、部下の太田隆三をして張家口の特務機 関長、松井多久郎に連絡した。
 すると、松井は意外にも、  「北支のゴミを皆オレのところに持ってきた。怪しからん奴だ。直ちに持って帰れ。ま ごまごしていると討伐するぞ」  威喝するではないか。
 小日向は驚いて、自ら張家口にある日本軍の連隊本部を訪れ、連隊長に大同の後宮兵団 は了解済みであることを説明して、その了解を求めた。
 この頃、張家口周辺には陳継武の精鋭千五百騎と李景勲の約一千の土匪が荒れ回ってい た。これを持て余していた連隊長は、小日向の懇請を渡りに舟と思ったのか、  「もし貴公がこの両匪を貴公の隊に改編して連れていくなら懐来県の集結を認めよう」 と難条件を付けた。
 幸い、陳継武は多倫の活仏の影響下にあったので、すぐに話がついてこの匪賊を小日向 の部下に改編した。こうしてやっと懐来県集結が終わり、出発することなった。
 しかし、今度は大同の後宮兵団の白銀参謀長からまた出頭命令が来た。
 「長城北部を通過して来源、広霊に移動することは絶対に合いならぬ。行くならば長城 南部を通過して行け」  という命令である。
 それはまったく不可能に近いことであった。近代兵器のない馬賊部隊が国共陣地を通過 出来るはずはないのである。
 小日向は一時はカッと激怒したが、ここで逆らえば日本軍はそれを口実にとして興亜挺 身軍を殲滅するだろう。
 そこで無念の涙を呑んで耐えに耐え、懐来に帰り、協議の結果、再び長城を越えて引返 し、北京北方の鎮辺城の山中に向かって移動を開始した。
 このとき、牟田口部隊の策動によって長城一帯に蟠踞している「火の会」はゲリラ戦を 仕掛けて興亜挺身軍を悩まし、その前進を妨げた。
 この間、僅かに張家口の外園大隊のみが、興亜挺身軍に同情し山砲、連隊砲をもって興 亜挺身軍の殿軍を務めて掩護に当たってくれたのに感激した小日向は、  「日本武士道未だ地に墜ちざるか」  と涙した。

7.騙し討に会い挺身軍滅亡

 かくて、日本軍の意地悪き圧力をうけながら興亜挺身軍は鎮辺城の山中を横切り、七村 まで辿り付いた。
 小日向は七村まで来ると、そこに全軍をとどめ、進一郎一人をつれて北京に馬をとばし 、山下兵団に今後の進路を訊いた。
 この時、山下奉文は面会せず、代理の若い将校が出て  「後宮兵団からは何の連絡もない。日本軍は興亜挺身軍を匪賊と見做して討伐する」 と宣告した。
 この言葉に激怒して小日向は、日本軍と一戦を交える気でいたが、この戦いを聖戦と信 じて闘う、日本兵を銃火にかけるに忍びず、再び鉛を呑む思いでこらえ、ついに牟田口連 也大佐の要求によって武装解除に応じることになった。
 九月下旬、日本軍の武装解除を受けるために一部の歩兵と騎兵三千五百騎をつれて約束 の楊房部落に向かった。最悪の事態を予想して大部分を残し、この部隊には日本軍の閲兵 をうけるためであると称した。
 進一郎は事情を知っているため堅く口止めされていた。
 楊房は周囲を山に囲まれた平地だった。楊房には北京から牟田口連隊長と山下兵団の鈴 木参謀長が来ていた。昌平駐屯の一木大隊長も来ていた。この日、周囲の山や野に秘かに 軽戦車や機関銃を忍ばせてわれわれに包囲体制をとっていた。
 小日向と歩兵と配下の三千五百余騎は閲兵をするつもりで整然と楊房郊外に整列した。
牟田口、鈴木、一木と三人の日本将校は一列に並んで閲兵の体勢をとった。
 この時、小日向はこの三人より一歩後退して、秘かに拳銃小白竜の止金を外して、彼ら にピタリと寄り添って身構えた。不気味な空気が四辺を圧した。
 「いっそこの三人を拳銃で擬し、これを人質にし、逆に日本軍の武装解除を」  との思いが小日向の脳裏をかすめていた。
 その時であった、牟田口大佐が武装解除の宣告をせんと、きっと姿勢を正し、佩剣の鞘 を握った。
 その瞬間であった。突如、鈴木参謀長が血迷ったのか、さぁっと左手を高く挙げた。小 日向はぎょっとして全身の血を凍らせた。それは戦闘開始の合図であったからである。
 この鈴木の合図に  「ドーン」  と擢弾信号が鳴って風船が揚がった。
 小日向がハッと息を呑んで、何かを叫ぼうとしたのと、ほとんど同時だった。百雷のよ うな日本軍の攻撃が始まった。
 そして、その瞬間、小日向の配下の三千五百の騎馬隊が歩兵をのこして「わあっ!」と 四方に散って消えた。
 小日向は唖然とこの鈴木の卑劣行為に自失するばかりであった。
 かくして興亜挺身軍は日本軍の卑劣極まる作戦によって滅亡した。

8.弾雨の中を三千五百騎の馬賊が疾駆

 朽木寒三の「馬賊戦記」によると、この部分を進一郎は次のように話している。
 「私は、前夜からおこなわれていた日本軍の包囲に気付いていたが、あくまでも単なる 武装解除だと信じていた。が、日本軍は、包囲殲滅の腹つもりだったのだ。小日向総指令 が前に進み出て、これから軍の閲兵があると演説をブチ始め、次に、日本軍はこのあとわ れわれを武装解除する、と言ったとたん、全軍にものすごい動揺が起こった。いたるとこ ろで先を争ってガチャガチャ、ガチャガチャ鉄砲にタマをこめ始める。騒然たる戦闘準 備だ。
 そのとき、日本軍の信号弾がドーンと上がった。攻撃命令だ。私は、あらん限りの声で  『逃げろッ』  と叫んだ。すると、最も親しくしていた陳継武があわただしく馬を寄せてきて、  『逃げて大丈夫かッ』  『逃げろッ、走れ』  となおも私は叫びつづけた。山をめがけて真先に走りだしたのは李景勲だった。同時に 騎馬の全軍が山に向かって驀走を開始した。私は乱軍の中を縦横に馬で乗りまわし、のど も裂けよと叫びつづけた。
 『馬隊は走れッ』  『歩兵隊はしゃがめッ。伏せッ、伏せッ』  日本軍の将校団は、護衛兵にとりかこまれ、総指令を捕虜にして大急ぎで退避していた 。私は奴らを射って、自分も山に入り、馬賊になりたいと思った。日本軍を憎悪し、馬賊 を懐かしむ激情の発作は、圧倒的なつよさで私をとらえた。
 そのとき、一群の軽戦車が土煙りをあげて走り出した姿が、ちらりと横目に映じた。
 私はもう逃げられぬと思った。日本軍の重機関銃はすでにこの前から、轟然と火を噴い ていた。それに戦車隊の火器が加わり、すさまじい殺戮戦が始まった。
 私は畑の凹地に身をひそめ、この光景を我が眼底に焼き付けて残し、もし生きて脱出できたならば、いつの日か必ず、日本軍の暴虐と背信をバクロしてやるぞと思った。
 三千五百騎の馬賊群は弾雨の中を疾駆して逃げながら、馬上に身をよじって後方を乱射 乱撃した。けなげな、勇ましい戦いぶりであった。
 喊声、怒号、私は、ああ一人でも多く生き延びて山に入ってくれと,神に念じた。しか し、逃げる彼らは片っ端から射ち落とされ、馬上にのけぞって転落した。みるみる戦場に 放れ駒が増していった。
 歩兵三千は初めから抵抗を諦めていた。彼らは皆、地べたにしがみついて同志たちが殺 されて死んでいく姿を見つめていたのだ」  とある。
 職業軍人の浅ましさもここに極まれりといった感のある進一郎の気持ちだったろう。

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第一章〜大正元年 三男進誕生〜
第二章〜野中家に養子に入る〜
第三章〜拳銃不法所持事件で取調べを受ける〜
第四章〜長崎から朝鮮半島を経て新京へ〜
第五章〜蘆溝橋で日中両軍が衝突〜
第七章〜ジェスフィールド七十六号誕生〜
第八章〜K機関所属野中班を結成〜
第九章〜病気の花柳を見舞う〜