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〜ジェスフィールド七十六号誕生〜 |
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1.ジェスフィールド七十六号誕生 2.なぜ上海がスパイ戦の舞台になったのか 3.邦字新聞に「太原漫歩」を連載 4.馬賊もシナ人も同胞 5.矢萩大佐からの説得 6.小日向の子分を連れて雲城に 7.阿片と切れない小日向 8.雲城で諜報活動に従事 9・拳銃の手入れが就寝前の習慣に 10.謀略放送の野坂が標的に 1.ジェスフィールド七十六号誕生 昭和十三年三月 後に上海の暗黒街で進一郎とテロ工作で干戈を交えることになる南京政 府側の特務機関・ジェスフィールド七十六号が上海に新設された。伴野朗著「上海伝説」 を引用して当時の上海の状況を説明しておきたい。 『上海に特務機関・ジェスフィールド七十六号が設置されたのは一カ月前の七月二十四 日であった。機関長は黄河流域の作戦に従事していた第十四師団長から転出した土肥原賢 二中将であった。その下には大迫通貞少将、和知鷹二大佐、晴気慶胤少佐らが配された。 本拠は虹口の旋高塔路の重光堂におかれた。 かれらに与えられた任務はいわゆる「支那事変」の短期解決であった。一つの構想があ った。日本軍の占領下の中国に大物政治家による親日の中央政府を樹立することである。 この政府には、旧軍閥の呉佩孚が協力する算段が立っていた。 問題は蒋介石に対抗できる程の大物を誰にするかであった。土肥原が白羽の矢を立てた のは上海在住の国民党の長老、唐紹儀であった』 この唐紹儀担ぎ出しは蒋介石の藍衣社の暗殺によって頓挫した。 藍衣社の跳梁を許していては、今後の親日政権構想が頓挫するは判断した土肥原機関は ここで急遽、重慶側特務組織である藍衣社やCC団の暗躍を阻止する特務機関の新設を計 画した。 その特務機関の発足がこの年の三月一日であった。 機関の本拠地は上海のジェスフィールド路七十六号の重慶政府軍事参議院院長の陳調元 の二千坪と言われる屋敷跡に置かれることになった。そこで、一般にはゼスフィールド七 十六号ないしは単に七十六号と呼ばれていた。 なお同本部は、土肥原賢二中将、影佐禎昭大佐、晴気慶胤少佐らが月に三十万円ほどの 資金を投下していたという。 頭目と目される丁黙邨は湖南省常徳の出身で、藍衣社の戴笠が一目置く凄腕だった。 軍統局兼第二処長の陳立夫と仲違いし、重慶を去ったが、胸を病み、当時は香港で療養し ていた。 副頭目クラスの李士群は、『折江人で上海大学卒業後、中共に入党、ソ連・ウラジオス トックの東方大学で三年間特務工作を学び、帰国後脱党、国民党に入り、CC団で地下工 作を担当していた』(「上海伝説」)と言われ、特務の専門家である。 特に李子群の周りには、殺人魔王と呼ばれる呉世宝など残虐非道なゴロツキたちが集まっ たが、彼らを紹介したのは青斑のボス季雲郷であった。 「丁黙邨と李子群は広く徒党を配置するためにおよそ上海におけるゴロツキ党員、悪辣 なボス、地廻り、ゴロツキ、中統、軍統の特務、失意の軍人、あらゆる社会のクズをすべ て受入れ、来る者は拒まなかった」と戦後、供述している記録がある。 丁黙邨は土肥原賢二に「藍衣社の特工は、中国の土地で中国流の組織を持って、その道 に熟練した中国人が命懸けになって実効している地下工作」であり、「藍衣社に打ち勝つ ものは、敵に勝さる組織と人材を持った中国人の特工でしかありません」と語ったといわ れる。これが中国人による特務組織「ジェスフィールド七六号」誕生の背景であるが、親 日特務ということで支那の民衆からは「漢奸」として嫌われていた。 2.なぜ上海がスパイ戦の舞台になったのか 以上のような理由で上海では、日本軍・七十六号と重慶国民政府の特務組織および中国 共産党の地下組織との間で激烈な暗闘が繰り広げられていた。 では、なぜこのような闘争の舞台に上海が選ばれたのたか。 第一は、国際都市上海の特異性である。上海は共同租界、フランス租界、華界など権力 の所在を異にする3つの地域からなっており、各国、各団体のスパイ組織に格好の活動の 場を提供していたのである。 第二に日中戦争時期の上海は、日中間の政治戦、経済戦の焦点の一つであった。 国民政府は政府軍の撤退後も、政治、外交、司法などの組織を租界に残していた。と くに中統と軍統は、日本軍人・居留民および親日中国人に対する活発なテロ活動を展開し ていた。 共産党も租界を足場に効果的な抗日・反傀儡運動を進めていた。他方、上海は華中にお ける傀儡組織の拠点の一つであった。 とくに一九三九年には汪精衛の「新国民政府」の建設が上海で進められた。 また戦火で大きな損害を受けたとはいえ、上海は依然として貿易、金融、工業、商業の 中心地であり、ここを舞台に日中両国の通貨戦、物資争奪戦が激しく展開されていた。 このようにして上海は日中戦争遂行のために、日中両国にとって戦略的な意味をもつ、 きわめて重要な都市になった。上海がスパイ戦の激闘の場となったのは、このような理由 からであった。 3.邦字新聞に「太原漫歩」を連載 昭和十四年二月一日、進一郎、二十六歳。 抗日救国路線の蒋介石に対する和平救国路線をとっていた汪兆銘は対日接近策をとって いた。そのため、蒋介石は藍衣社に対して汪兆銘の暗殺を指令していた。身の危険を感じ た汪兆銘は重慶を脱出してフランス領インドシナのハノイに逃れていた。 暗殺された唐紹儀の代わりに陸軍ではこの汪兆銘を中央親日政権の首班に据える構想だ った。この汪兆銘の担ぎ出しには七十六号のプロの腕が必要だった。 興亜挺身軍が殲滅した以上、進一郎の進路は元のジャーナリストに戻るのが妥当だった が、幸いなことに太原の同盟通信には旧知の小林春男がいて前線からの記事を欲しがって いた。 「とにかく一回でいいから四百字で二十枚程度の前線の記事を送ってくれ」 という要望である。 この太原には興亜挺身軍時代に仲の良かった李春太が警察署長と賭博場経営者を兼ねて いたので、ここを宿と定めて取材活動することにした。 例のごとく軍の機密に属する記事は書けないが、進一郎自身が体験した共匪や土匪から 受けた襲撃談や馬賊のエピソードなら豊富にネタを持っていた。 第一回の記事を送ってところ編集長が喜んで「太原漫歩」という連載物になってしまっ た。その時のペンネームは小野沢進。小日向の小、野中の野、中学時代の初恋の女性・沢 田久子の沢をとってつけたものだった。 約一カ月ぐらい、進一郎は石家荘と太原の間を往復しながら「太原漫歩」の前線記者と して硝煙の匂いを後方に送り続けた。 この取材生活は進一郎の性格にぴったりとあっていた。自由勝手気儘に取材活動が出来 、少々与太記事ではあったが、新聞社に記事を送る喜びが進一郎の身体に溢れた。 もちろん、興亜挺身軍の殲滅事件以来、日本軍の作戦に協力する気は進一郎には毛頭な かったから、このまま従軍記者として生きていければそれに越したことはなかった。 山西省の路安作戦(十月)に従軍した時は水、食料ともに枯渇していた。進一郎は止む なく兵と同様にスイカの水分で顔を洗い、カボチャを主食にし、わずかばかりの米を副食 にしていた。進一郎はこの時の辛い体験に懲りてか戦後もカボチャを口にしなかった。 この路安作戦でも進一郎は記者として軍のやり方に不満をもっていた。作戦の遂行より も立身出世が優先する参謀や将校が多過ぎるのである。なかには軍務よりも芸者買いや妾 を養う方を優先する軍人もいた。 4.馬賊もシナ人も同胞 そんな軍人ばかり見てきた進一郎は路安作戦終了後は謀略工作から足を洗って古巣の 新京に帰り、ジャーナリストに戻ろうと考えていた。または義兄弟の契りを結んだ馬賊の 遊撃隊の勇士たちと一緒に生活するのも悪くはない。 もともと、進一郎は大陸に骨を埋める気でいたのだ。 小日向は日本軍がシナの良民を銃火にさらすたびに日本人であることにジレンマを感じ 、いっそ日本人の血の交じっていないシナ人だったら、悩むことなしに日本軍に銃を向け ていたはずと考えていたが、実は進一郎も同じような思いをしていた。 馬賊もシナ人も等しく同胞として接していた進一郎は実際に記者活動をしながらも馬賊 連中との付き合いは前と変わらずで、彼らが経営する博打場に出入りすることの多い日々 であった。どこの賭博場でも未だに小日向の存在は大きく進一郎は大手を振って歩けるか ら気分は上々だ。 大体においてシナ人の博打場の親分は地域の警察署長を兼ねているようなところばかり である。太原でも小日向の一の子分で進一郎と仲のいい李培城が警察署長と賭博場の経営 者の二足の草鞋をはいていた。 そんな連中と生活を共にして渾沌としたシナ社会の現実を見てやろうじゃないか。これ も進一郎の記者魂として一方にはあった。 そんなせいで 「日本軍には金輪際、協力なんかするものか」 と心に決めていた進一郎だった。 5.矢萩大佐からの説得 進一郎が軍の前線と李春太の博打場を行ったり来たりしている頃、興亜挺身軍元顧問の 矢萩大佐から呼び出しがかかり、日華クラブで食事を共にすることになった。 「興亜挺身軍であれだけ活躍した君が、いつまでブラブラしているんだ。丁度、雲城地 区の師団で今、情報謀略の手を欲しがっている。そこへ行ってみないか。そこの参謀長宛 てに転書を書いておくから」 という矢萩大佐に対して進一郎は即座に、 「嫌です。日本軍には一切協力しません」 と断わった。 日本の正規軍は匪賊や土匪を攻撃するにしても、土地勘のあるシナ人が必要であり、そ のシナ人と会話を交わし、かつシナ人を手足のごとく使いこなせる日本人を咽から手が出 るほど欲しがっていることは先刻承知だ。しかし、軍人の嫌な面を興亜挺身軍時代に嫌と いうほど知ってしまった進一郎なのだ。 「なんでなんだ」 と訝しげな矢萩大佐に進一郎は、 「日本軍の兵隊たちに罪はありません。しかし参謀だとか、師団の上の連中はウソばか り言っているではありませんか。誠実さのカケラもありません。どんな手を使ってでも作 戦は勝てばいい。匪賊討伐といいながらその実、罪のない良民を討伐ばかりしている。そ して、自分の階級が上がればいい軍人ばかりです」 と興亜挺身軍時代の各師団の参謀たちのやり口を一々例を上げて糾弾した。 被害者の一人でもある矢萩大佐は進一郎の説に共鳴せざるを得ない。 「わかるよ。僕自身被害者だ。だから君の気持ちは痛いほどわかる。しかし、一時の感 情でそんなことを考えてたら次にくるものが何か分かっているのか。赤紙がくるんだぞ」 「エッ、赤紙が」と驚く進一郎。 「そうだよ。一体誰が野中の赤紙を抑えていると思っているんだ。君が軍に逆らったら それこそ連中の思う壺だ。すぐに赤紙が来て、前線へ二等兵で招集だよ。それでいいのか 。それくらい分からないきみじゃないだろう天秤にかけて考えてみろ」 これには進一郎も参った。第一、一介の新聞記者を其処まで軍が買ってくれていること は男として非常に名誉なことである。はたと感じ入った進一郎はやむなく、 「それで、どういう待遇で自分がいくんですか」 という。すると矢萩大佐は、 「向こうの師団の大久保参謀長、今は大佐のはずだが、彼に連絡しておくから行ってこ い」と待遇面でも保証した。 6.小日向の子分を連れて雲城に 「赤紙」と交換では「太原漫歩」で油を売っているわけにはいかない。 進一郎は当時、太原にいた小日向に会って、 「南山西省の雲城に行くことになりました」 と報告をする。すると小日向は、 「子分を数人雲城に連れていってくれ」 といって、拳銃の名手である方程臣の他、四、五人を連れてきた。 これにはわけがあった。当時、シナ人は船に乗るにも汽車に乗るにも様々な制限があっ て旅行は容易ではなかった。ただし、日本人と一緒であれば事は簡単に運んだ。 小日向はそこに目をつけたのだ。 ところが、連中を連れて雲城城門近くにくると方程臣は進一郎に妙な包みを見せて、 「これを憲兵隊の検問から通過させてください。お願いします」 というのだ。 「一体これは何だ。中身を分からなければウンというわけにはいかない」 と進一郎が言うと、方程臣はアッサリと 「実は阿片です」 と白状した。 「見せてみろ」 と言って包みを開けると、青味がかっていて粗製阿片とヘロインのアイノコみたいのが 出てきた。彼らはこれを粉にしてタバコの銀紙の上にのせて吸っているのだが、ご禁制の 品である。 一体、なぜこんなものをもってきたのか訝しく思って問いただすと、 「尚先生が、これを売って軍資金にしろって言ったんです」と方程臣。 「そんなバカなことがあるか。俺が麻薬嫌いなことは皆がよく知っていることじゃない か」と激怒する進一郎。 カセットテープくらいの大きさの阿片が十個くらいあるから、確かに軍資金にしたら相 当な金額になる筈だ。 元々、小日向だけでなく、シナの軍閥をはじめ日本の関東軍、シナ浪人、日本の商社な ど皆アヘンの元締のようなものだ。阿片窟の経営者が警察署長だって病院の院長先生だっ ておかしくない国だ。 しかも一時とはいえ、小日向は世界中のアヘンシンジケートの元締をやって巨万の富 を得ていた時代もあったくらいである。いわば大陸でもっともアヘン売買、アヘン精製、 アヘン運搬に通じているのが小日向であった。 進一郎にすれば、 「小日向めまた小懲りなく、こんなことに俺を使いやがって」 とカアッとしたが、ともあれ目前に厳然とある阿片の包みを憲兵隊にでも見つかったら 大変なことになる。第一、責任者は進一郎である。阿片の一件も進一郎が首謀者というこ となってしまう。 事ここに至っては「阿片嫌い」というだけではすまない。 進一郎はついに雲上の憲兵隊で「阿片通過」の片棒を担ぐ嵌めに陥るのである。 ここで無事「阿片」を通過できずに発覚したら進一郎のその後の人生はない。 しかし、天は進一郎に味方した。 憲兵隊ではシナ人や日本人を一人ひとり調べているわけだが、進一郎が取調べを受ける 頃にはすでに辺りには夕闇が迫っていた。そこで、進一郎は憲兵隊の検閲風景を見物する 風を装ってその辺をぶらぶらしながら例の阿片を叢にポトリを落とし、何食わぬ顔で 「ところで、私はこれから師団司令部に行って参謀長に面会するんだが、もう少し早く してくれないか」 と憲兵隊の隊長らしき風体の男に申告した。 シナ服を着ているからてっきりシナ人かと思っていたのか、日本人でしかも師団司令部へ 出頭する特務と聞いて憲兵隊の隊長はすっかり面食らってしまった。 「ちょっと待ってください。一行は何人ですか。そうですか、いますぐ憲兵隊の車で師 団本部までお送りします」 と手の平を返したような優遇ぷりに変わってしまった。そうなると事は簡単だ。 進一郎は方程臣に、 「よし、車がくるから荷物をもってこい」 と言って荷物を車に乗せると城門での検閲もなくまんま通過してしまった。 7.阿片と切れない小日向 この一件で激怒した進一郎は後刻、小日向に対して 「なんであんなことをしたんです」 と詰った。ところが小日向は悪びれもせずに、 「いや、これは俺の善意なんだ。君が雲上の師団司令部に行っても軍からはあまり金は でない筈だ。だから、いずれ野中が金に困る時がある。万一の時に備えてこれを金にする ようにと方程臣に渡したんだ」 「第一、これは万一の時の軍資金だと君に言っても君は納得しないだろう。だから方程 臣に因果を含めて預けたんだ」 と暢気なものだ。 進一郎は腹の虫が治まらないから、 「冗談じゃない。オレがいたから憲兵隊の関門をくぐり抜けたんです」 と噛みつくが、小日向は、 「まあ、ここでそう噛みついてもしょうがない」 と暖簾に腕押しだ。 考えてみれば進一郎も多少は恩恵に預かっている身だ。ここはこれ以上詮索しないこと で二人は和解することにした。 しかし、後々に至るまで「阿片」を巡っての二人の見解の相違は変わらなかった。 8.雲城で諜報活動に従事 このような経緯を経てこの年の六月頃には、進一郎は小日向から半ば独立して第二十師 団(村井部隊)、師団諜報班で山西省運城にて諜報活動に従事することになった。 進一郎が村井部隊に行ってわかったことは、同部隊では児玉大尉率いる情報部隊として 児玉隊を結成したが、この部隊は日本だけで結成されていた。 しかし、実際にシナ人の部落を索敵するにしても討伐するにしても、あるいは宣撫工作 を実行するにしても日本だけではどうにもなるものではない。 はやりシナではシナ人でなければ工作はできない。と言ってシナ人ばかりの組織では日 本軍が手を焼くだけだ。 そこで、 「誰かシナ通の適当な日本人がいたら派遣してくれ」 と太原の特務機関あてに軍電が発せられ、進一郎が矢萩中佐にその役目を仰せつかった というのが経緯だった。 当然、まず児玉大尉に帰着の挨拶だ。 「児玉です」 という挨拶に 「特務機関長から転書をもらってきました」 と進一郎が言うと、児玉大尉は、 「大久保参謀長が到着をお待ちしていました」 とすぐに参謀長の部屋に連れて行く。 大久保にすれば親友の矢萩中佐が紹介した人物だから、それ相当の経歴の人物と楽しみ にしていたのだが、進一郎が意外に若いのに唖然とした。 しかし、進一郎を一目見て気にいったのか、矢萩中佐の紹介ということで信頼していた のか、大久保参謀長は普通は見せない転書を、 「矢萩がこういう転書をくれたぞ」 と進一郎に見せた。 その転書には、 「この者は正義感が強く、勇敢で拳銃をよく使い、元馬賊の中にいて嘘当なシナ通であ る。有能な士として認めるので推薦する」 と書いてあった。 9・拳銃の手入れが就寝前の習慣に その日から進一郎は児玉隊に所属した。 小日向と常に行動をともにしていた進一郎だったが、この頃から半ば独立し、山西省総 県、路安、汾陽などにおいて戦死した馬賊の頭目の忘れがたみの少年・尹徳炎ともに共産 ゲリラ殲滅、宣撫工作、索敵、討伐戦、掃討戦など謀略工作に従事していたのだ。 真っ白な蒙古馬に跨がり、腰にモーゼル8号を二挺ぶらさげ、手には白い房のついた槍 をもって背中に青龍刀を背負って、尹徳炎を従えた進一郎は身も心も馬賊になり切ってい た。 「明日の命の保証はない毎日だ」 と呟いて丹念に拳銃の手入れをして寝床に潜る生活が続いていた。 拳銃は分解して油を差し、弾薬も一つひとつ手にとって滑り具合を確かめてからでない と弾込めしない習慣もついていた。これは小日向から学んだことの一つだった。 進一郎を父とも兄とも慕う尹徳炎とは以後、上海時代まで生死をともにすることになっ た。 尹徳炎や方程臣など小日向ゆかりの馬賊の遊撃隊員が行動をともにしたが、彼らは進 一郎を信頼するとともに、今は日本軍に協力することがシナ全土を荒廃と消耗から救済す る唯一の方法という信念をもっていた。 そのためには延安の毛沢東や重慶の蒋介石と対抗し、日本と平和裡に協調的な政府を作 り上げることが先決だった。 その祖国救済の意気に燃える彼らは共産軍の精鋭や蒋介石軍の怒濤のような攻勢にも挫 けず命を的に闘うのであった。 そしてある時は共産ゲリラ殲滅に、ある時は蒋介石軍の宣撫工作、匪賊や土匪と良民の 入り交じった地帯での困難な索敵、山賊の討伐戦、掃討戦など謀略工作に馬賊の遊撃隊員 のプロの腕が実に役立ったのである。 日本軍はいくら武器弾薬が優れていてもしょせん異国での戦闘では現地の人間の案内な しには良民の村一つ通過することは出来なかった。 下手に彼らだけで通過すれば、村を出たところで後ろから小銃の一斉射撃を受けて一個 中隊丸ごと全滅ということもあった。 現地の馬賊を手足のように使いこなせる、進一郎のような日本人が隊員を率いて先導する からこそ、日本軍は行動できるのだった。 10.謀略放送の野坂が標的に 雲城で謀略工作に従事しているころ、師団司令部でよく口論しあった宮内幸五郎作戦参 謀長が、 「野中君ちょっと、俺今度、汾陽に行くんだ。汾陽って知っているか」 「知りません」 「李太白が汾陽で作った美人に枕してという漢詩があるだろう」 「それは知ってます」 「汾酎って酒も知っているだろう」 「それも知っています」 「その汾陽に村井部隊という独立混成十二師団ができ、そこの参謀長に栄転していくん だ。頼むから一緒に来てくれないか」 「半年の約束ならいいですよ」 「半年でもいいから一緒に来てくれ」 ということで汾陽に行くことになった。 この後、昭和十四年十二月、進一郎は独立混成旅団村井兵団、宮内幸五郎参謀長の要請 で転属し、上海に潜入。団野 進(野坂参三)逮捕の命令を受けた。この命令は後に暗殺 に変更された。 野坂参三だけでなく、当時、共産軍の捕虜になった日本人や左翼活動家が共産軍の謀略 放送の一端を担い、盛んに謀略放送を日本軍の兵士向けに放送していたのである。 その反日放送の中枢にいたのが野坂参三であった。 この頃、村井部隊長宛てに奈良部隊長から 「野中をこっちへ配属させてくれ」という依頼があった。 しかし、進一郎は当時、村井部隊での最初の仕事である野坂参三暗殺指令を受けて張り 切っていた時である 「参謀長殿、行くのは嫌です」 と即座に意見を述べる。 ところが村井参謀長には軍の内部事情がある。 「いや、そんなわけにはいかないんだ。奈良部隊長は階級が上だし、これは依頼という 体裁をとってはいるが半命令的な軍電報だから、ぜひ行ってくれ」 「じゃあ電文を見せてください」と進一郎が言うと、村井部隊長は電文を差し出した。 電文には 「キブタイニイルサンボウブヅキノ ノナカシンイチロウ トウブタイニオイテジュウ ヨウナルサクセンニ コノタビ テンシュツサレタシ」 とある。これでは納得せざるをえない。 「そうですか。しかし、私はシナ服しか持っていません。まさかシナ服で旅行するわけ にいかないでしょう。背広着て民間人として旅行すればあっちこっちで軍の検閲に引っ掛 ってしまうから嫌だし」 実際に野中という名字が禍し、二・二六事件の野中四郎大佐の親戚かどうかということ でいたる所で尋問を受けていたのだ。 それが嫌でシナ服で通していたのだが、軍の命令で動くというのにシナ服では通るまい 。それに対して、村井部隊長は 「実はね、君の身分は半任官待遇だと思っていたんだが、よく調べてみると君は佐官待 遇じゃないか。これは高等官だよ。軍の方ですぐに服を作っであげよう」 と進一郎の新しい服を作るよう部下に指示した。 新しい軍服は三日間で出来上がった。進一郎が着る初めての日本軍の軍服であったが、 これには星が二つ付いていた。 「参謀長殿これは何ですか」 「これは高等官の標識なんだ」 「へえ、こんなものですか」 進一郎が軍の階級にほとんど関心がなかったせいである。 この高等官の軍服を着て太原の特務機関に出頭したり、石家荘にも足を伸ばしたが、こ こでも馴染みのカフェの女給や芸者がいて4〜5日遊び歩いた。 北京では旧知の同盟通信社に勤務している新聞記者の小林春男と会って旧交を温めると ともに、お互いに貴重な情報を交換していた。 |
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