


Column 


ここでは私の思ったこと、感じたことなどを特にテーマも設定せず
書いていこうと思います。ときどきわけわからんことを言う場合がある
かもしれませんが、そこは広い御心で何卒ご容赦を。
<new>
2000/7/3「ゆとり」<up!>
天気がいのちであるバイク乗りたちにとって雨は苦痛でしかないものです。ツーリングに出かけても雨に降られると濡れたバイザーごしで景色もよくみえず、カッパを着ないといけないしバイクはびしょぬれと良いことがありません。でも特に忙しい会社員など、時間が限られた人たちは休暇を利用して北海道などに行くと、雨の中かまわずノルマをこなすかのように出発していきます。私も以前、大枚を投じて北海道に初めて行った時、千歳空港ではすでに雨模様でバイクに乗り始めた頃には土砂降りとなり、結局その後丸2日は雨or曇りで残念な思いをしながら走りつづけることになってしまいました。
しかし私は最近では時間に余裕を持って行動し、雨のときは無理せず雨宿りすることが多くなっています。普段の仕事のように「今日中にここまでやっとかなきゃー!!」とばかりに「今日中にあそこまでいかなきゃー!!」といって無理やり走っても苦痛を感じるばかりで、風邪でも引いたりすればもう最悪です。いったい何の為にはるばるやってきたのか、、、それなら街でのんびり映画をみたり美術館で鑑賞したりドームで野球観戦してるほうがずっと楽しめるじゃない、と思うようになりました。雨ならそれなりの過ごし方があると、状況を受け入れて考えるとさほどがっかりしないものです。
いろいろなことに当てはまることですが、自分の中にある程度ゆとりをもって考えたり行動したりすれば、状況が好ましい方向に展開していくと思います。例えば、遊びなら仕事と違って本来、時間やお金をむだ使いするものですから、別に何時何時までになにをしなければならないということはないはずです。要は楽しめれば方法はなんだって良いのです。
ところが近頃、せっかちであったり、思い通りに行かないとすぐキレたり、なにか落ち着かなかったりという人をよく見かけます。なにが理由でそうなってしまうのか。ひとつ思うのは最近の人に「遊びの偏り」があるのではないかということです。例えば最近「遊び」といえばまず思いつくのがコンピュータゲームの類ですが、これらはソフトの製作者の想像のなかだけで展開される「仮想世界」であり、それに夢中になっても所詮、その狭い領域での出来事であり、また何度でもやり直しがきく現実味のないものです。これに「はまって」しまうと普段の生活にまでその影響が出てくるのはむしろ当然でしょう。
社会の高度情報化が進み、生活、仕事がどんどん便利で効率化されてきているなかで、「遊び」まで効率化されてはたまったもんではありません。たまには現実のなかで自分をのびのびと「遊ばせる」ことでもっと心にゆとりが生まれるのではないでしょうか。
2000/5/5 「どこまで聞けるか」
最近のインターネットや携帯電話等の普及によってこれまでの社会のあり方が「衆から個へ」という具合に、主役が変わりつつあるようです。ホームページやメールなどによりこれまで情報を受け取るだけであった個人が容易に情報を発信することが出来るこれからの世の中では、ますます「個性」というものが大切になってくることでしょう。また、情報が氾濫する現在、そのなかからどれだけ意味のある情報を抽出できるかが大事です。そのためには検索方法や情報収集力に長けていることも必要ですが、自分にとって意味のある情報とはどういうものか、情報の価値を判断できる力を持っていることがまず第一であると思います。ディスプレイに映し出されるいろいろな情報やバーチャルな映像など「仮想的なもの」が身の回りに溢れていると、その意味する「現実」を見失いがちになります。
先日、ある機関の世論調査でネット上だけの友人がどのくらいいるかというアンケートに対し、全体の40%という回答が出ていました。人間関係の在り方の変貌を表すこの数字は一方である懸念を持つようになります。それはいうまでもなく、そういったネット上での関係が仮想的なものとして捉えられ、軽んじられるという懸念です。
いくらメディアが発達して家に居ながらにして情報の発信が容易になり、直接人と接する機会が減ったとしても、メディアというのはコミュニケーションの手段のひとつにすぎず、それは面と向かって意思交換することとなんら変わるものではありません。そこでは普段と同様の礼儀や思いやりが欠かせないのであり、それが出来ない人はネットなどに顔を出すべきではないし、礼儀を欠いたままネットに存在したとしてもそれは誰にとっても、もちろん自分自身にとっても無意味どころか有害なものとなります。
他人に対する礼儀や思いやりといったものは、普段からきちんとした人間関係を構築している人には自然と身についていくものです。たとえネット上だけの関係であったとしても、それは決して疎かであってはならないものでしょう。
そういったことを踏まえ、さらに思うのは、自己表現する、アピールする人は大勢いるが、それらに耳を良く傾けることの出来る人が少ないなということです。もちろん自己表現をして他人に認めてもらいたいと思うのは多くの人の共通の欲求であり、また必要なことだと思います。ですが良く言われるように、コミュニケーションというのはキャッチボールのように相手にボールを投げ、相手の球を受けるという形でなければなりません。自分だけ相手に向かって球を投げつけるばかりではコミュニケーションを取ることはできないのです。相手の話を良く聞ける、理解できる、興味を持つ、思いやるということの出来るひとというのは本当に少ないと感じます。拡大してきている個々の時代において野球でいうところの名キャッチャーが増えていけば、ますます豊かなネット世界が育っていくのではないでしょうか。
2000/3/20 「言葉と行動」
私達はいろいろな場面で自分の意思を相手に伝えて関係の構築や円滑化を試みようとし、あるいはその逆に関係に亀裂を生じたり相手との争いをもたらすこともあります。人が御互いの意思の伝達をするために用いる言葉は、使い方によってその効果が全く異なるものになってしまいます。いずれにしろなんとか自分の意図する効果を上げようとするなら、その言葉に相手が充分耳を傾けられるだけの力がなければなりません。
例えば、誠実な人柄で通っているひとと口先だけのひとでは同じ言葉を発したときの影響力が違います。前述の二人がある女性に対し、「今日は一段ときれいだね。」と言ったとします。女性はいうまでもなく口先だけのひとよりも誠実なひとの誉め言葉のほうを喜ぶはずです。なぜならこの二人ではその発する言葉の影響力が全く違うからです。
また誰かがなにか相談を持ちかけようとする場合、当然その人柄というものを考慮して人選するはずです。相手がどういう人間か、これまでどういう行動をとってきた人物なのかということが同じ言葉を聞くにしてもその内容に全く違う価値をつけることになるのです。
大抵の場合、人は他人から信頼され、よりよい人間関係を作りたいと思うことでしょう。しかしひとから信頼されるようになるのは簡単なことではありません。よい関係を構築していくためには、その人の発する言葉が力を持ちつづけるために絶えず相応の行動をする必要があります。「有言実行」でありつづけることがひとから信頼を得ることになるのです。
逆に他人から信頼されない人、信頼をなくす人というのはつまりは口先だけであてにならないひとということになります。こういうひとの言葉ほど力のないものは他にないでしょう。こうなってしまうと実に味気ない人生を送ることになるのはひをみるより明らかです。
よく「何事も経験」ということが言われますが、ある事柄について他人にただ見聞きしただけで話をするよりも自分で実際に体験した上で説明するほうがずっと相手を引き付けることができます。相手にしてもその方が聞いていて面白いはずです。ですからより多くの経験をつんだひとほどより多くの人を引き付け、より多くの信頼を集めることが出来るでしょう。
自分の言葉に力を与えるため、よりよい人間関係を作って豊かな人生になるようにするため努力を怠らないようにしたいなーと思うこのごろです。
2000/2/28 「何が良くて何が悪いのか」
人はいろんな場面で「自分は正しい。」あるいは「あなたは間違っている。」と発言します。この世でそれは善でそれは悪であるという風に、誰が決めたのかはわかりませんが一般的判断基準と言うようなものが存在しているようです。大抵、最初に物事の善悪を学ぶのは両親からでしょう。「ちらけてはだめ!」とか「手を洗ってから食べなさい!」というふうに人として生きていく上で基本的なことを親から学ぶはずです。
次に幼稚園に入ると、他の子供達とともに生活する時間も増え、新たなルールを学んでいきます。「人のものを取っては行けない。」「悪いことをしたら謝る。」「人を傷つけてはいけない。」など、つまり社会で生きていく上での基本的なことを身につけるのが幼稚園あるいは小学校というところであり、やがて上級になるにしたがってより専門的な学習をするようになり、人付き合いも幅が広がり、各々の価値観もよりはっきりした物になります。
おおまかには誰しもこのような教育を受け、どこの国にいっても大体は同じようなものでしょう。
ところが成長して社会に出ていくと、自分が幼いころより学んできたルールが踏みにじられる場合があります。
「悪いことをしたら謝る。」「人を傷つけてはいけない。」と教わってきているはずなのに悪事をはたらいても知らん振り、平気で人を傷つけるといったことを自分の周囲あるいはテレビで良く目の当りにします。しかもそれがこれまで自分達に物事の良し悪しを教えてきたはずの大人達によって引き起こされているというのはどういうことなのでしょうか?そんな光景を見せられた社会に出たての若い人達は社会の先達に対する信頼を失い、ものの善悪について根本から考えなおさざるを得なくなると思います。
会社に勤めて暫らくするとやがて大きな責任をまかされ、それにしたがって利潤の追求を目的とする企業の実態像が見えるようになってきます。それは金儲けを第一とした非情な素顔であり、極論すればその目的のためには悪事を平気ではたらき、人を欺くのです。
たしかに会社が利益をあげるのにやっきになり、そのために手段を選ばないのは当然かもしれません。リストラによって人件費を削減し、一部分の社員の生活を切り捨ててでも企業の存続を図ることも最近では当たり前ですし、日本や欧米では資本主義という社会形態であるため、大抵の人は会社などの社会組織に加入し、其々の方針にしたがって労働することで明日の糧を得なければなりません。ですから組織の存続が第一であり、そのための運営が正義となるということでしょうか。
このようにみてくると本当になにが良くてなにが悪いのかよくわからなくなります。社会とは、組織とはいったいなんなのでしょうか?
大勢の人間が共同生活を営むに連れて文明が発生し、国が出来、国同士の争いが当たり前になると人々の救いとして哲学や宗教が生まれ、またそれらが力を持ち始めると勢力間で争いが起きる。歴史を勉強してみるといかなる組織であってもドンパチとは無縁ではないということがわかります。そして大抵は勝利した方が正義であると後の世に語られていくことになります。しかし「勝利したもの、力あるものが正義である」という考え方は非常に危険です。
有名な十字軍の遠征はキリスト教とイスラム教の聖地エルサレムを巡っての争いですが、はたして勝者はどちらであったのか、どちらが正義であったのか。エルサレムは今なお中東の火薬庫です。世界には火種となる地域はいくらでもあります。スリランカでは仏教徒とヒンズー教徒のいざこざが絶えませんし、アイルランドでは同じキリスト教であるプロテスタントとカトリックの対立があり、朝鮮半島では南北に分かれて資本主義と共産主義が睨み合ったままです。
それぞれの陣営で人々は信じるものの為に命がけで闘い、散っていきます。そしていつまでたっても現在に至っても争いはなくなりません。人は争うために生まれてくるのか、どちらが正義でどちらが悪かなど人間ごときには決められないのかもしれません。ひとは自分の信じる道を行くしかないのかもしれません。
2000/2/15 「天使の微笑み」
私は天使に出会ったことがあります。それまでは人が天使だ天使だというのを聞いてもピンとこなかったのですが、自分の目で実際に見てみるとそれはやはりまぎれもなく天使だと思いました。羽が生えてはいませんでしたが、その屈託のないあどけない表情は俗世とは別世界に生を受けているように見えたものです。毎日、会社での複雑な派閥関係の醜い様相を目の当りにしてうんざりしていた私にはなおさらそう思えました。心が洗われるようなその笑顔を見つめていると、その未来には光に満ちているであろうと信じざるを得なくなってしまいます。
彼女は誰に対してでも分け隔てなく笑顔を振り撒くので自然と周りに多くの人が集まってきました。近所の老夫婦がそのさまを見て言うには「よほどご両親の仲が良いのねえ!」。なるほどそういうものかと妙に納得したものです。時折、彼女にその澄んだひとみでこちらを真っ直ぐ見つめられると、なにやら心の底まで見透かされているような気がして、知らず知らずのうちにどんどん引き込まれていったのです。そんなわけですっかり彼女の虜になってしまった私の帰宅時間が少し早めになったことは言うまでもありません。
だから彼女がいなくなったときはもうこれ以上、自分の生きる意味が無くなったような錯覚を覚えました。私はそれ以来、人というのは自分のためだけに頑張ったってたかが知れている、自分の愛するものを守るために努力することのほうがずっと力を発揮できるような気がしています。家族というものが存在し続けるのは、そういった力があればこそなのではないでしょうか。
私はその後、彼女の絵を描きました。特に今の気持ちを絵に残しておこうと思ったわけではなく、自然に絵筆を握ってキャンバスに向かい、あっというまに描きあげてしまったのです。今はもうその絵も私の手元には無く、海の向こうにありますが、、、
数年後、彼女は再び私の前に現れました。ところがこのときの彼女はもうしゃべりまくるわ、踊りまくるわ、からみまくるわでかつての面影は どこかへブッ飛んでいました。元気エネルギーの塊と化したその姿は天使というよりは破壊天使とでも呼ぶべきものだったのです。やれやれ、やっぱり人は時の流れと共に変わってしまうものなんだね。今度会うときは頼むから、も少しおしとやかになっていてくれよな。
<前のcolumn>