

●系譜:「家系」と「血統」
家とは夫婦が子を生み、そこから作られる血縁空間であり、そして親子の血縁関係の連鎖が家の系譜
となり、そしてこの家の系譜のことを家系という。その意味では、家系とは血縁関係の歴史的連鎖で
あり、家系は血統(血筋)を示してもいる。また家の血筋を絶やさないためにも、当主は多くの子を
設けた。子たちは、母親の身分に応じてランクが付けらたが、たとえ母親の身分が卑賎だったとして
も、当主の血筋の者としての尊貴性は疑われなかった。このことは、源義朝の子の中で母親の身分が
もっとも高い頼朝の兄弟で、いずれも母親が遊女や市井の女性であった兄の義平と、弟の義経を見れ
ばあきらかだろう。母親の身分は何であれ、義平も義経も、義朝の子であり、義朝の血筋なのである。
しかし、もし、当主に嫡子がいなければ家系は断絶することになる。源頼朝の家は実朝の死により家
系が絶え、源家は滅びている。嫡子がいない場合は、一門同族から婿養子あるいは養子を迎えて家系
を守ることになろう。家よりも氏族という大きな単位が系譜のベースとなっている場合、家系は血筋
とほぼ同じであった。しかし、江戸時代になり、「家禄」というものが登場し、個々の家が系譜のべ
ースになると事情は異なってくる。家禄を失わないため、つまり家を存続させるためには、嫡子の無
い場合は、他家から婿養子あるいは養子を迎えなければならない。この場合、もはや氏族がベースで
はないため、同族の者を迎えるケースは、可能性としてもきわめて少なくなっている。従って、他家
から迎えた養子は血筋が異なることになる。つまり、「家禄」が発生した江戸時代においては、家系
は必ずしも血筋を示すものではなく、家禄受給の基礎単位である家の継続を表すにすぎなくなってお
り、血筋よりも家名の継続が優先されたのである。
このことは何を意味するかと言えば、一つの系図を見る場合、例えば、初代が室町時代の場合、室町
時代の頃の先祖と、江戸時代の先祖を、同じ視点で見てはならないということである。室町時代の頃
の先祖の系譜は、血筋を軸にしているが、江戸時代の先祖は、家名存続を軸にしているからである。
すなわち、系譜というものにも歴史があり、時代に応じて系譜についての考え方、見方は異なるわけ
である。古代から中世、室町時代までは、系譜とは概ね血統(血筋)を基準にしており、室町末期か
ら戦国時代、織豊時代は、血統と家系を併用し、江戸時代では、系譜といえば家系であり、血統は二
の次とまでは言わないが、家系ほど重視されなくなる。したがって、系譜を見る場合、初代の人物か
ら系譜記載の最後の人物までを、同じ視点で見てはならないということである。その人物の時代の系
譜観に応じた見方を、それそけれにしなければならないのである。このことは長い歴史を持つ系譜に
ついてはすべてに言いえるだろう。
●蒲池氏の場合
蒲池氏は、鎌倉時代の筑後国三潴郡蒲池庄の地頭職であった嵯峨源氏の源久直にはじまる。久直の祖
を見ていくならば、嵯峨天皇後胤の従三位中納言源行久という公家がおり、行久の三代後で、六条天
皇と高倉天皇の頃の従五位源満末が仁安3年に、肥前国神崎庄惣司となり九州に下向している。
蒲池氏初代の久直は、満末の三代後の人物である。蒲池氏はその後、薩摩にも所領を持つが、承久の
変の頃に、松浦党の源圓(源三圓)を婿養子に迎え、蒲池の家を興させたとある。源三圓は、松浦党
の山代源六囲の子の山代源三圓であり、その先は、松浦党の祖の松浦久から摂津渡辺党の渡辺綱、そ
して『源氏物語』の主人公の光源氏のモデルとされる左大臣の源融に至る。
この嵯峨源氏の源久直を祖とし、やはり嵯峨源氏の松浦党の源圓により受け継がれた蒲池氏は、南北
朝時代に嫡子のないまま蒲池武久が多々良浜の合戦で討ち死にし、一旦は家系が絶えてしまう。娘が
一人おり、その夫となり蒲池の家督を継いだのが、関東の下野宇都宮氏の一族で九州に西下していた
宇都宮貞泰のひ孫にあたる宇都宮久憲だった。この蒲池久憲以降の蒲池氏は、筑後宇都宮氏ともいう
べき存在となり、戦国時代は、筑後十五城の筆頭となる。久憲の出た宇都宮氏は、源頼朝から坂東一
の弓取りといわれた宇都宮朝綱を初代として、その先は藤原氏である。戦国時代の蒲池氏は、嵯峨源
氏の源姓を使用していたが、それは久憲が蒲池の家督を継ぎ、蒲池に土着したからであり、彼ら自身
の系譜意識は、あくまでも自分たちの血筋の宇都宮氏だった。このことは、当時の文書からも分かり、
戦国時代の蒲池氏が残した系図には「宇都宮氏系図」とある。
蒲池氏の歴史において、初代の蒲池久直から蒲池武久までの嵯峨源氏の蒲池氏を「前蒲池」、蒲池久
憲から蒲池鎮漣までの宇都宮氏の蒲池氏を「後蒲池」という。血脈からみれば、前蒲池と後蒲池は、
別である。前蒲池の蒲池武久と後蒲池の血を繋ぐ者といえば、蒲池久憲の妻となった武久の娘であろ
う。彼女を通じて、久憲と彼女の子の蒲池義久には、嵯峨源氏・前蒲池の血脈は伝わっているともい
える。しかし、血統とは男子血統であるから、蒲池久憲以降の後蒲池は、前蒲池とは血統上では別と
いうことになるだろう。
蒲池氏は、戦国時代に嫡流の下蒲池(柳川)と、分流の上蒲池(山下)に分かれ、蒲池嫡流は、龍造
寺隆信による蒲池鎮漣謀殺によって滅び、分流の蒲池氏は、関ケ原合戦で西軍に参加して没落するが、
江戸時代は筑前黒田藩に五百石で抱ええられ、郡奉行にもなっている。
もちろん、蒲池嫡流も分流も子孫は多く、蒲池嫡流は肥後細川藩に武術師範として仕えたり、後には
幕臣で日田郡代となり旗本に列せられた窪田鎮勝(蒲池鎮克)がおり、その他の子孫も近隣の藩に召
抱えられている。
江戸時代の武家は、徳川将軍家を筆頭に、養子により家系を存続させているケースが多く、蒲池氏も
また例外ではない。蒲池鎮漣の娘の徳子は豊後で朽網鑑房の妻となっている。鑑房の父の朽網鑑康は
朽網宗暦ともいい、大友氏族の入田氏の出であり、朽網親満の時に滅びた朽網氏の名跡を継いだのだ
った。鑑房と徳子の子の朽網宗寿は蒲池姓を名乗り、次男の鎮明に蒲池の家を興させている。という
ことは、蒲池鎮明は、母から蒲池氏の血筋を受け継いでいるとはいえ、男子血統からすると大友氏の
一族の入田氏の子孫ということになる。しかし江戸時代は、男子血統上の祖ではなく、家名の祖を、
その者の先祖にしたため、蒲池鎮明の先祖は、蒲池氏となり朽網氏ではない。
系図は、それを見る時代の氏や家の在り方により大きく異なる。源久直にとり先祖は嵯峨源氏である。
婿養子に入った松浦党の源三圓にとっては、先祖は同じく嵯峨源氏だが松浦党であり、この時期は、
系譜とは血筋であり、源三圓の子孫にとっては、蒲池氏は源三圓の血筋になる松浦党の後裔となる。
嵯峨源氏松浦党の蒲池氏の名跡を継いだ宇都宮久憲の後裔にとっては、自分たちの先祖は、久憲の血
筋の藤原姓宇都宮氏ということになる。しかし、江戸時代になると、どの血筋から婿養子を迎えよう
とも、家名継続が基本となるため、上にも記したように入田氏系朽網氏の血筋の者が家督を相続して
も、それまでのようには血筋上の入田氏系朽網氏が先祖とはならず、蒲池の名跡を継いだのだから蒲
池氏の祖である嵯峨源氏が彼の祖となるのである。
●前蒲池(嵯峨源氏松浦党)源圓(山代源三)
嵯峨源氏・蒲池氏の婿養子となった宇都宮久憲は、筑後宇都宮氏であるため、蒲池久憲から蒲池氏を
見る場合、蒲池氏は、筑後宇都宮氏族となる。宇都宮氏は九州でも城井氏をはじめとする諸氏を生み
だしており、宇都宮久憲以降の蒲池氏の興隆の背景には、蒲池氏の筑後宇都宮氏としての内実が大き
く働いていたと推察する。関東の下野国の名門の宇都宮氏の一族の者が、たとえ蒲池氏が筑後国屈指
の名族とされるにせよ、宇都宮の名字を捨て、蒲池の家名を名乗った背景には、懐良親王の親衛軍将
士として九州に来た宇都宮氏が、ポスト南北朝時代における筑後土着のために、在地豪族として地盤
を持っていた蒲池氏の所領を相続するためであったと言えよう。
久憲の従兄弟の政長にはじまる大木氏は、蒲池氏に属し、鎮漣の腹心の大木統光や与賀馬場で最後ま
で鎮漣に従った大木忠五郎は、政長の子孫。
筑後宇都宮氏から婿養子に入った蒲池久憲以降、蒲池氏は、嵯峨源氏ではなく、宇都宮氏であるとされ
る。しかし、久憲は、嵯峨源氏蒲池氏の家督を相続したのであり、したがって、蒲池氏は本姓の家系と
しては嵯峨源氏であり、男子血統が宇都宮氏とされ、本姓は宇都宮氏の「藤原」ではなく、嵯峨源氏の
「源」である。とはいえ源姓だけではなく藤原姓の使用も見られる。
蒲池治久の次の代で蒲池氏は、柳川の嫡流(下蒲池)と、山下の別流(上蒲池)に分かれる。
なお『西国盛衰記』に天文年間の人として蒲池鑑貞が登場するが、これは蒲池鑑久ではないかと思われ
る。また柳川近郊の蒲池舟津(蒲船津)城主の蒲池益種は、黒木鎮運の弟だが、同族関係の蒲池鎮漣の
一族が滅んだ後、蒲池を称したものと思われる。

山下の蒲池氏は、豊臣秀吉による領地没収後、黒田藩や立花藩などの家臣や、同族関係の他氏の養子
となって系統を残すが、柳川の蒲池嫡流も鎮漣と一族の死滅後も、いくつかの系統が子孫を後に伝え
ている。代表的なものが、柳川から長崎の有馬氏のもとに落ち延び、後に朽網鑑房の妻となった徳子
が再興した朽網氏系蒲池氏と、徳子の弟で豊後に落ち延びた宮童丸こと後の蒲池経信の子孫、医師の
ため龍造寺氏の蒲池残党狩りから免れた鑑続の後裔の首藤氏系蒲池氏である。朽網氏系は、徳子の次
男の鎮明が蒲池姓を称するが、柳川城の別名である舞鶴城にちなんで鶴姓を名乗る。鎮康の子の鎮俊
は婿養子で筑後上妻郡江口に住み江口姓を名乗り、鶴姓は鎮康の弟の系統の久平に受け継がれ、江口
秀種の子の鎮勝は窪田姓を名乗るが、子孫は窪田姓と蒲池姓に分かれる。首藤氏系は、蒲池久成が母
の実家の首藤姓を称し、子孫一族が蒲池姓や、宗虎丸を祭った柳川小端島の社にちなんだ二宮姓を名
乗る。蒲池鑑盛の落胤の鎮久の子の蒲池貞久は、鍋島藩諌早家の祖の龍造寺家晴に属し子孫の系統を
伝えているが、蒲池氏滅亡の仇敵の龍造寺氏の配下に入ったということで、他の蒲池子孫との関係は
絶えたとされている。さらに大村藩士の北川氏は蒲池氏の枝族といい、細川藩士や有馬藩士にも蒲池
氏族裔の名が見られる。なお別字の蒲地氏が島津藩士に見られるが、薩摩の蒲地氏は、薩摩河辺郡黒
島を領地とした前蒲池時代の蒲池行貞、あるいは行貞の所領を相続した三代後の蒲池永行の後裔と考
えられる。「蒲池」と「蒲地」は異字にすぎない。掲示板において諌早蒲池氏の子孫の方の投稿があ
り、伝承や事跡が蒲池嫡流や分流の上蒲池のものとは異なっているが、おそらく蒲池鑑盛の落胤鎮久
の子貞久の後裔と思われる。
補説
戦国期の蒲池氏の子孫の系譜は、子孫諸氏がそれぞれに異なる系譜を伝えているため、整理が難しい。その理由の
一端は、柳川の蒲池嫡流(下蒲池)の系譜や文書資料が、蒲池嫡流を滅ぼした龍造寺氏により収奪されて廃棄され、
伝わっていないことによる。今日伝わる蒲池氏関係の系図資料や蒲池文書は、大半が山下の蒲池分流(上蒲池)に
伝わるものである。上蒲池の菩提寺の西念寺は戦災にあうこともなく現在に至り、蒲池氏の系図や蒲池文書などを
多数伝えている。系譜資料で代表的なものが、蒲池鎮運の孫で筑前黒田藩に仕えていた蒲池重広が寛文年間に記し
た「蒲池家譜」である。しかし、そこに記された戦国期以降の系譜には、かなりの混乱がある。徳川幕府最後の西
国郡代として日田にいた蒲池嫡流(下蒲池)後裔の窪田鎮克は、晩年に蒲池に復姓する際に蒲池系図を調べている
が、戦国期以降については、蒲池重広による系図の他に、下蒲池庶流の犬塚氏出自で、豊前彦山の僧となった祐学
坊の資料を使用している。
上に掲げた蒲池氏子孫系図は、蒲池徳子の子孫の蒲池の家督を嗣いだ窪田(蒲池)鎮克の子孫に伝わる系図、蒲池
鑑続の子孫という首藤氏系の子孫の系図、徳子の弟で豊後に逃れた宮童丸(蒲池経信)、諌早家に仕えた蒲池貞久
の系統の系図、上蒲池の蒲池鎮運の子孫の系図である。
まず、蒲池鎮漣の娘で、長崎の有馬氏のもとへ落ち延び、その後、豊後に移り大友一族の朽網鑑房の室となった蒲
池徳子(徳姫、徳。今村家記では「たみ」)の系統である。窪田鎮克による系図では、徳子が朽網鑑房との間に生
んだのが朽網右馬助宗壽(蒲池宗壽)であり、宗壽は三男一女を生み、嫡男は朽網貞右衛門で筑前福岡に住み、次
男が蒲池繁之丞鎮明、三男が蒲池六左衛門宗常とある。鎮明が蒲池の家督を継承し、宗常の子が豊庵(豊卓)と号
して『蒲池物語』を著した人物である。豊庵の子孫は朽網姓にもどし、朽網氏の系譜を伝えている。首藤氏系の系
図には、蒲池宗壽の子としては宗常、某、朽網貞右衛門が記されており、朽網氏家記も同じ内容で、宗壽の子とし
ては、蒲池六左衛門宗常、某(玖珠郡に住み、後京都へ)、某(朽網貞右衛門)が記されている。共通する蒲池六
左衛門宗常と朽網貞右衛門を外せば、一方の鎮明と、他方の玖珠郡に住んだ某は同一人物だろう。窪田鎮克による
系図には蒲池鎮明については、「蒲池繁之丞、後に鶴吉右衛門」とあり、父の宗壽が母徳子の生家が絶えるのを悼
み、次男の鎮明に蒲池の家督を嗣がせたとある。鎮明は筑後国柳川久貝原に移り、龍造寺氏の蒲池子孫探索を避け
るために鶴姓を称し鶴鎮明と名乗り、鎮明の子の鎮正は筑後上妻郡富重村江口に住むとある。鶴鎮康の娘婿の堀尾
鎮俊は江口の地名から江口鎮俊と名乗り、肥後に移り細川藩の武術(扱心流体術)師範となり、鶴姓は、鎮康の弟
に受け継がれ、3代後の筑後上妻郡今寺村に住んでいた久平の子孫の家名となる。
一方、首藤氏系家系は、鎮漣の嫡男の幼名宗虎丸、後の蒲池久鎮の子孫という。同系図によると宗虎丸は柳川落城
の際に死んではおらず、生葉郡の問註所氏の元に落ち延び、成長して蒲池久鎮と名乗り、小早川秀明に仕え、関ケ
原で討死にしたとある。しかし宗虎丸の落ち延び説は、源義経や豊臣秀頼の落ち延び説と同質の哀悼的願望と思わ
れる。首藤氏家系には異説として鎮漣の子の鑑続の子孫とする系譜もあり、鑑続の事跡はまったく不明だが、久鎮
こと宗虎丸の子孫というよりこちらの方が可能性はあるだろう。
先に、首藤氏系家系には、窪田鎮克による家系に登場する蒲池鎮明が某と記されていると書いたが、窪田鎮克の家
系には、逆に首藤氏系の祖の蒲池鑑続の名前はなく、宗虎丸は13歳で龍造寺氏の兵に殺されたとある。これは蒲
池鎮漣の生き残った子孫が四散し、個々別々に子孫の家系を伝え、相互の交流もなく、同姓の他家になった結果と
いえよう。
ちなみに窪田鎮克は、江口鎮俊の娘婿の秀種の子で、江戸に行き窪田氏の養子となり窪田姓になっていた。鎮克は
先祖の蒲池姓の復活を志し、嫡子の鎮章には窪田家の家禄のことから窪田姓を嗣がせたが、娘婿の志村源治鎮厚は
蒲池鎮厚となる。窪田鎮克については、静岡の万象寺にある「克斎蒲池先生之墓」と刻まれた墓碑が発見されたこ
とに関連して『熊本日日新聞』が文化面で「幕府最後の西国郡代 窪田治右衛門」として取り上げている。窪田鎮
克自身、なかなか破天荒で興味深い人物だが、子孫の消息として鎮克のひ孫の蒲池すみが、明治の硯友社の作家の
広津柳浪の妻となり、大正昭和の社会派作家の広津和郎の母親となっている。
一方、首藤氏系の子孫は、蒲池鎮漣の4代後の蒲池久一の子の久成が、柳川藩士だった母の実家の首藤清俊に嗣子
がいないため、久成が家督を継いだことに始まる。首藤氏一族は、蒲池久常や久一以来、代々医師の家系だが、久
成の孫の久誠の長男の首藤久勝が酒造業を営み、久勝の系統は城島の蒲池久和の銘酒「池亀」をはじめ蒲池、二宮
などの酒造一族を形成している。医師の系譜は久勝の弟の蒲池久平や久卓の系統が受け継いでいる。
蒲池鎮漣の嫡男宗虎丸(統虎)の弟に宮童丸がいた。豊後に落ち延びたことは伝えられていたが、その後について
は不明だった。しかし、上蒲池の蒲池鎮運の後裔の蒲池大気氏と蒲池猷介氏が、その消息を調べ、豊後に逃れた宮
童丸と子孫について大著『蒲池氏の歴史』の中で明らかにしている。それによれば、鎮漣の母は、自分の短慮から
龍造寺隆信の謀略にかかったことを嘆き、鎮漣の子の宮童丸(当時3歳)の命を助けたいと思い、鎮漣が肥前で死
んだという第一報が入った時、乳母と譜代の重臣に数匹の馬に財宝を積み、豊後に逃れさせた。宮童丸は後に豊後
蒲池氏初代の蒲池経信となる。豊後の蒲池氏は庄屋の一族として続き、内園蒲池家と中屋敷蒲池家に分かれて現在
に至っている。
先に、柳川の蒲池嫡流が滅び、子孫は四散したと書いたが、その一つに、さらに蒲池鎮漣の肥前行きに同行して同
じく与賀の馬場で龍造寺氏に謀殺された蒲池鎮久の子の蒲池貞久の子孫がいる。窪田鎮克の家系、首藤氏系家系の
いずれにおいても蒲池貞久については詳しく記されておらず、龍造寺一門の家晴の配下になったとだけある。上に
掲げた蒲池貞久の後裔の諫早宇都宮氏の系譜は、山口祐造『諌早旧家臣団系譜』からのものだが、それによると蒲
池鎮久の子の熊千代が、塩塚落城の際に落ち延び母と共に農民となって隠れて生き延びるが、龍造寺隆信とは反対
に蒲池鑑盛の血筋を残そうとした龍造寺家晴に召し抱えられ、蒲池貞久になり、家晴が諌早の領主となった時、付
き従って諫早に移ったという。蒲池時純の子の師勝は、蒲池姓ではなく、後蒲池初代の久憲の旧姓の宇都宮を名乗
っているが、諫早家臣団にはそれとは別に蒲池姓の名も見える。やはり蒲池貞久の後裔と思われるが、諫早宇都宮
氏との系譜上の関係は不明である。
長徳蒲池氏は、上蒲池の蒲池鎮運の子孫で、上に掲げたものは、長徳の蒲池氏後裔の蒲池雅徳氏の『蒲池氏略記』
や蒲池大気、蒲池猷介両氏の『蒲池氏の歴史』からのもので、八女市福島の明永寺の過去帳や、川瀬にある上蒲池
の菩提寺である西念寺の縁起などを丹念に調査した結果とのことである。それによると蒲池鎮運の子の鎮(まもる)
の子の蒲池次良右衛門重永が、長徳の蒲池氏の祖である。鎮運の嫡子は、立花宗茂一族の与力となり、関ケ原以降
は黒田藩士となった蒲池吉広であり、吉広と鎮は兄弟になる。吉広の家系は黒田藩士として続くが、鎮の家系は、
郷士となったようだ。吉広の後裔としては、黒田藩柳生新陰流13代宗家の蒲池鎮浪がいる。
上蒲池の子孫としては、他に鎮運の弟の蒲池鎮行の子孫に三井郡千原村発祥の千原氏があり、江戸期に大分の日田
に移り商人として成功しており、千原鎮誠こと文人の千原夕田はその一族である。
蒲池氏の子孫の中で現在、もっとも有名なのは、本名が蒲池法子こと歌手の松田聖子だろう。蒲池氏の家系が現代
におい初めて人々の目に触れたのは、彼女が出演した歌謡番組においてだった。きっかけはロス・オリンピックの
射撃競技の金メダリストにやはり蒲池姓の選手(蒲池建夫氏)がおり、松田聖子のファンの間にあった親戚なのか
という声に応えたものだった。松田聖子は芸能人ゆえ個人的なことは詳らかにはしないが、蒲池氏の山門郡塩塚の
家の子孫で、家紋は左三巴であり、父は柳川出身で元久留米市の社会保険所長、八女出身の母の生家は病院経営、
兄は蒲池光久氏といいレーサーでもある。もう一人、歌手としてZARDの坂井泉水がおり、本名を蒲池幸子とい
う。松田聖子と苗字が同じなので「親戚」「従姉妹」と噂されたりしたらしい。先祖は同じだが、江戸時代に分か
れており、現代の民法では他人である。また、かつてフラメンコ・ダンサーに鶴和子という福岡出身のカリスマ的
な美しさの女性がいたが、彼女は蒲池一族の鶴久平の後裔だろう。
城島の銘酒「池亀」の蒲池励氏もまた蒲池氏の子孫であり、インターネットのロボット検索サイトで「蒲池」と入
力してみると、学者から小学生までの蒲池さんのホームページがあることが分かる。それらの多くの蒲池さんの中
にも蒲池氏の子孫は生きておられるのだろう。また蒲池氏の子孫だからといって必ずしも蒲池姓であるわけではな
い。『筑後武士』の著者の江崎龍男氏は、蒲池繁久の弟の今村大隈の子孫であり、窪田鎮克の評伝『徳川最後の西
国代官』の著者の西沢隆治氏は、鎮克の子の窪田泉太郎鎮章の子孫であるが、これまで名前の出てきた朽網、江口、
窪田、首藤、二宮、鶴をはじめ、矢加部、横溝、今村、酒見、犬塚その他、蒲池とは別姓になった子孫も少なくな
い。
| 久直 ひさなお | 蒲池掃部頭源朝臣 | 建久初年筑後国三潴郡蒲池庄地頭職。嵯峨源氏蒲池氏初代。 |
| 行貞 ゆきさだ | 建久3年薩摩国河邊郡黒島平島を領す。 | |
| 行末 ゆきすえ | 兼佑とも。 | |
| 行房 ゆきふさ | 承久の変に反幕府側として参加。幕府勝利のため所領の薩摩国黒島に終生蟄居。 | |
| 圓 つぶら | 嵯峨源氏渡辺党松浦氏の山代源三圓。承久の頃、蒲池氏の婿養子となり名跡を継ぐ。 | |
| 久氏 ひさうじ | 蒲池左近将監源朝臣 | 外祖父宇都宮氏の婿となり一時、宇都宮久氏と称す。肥前神崎の合戦で一色五郎を討ち取る。 |
| 諸久 もろひさ | 蒲池村崇久寺を再建し、蒲池家菩提寺とする。 | |
| 久家 ひさいえ | 蒲池刑部大輔源朝臣 | 元寇の時、唐津の浜に出陣。 |
| 武久 たけひさ | 蒲池出羽守源朝臣 | 南北朝時代は南朝方。足利尊氏を迎え撃った筑前多々良浜合戦で討死。日向守とも。 |
| 久憲 ひさのり | 蒲池三河守源朝臣 | 宇都宮懐久の子。武久の娘婿となり蒲池の名跡と勢力を継ぐ。筑後宇都宮氏・後蒲池初代。(※) |
| 義久 よしひさ | 蒲池壱岐守源朝臣 | 蒲池城主。下野守とも。久憲以来筑後守護大友氏の幕下に。 |
| 繁久 しげひさ | 蒲池左馬大夫源朝臣 | 大友親繁の諱の一字を与えられ、以降の通例となる。 |
| 親久 ちかひさ | 蒲池兵庫頭源朝臣 | 大友政親に属す。文中年中48歳で没す。 |
| 治久 はるひさ | 蒲池筑後守源朝臣 | 崇久寺を再建し、蒲池家菩提寺にする。享禄年中に没す。 |
| 鑑久 あきひさ | 蒲池武蔵守源朝臣 | 柳川(柳河)城を築城。蒲池城から移る。筑後15城の大身の筆頭。天文12年に没す。 |
| 鑑盛 あきもり | 蒲池近江守源朝臣 | 宗雪。龍造寺氏を家兼、隆信と二代に渡って手厚く保護。天正6年耳川合戦で大友方として討死。 |
| 鎮漣 しげなみ | 蒲池民部大輔源朝臣 | 鎮並。一万町(十万石)を領有し筑後の筆頭大名。天正11年肥前にて龍造寺隆信に謀殺される。 |
蒲池氏分流(山下、上蒲池)の官位・事跡
| 親広 ちかひろ | 蒲池和泉守源朝臣 | 蒲池治久の子、鑑久の弟。筑後国山下城主。 |
| 鑑広 あきひろ | 蒲池志麻守源朝臣 | 八千町(八万石)を領す。龍造寺隆信の筑後侵攻に対し大友方として山下城で篭城戦を戦いきる。 |
| 鎮運 しげはる | 蒲池兵庫頭源朝臣 | 天正15年豊臣秀吉に抵抗し所領没収。立花氏与力として三千石を領す。文禄の役、朝鮮にて没。 |
| 吉広 よしひろ | 関ケ原の戦いには立花氏与力として西軍に参加し没落。筑前黒田長政に召し抱えられる。四百石。 | |
| 重広 しげひろ | 黒田藩江戸留守番を勤め、藩主が黒田光之の時、五百石に加増される。 | |
| 正広 まさひろ | 筑前黒田藩大組、郡奉行。五百石。 | |
| 久広 ひさひろ | 筑前黒田藩大組、郡奉行。五百石。以降、明治維新期の蒲池正俊まで八代黒田藩に仕える。 |
蒲池徳子系蒲池氏の事跡
| 徳子 のりこ | 蒲池徳子 | 蒲池鎮漣の娘。有馬氏の元に落ち延び、豊後で大友氏重臣朽網宗暦の子の朽網鑑房の妻となる。 |
| 宗壽 むねひさ | 朽網(蒲池)宗壽 | 朽網鑑房と徳子の子。母方の蒲池の家が絶えるのを悼み、蒲池を名のる。 |
| 鎮明 しげあき | 蒲池繁之丞 | 朽網宗壽の次男。蒲池の名跡を継ぐ。筑後に戻り、龍造寺氏の探索から逃れるため鶴姓を名のる。 |
| 鎮正 しげまさ | 鶴吉右衛門 | 柳川城の別名の舞鶴城から鶴姓を継ぐ。筑後国上妻郡富重村江口に住む。 |
| 鎮春 しげはる | 鶴吉左衛門 | |
| 鎮康 しげやす | 鶴吉左衛門 | 医師となり康庵と名のり、寿松軒と号す。筑後国上妻郡富重村江口に住む。 |
| 鎮俊 しげとし | 江口吉太夫 | 久留米藩士堀尾鎮俊。鎮康の娘婿。肥後で細川藩の扱心流武術の師範となり、百石。 |
| 秀種 ひでたね | 江口源次郎 | 幕臣高橋誠種の子。鎮俊の娘婿。肥後で扱心流武術師範を継ぐ。 |
| 鎮克 しげかつ | 窪田(蒲池)鎮克 | 江戸に下り幕臣窪田氏の名跡を継ぐ。旗本となり幕府最後の西国郡代として豊後日田に赴任。 |
| 鎮章 しげあき | 窪田泉太郎 | 幕府の扱心流師範。備前守となり二千石。鳥羽伏見の戦いでは先鋒隊の幕将として奮戦し戦死。 |
| 鎮厚 しげあつ | 蒲池鎮厚 | 朝臣志村左一郎の子。鎮章の娘婿。祖父鎮克の後を継ぎ幕府に仕える。娘は作家広津和郎の母。 |
| 正久 まさひさ | 蒲池正久 | 徳子流蒲池氏十一代。昭和25年死去。 |
(※)宇都宮氏は、本姓は藤原であるため、蒲池久憲は、藤原久憲(蒲池三河守藤原朝臣久憲)と称する
こともあった。男子血統からすると蒲池氏は久憲からは藤原姓になるが、源姓蒲池氏の婿養子とな
ったことから、久憲は、源久憲と称し、久憲以降も源姓を名乗る。蒲池氏の菩提寺の崇久寺の門内
扁石銘に「蒲池武蔵守源鑑盛」と、清水寺愛染明王臺座記に「蒲池武蔵守入道宗雪嫡男、蒲池民部
大輔源朝臣鎮並」とある。藤原姓としては、西念寺鬼簿に「筑後蒲池城主三河守藤原久憲」とある。
源姓と藤原姓の併用については、蒲池鎮漣の後裔で幕末の西国郡代だった窪田鎮勝こと蒲池鎮勝も
疑問に感じたらしく、蒲池一族の犬塚氏や、蒲池分流の親広の子孫に伝わる系図や伝承を調べたり
していたようである。蒲池鎮勝(後に鎮克)が明治3年に記しているところによれば、
「・・・・蒲池久直が建久年間に源頼朝公より筑後国蒲池の地頭職を補任されたことにより蒲池氏
の宗祖であることは疑いない。『蒲池物語』を著した朽網宗嗣(豊庵、後に豊卓と号す)は、鎮漣
の娘の於徳の方の曽孫とはいえ、蒲池氏の主孫であり、嵯峨源氏であることを知らないのは他に理
由がある。日向守武久に男子がおらず、宇都宮久憲を婿養子とした。久憲は藤原姓である。また、
上蒲池家系によれば左近将監久氏の時に宇都宮氏の婿となり、宇都宮藤原の姓氏を称したこともあ
り、藤原姓は久憲だけではない。宇都宮家系によれば、久憲は懐久の子である。それゆえ、日向守
武久以前は源姓であり、それ以降は源藤両姓を混用している者もあるが、家系を参考すれば蒲池氏
は嵯峨源氏であり源姓というべきである。」