蒲池氏の歴史と史蹟



●蒲池氏の出現  ●嵯峨源氏・源久直〜嵯峨源氏松浦党・源圓 
●宇都宮氏系、蒲池久憲 ●筑後柳川城主、蒲池氏 ●耳川の大合戦と蒲池宗雪の最期 
●蒲池氏と龍造寺氏 ●蒲池鎮漣の最期と柳川落城 ●徳姫と蒲池家再興
●蒲池鎮運とその一族 ●江戸時代の蒲池氏の子孫



●はじめに:蒲池氏の出現

 筑後国の蒲池氏と言っても、ピンと来る人や、知っている方は少ないだろう。おそらく蒲池氏を知るのは、子孫の方以
外では、郷土史家、地元の好事家、奇特なマニアくらいではないだろうか。
 蒲池氏は、「筑後屈指の名族」(太田亮)といわれ、筑後を代表する武家であり、筑後戦国史の中心的存在だが、一般
読者向きの戦国関係の読み物においては言及されることはほとんどなく、その存在は、忘れられたに等しいといえるかも
しれない。逆にいえば、蒲池氏について何らかの知識を持っておられる方は、相当な博識か歴史通と言っても過言ではな
いかもしれない。
 歴史の荒波に呑まれ、その後は長らく、知る人ぞ知る存在でもあった蒲池氏の名前が、最初に世間一般の目にふれたの
は、およそ歴史とか日本史あるいは戦国史といったものとは結びつかない人と場所においてであった。
 その人とは、福岡県久留米市に同市の社会保険所の所長の娘として生まれた、蒲池法子という女性だった。
 彼女は後に松田聖子という人気歌手になるが、彼女が、「ピンクのモーツァルト」という歌を歌っていた1984年頃、
「トップテン」という歌謡番組の中で、「蒲池家系図」が簡単に紹介されたことがあった。後にその録画ビデオを見たが、
内容はロス・オリンピックの金メダリストの中に蒲池姓の選手がおり、ファンから「親戚ですか?」という問い合わせが
あり、番組の方で調べて蒲池家の子孫の方が持っている系図が紹介されたのである。
内容は、
「手柄によって与えられた土地の名前を蒲池といい、そこから蒲池という名字になり、今から1000年前の鎌倉時代の
久直(ひさなお)さんが初代です。」
「400年後の戦国時代の鎮漣(しげなみ)さんの時に蒲池家は一度滅んでしまいました。」
「しかし、鎮漣さんの娘さんが一人生き残り、蒲池を名乗りました。」
というような、ごく簡単なものだった。
しかし、蒲池家の累代の人々の名前が歴史的過去から甦ったのは、この時がはじめてであろうし、それよりも当時、人気
No.1の歌手松田聖子の出演する歌番組のTV画面に映る系図に読み取れる「久直」「治久」「義久」「鑑盛」「鎮漣」
「鎮久」といった文字は、今から思えば、かなり超現実的で不思議な光景だったろう。
 このことは私の中では、それきりになり、そのまま忘れていた。しかし、その後、今からもう10年くらい前になるだ
ろうか、知人の経営するコンピューター関係の会社で、ケームの遊び勝手の調査のような感じで、シミュレーション・ゲ
ームのよくある戦国合戦ものをいじくっていたら、筑後国(福岡県南部) の柳川城に「蒲池鑑盛」という武将が登場したの
だった。柳川市は久留米市の南西にあり、それほど遠くはない。私は九州にはまったく土地勘は無いが、ひょっとしたら
と思い、書店に行って地図を見ると、西鉄大牟田線の久留米と柳川の真ん中あたりに、 何と「蒲池」という駅があり、周
辺の地名は、東蒲池、西蒲池となっている。
 蒲池法子、筑後蒲池氏、蒲池鑑盛。この巡り合わせに誘われるままに私は、俄然、興味を抱き、調べることにした。
 蒲池氏は、筑後国に発するということなので、とりあえず目にとまった『筑後戦国史』(吉永正春著。葦書房。1984
年)という本の頁を開くと冒頭に、「筑後の雄・蒲池氏」とあり、次のように記されている。
「当時の柳川は大友氏の支配下にあり、城主は蒲池近江守鑑盛であった。・・・ 近世に入って、この柳川の町づくりをし
たのは立花宗茂、田中吉政の二大名であるが、その基礎を築いたのは蒲池氏である。現在、女性人気歌手の松田聖子(本名
蒲池法子)さんはこの蒲池氏の後裔という。」

 
「トップテン」で紹介された蒲池氏系図



嵯峨源氏 源久直〜源圓

■嵯峨源氏 源久直(蒲池久直)

 蒲池という名字の由来地は、『倭名抄』の中で「下妻郡に鹿待郷あり、鹿待は加萬知(かまち)と訓み、或いは三潴
郡の蒲池村なりと伝えり」と述べられている地域で、現在でいえば柳川市の蒲池(東蒲池、西蒲池)であり、現在も、
蒲池氏の菩提寺だった崇久寺や、蒲池氏の氏神だった三島神社が、のどかな田園地帯に佇んでいる。
 蒲池氏は、鎌倉時代に、この三潴郡蒲池庄の地頭職となった嵯峨源氏の源久直が、蒲池を氏としたことに始まるとさ
れている。久直は、嵯峨源氏の中納言源行久の後裔という。嵯峨源氏は一字名で有名だが、二字名の嵯峨源氏もいる。
源昇の子で、渡辺綱の養父にあたる源宛の父の源仕の弟の源是茂の系統である。源行久のひ孫の源満末は、六条天皇と
高倉天皇の頃の人物であり、時代的には平清盛の全盛期にあたる。満末は、肥前国神崎庄の総司となり九州に下向して
おり、神崎庄に土着し、地方武士化したのであろう、その孫の貞成には隠岐国賊徒征伐の記録がある。肥前国神崎は、
やはり嵯峨源氏の松浦党の山代氏の勢力地域であり、源満末やその子の貞宗や孫の貞成らは、松浦党山代氏と関係を持
ったであろう。蒲池氏初代の源久直は、満末の三代後であり、貞成の子である。久直は源平合戦において源氏方で勲功
があったと思われるが、鎌倉幕府の御家人となり、筑後国三潴郡蒲池庄地頭職となる。久直の子の行貞は、建久3年に
島津忠久と共に薩摩国に下り、薩摩の黒島平島の賊徒を追討し、その功により両地を与えられているとあるが、久直は
蒲池の地に土着し、蒲池を苗字とする。
 ところで嵯峨源氏蒲池氏の出自については、もう一つ、松浦党の源三圓とする説がある。矢野一貞『筑後国史』は、
「承久の頃、松浦党の枝裔、源三圓と云う者を養子の聟として家を附属す。是れ前蒲池の祖なり。これより以来代々相
続して、弘安外寇の乱に唐津に於て軍忠あり。この時北条相模守、同武蔵守の感状あり。元弘建武の乱に尊氏の御教書
あり。慶安の頃、征西将軍宮の令旨あり」
と書いている。これによれば、後鳥羽上皇の承久の変の頃に、蒲池氏は、松浦党の源三圓を婿養子に迎えて家を再興し
ているということになるが、「松浦党の枝裔、源三圓と云う者を養子の聟として家を附属す。是れ前蒲池の祖なり」と
はどういうことだろうか。『蒲池家譜』によれば、久直の孫の行末の嫡子の行房が、薩摩の所領の黒島平島で終生流罪
の身として終生蟄居し、代わって薩摩国河邊郡総司となった弟の永行が黒島平島を知行しているからである。罪人とな
った行房は、鎌倉幕府の執権二代目の北条義時の時代の人であり、後鳥羽上皇らによる幕府討伐の承久の変に、上皇方
として加わり、幕府側の勝利のため流罪の身となったと思われる。というのも行房についての記述に北条時房の名前が
出てくるからである。時房は、執権2代目の北条義時の弟で、承久の変の時は、甥の泰時と共に京都に入り、乱を鎮圧
した人物である。その北条時房の名前が行房に関連して記されているということは、行房が承久の変で流罪に等しい罪
科に問われたことを示していよう。承久の変の直後に行房は廃嫡され、行房の嫡男の久氏は、一時期、妻方の祖父の藤
原姓宇都宮氏を継ぎ、宇都宮久氏と名乗り、蒲池の名跡から離れている。流罪の身となった行房と宇都宮氏となった久
氏に代わって、蒲池の名跡を継いだのは、婿養子に迎えられた松浦党山代氏の源圓(源三圓)だった。圓が婿養子に迎
えられたのは、松浦党もまた嵯峨源氏だったこともさることながら、圓の一族の山代氏が肥前国神崎荘に領地を持ち、
神崎荘の総司だった源満末の後裔の蒲池氏と関係があったからであろう。元寇の際は、山代諧は、当時の松浦党の棟梁
格だった佐志房の一族と共に討死にするなど奮戦し、その功により山代氏は、今度は筑後の蒲池氏の勢力圏内の大川の
地頭となっている。このように蒲池氏と松浦党山代氏は密接な関係にあり、そのような経緯から承久の変で苦境に陥っ
た蒲池氏は、松浦党山代氏の源圓を婿養子に迎えて再起をはかったのである。
 源三圓を婿養子にしたことで、蒲池氏は源三圓の血筋において松浦党となり、元寇の時には、源三圓以来の松浦党と
して蒲池諸久、久家らが出陣し、執権北条時宗からその功を労われている。
 嵯峨源氏の源行久の後裔の源久直を蒲池氏の祖とする『蒲池家譜』に対して、『蒲池物語』や『筑後国史』などは、
松浦党の源圓(源三圓)を前蒲池(嵯峨源氏系蒲池氏)の祖としているが、そのような見方が生まれたことは、それだ
け承久の頃の苦境と、蒲池氏に対する松浦党の影響の強さを語っているといえよう。
 ところで、蒲池氏の祖については、古くから藤原純友の一族という伝承があることは知られている。蒲池氏の地元の
柳川市では蒲池氏の遠祖は藤原純友一族の後裔とする説が根強く伝えられている。なぜ蒲池氏が藤原純友一族の子孫と
されるようになったのかは詳らかではないが、次のような経緯があるらしい。蒲池氏は、蒲池邑にある蒲池城を本拠地
としていたが、この蒲池城を築いた人物が、純友の弟の藤原純乗とされているからである。天慶4年、前右衛門佐藤原
純乗は、太宰大弐橘公頼を柳川に追撃し、蒲池に城を築き対峙した。この藤原純乗の子孫が蒲池城に拠り、勢威をふる
い蒲池氏となったというわけである。九州では、肥前有馬氏や大村氏が藤原純友後裔と伝えているため、ありえない話
ではないかもしれないが、しかし蒲池の近隣には、純友追討軍の大蔵春実の子孫が盤踞しており、そのような中に純友
の弟の子孫が土着し勢力をふるったとは到底考えがたい。では、蒲池城に居り、蒲池の長となっていた氏族とは何か。
『蒲池物語』は、「筑陽夜明庄、三潴郡、蒲池の邑城の起源を尋ねるなら、往昔天慶の初め伊豫掾純友の一族が築いた
城と云い伝えられる。その後、蒲池の邑長(姓名未考)と云う者、この古城に住して近郷を従え、人を懐て次第に家は
富み勢いがあり、越えて人皇七十五代崇徳帝の御宇に、三島明神を勧請し、側に本地堂浄光院を建て薬師仏を安置す。
この寺中頃に至って繁栄して高良山月光院、酒見摂取院と合わせて、筑後の三院と称したと聞く」と記している。
 つまり、蒲池城は、伊予掾藤原純友の一族の者が築いた後、蒲池の邑長となる者が蒲池城に住み、近隣を従えたとい
うわけだが、源久直が蒲池庄地頭として蒲池邑に来て、蒲池城に入るまでは、その邑長の一族が蒲池城に居たというこ
とになる。『蒲池物語』は、その一族については姓名は不祥としているが、その一族が、藤原純友の弟の純乗が築いた
蒲池城を本拠地として蒲池邑の領主となりえたのは、おそらく純友追討軍に参加し、勲功があったためではないだろう
か。そこで留意すべきなのは、追捕使長官小野好古、追捕使主典大蔵春実の下に伊予警固使の橘遠保がおり、蒲池城の
藤原純乗と対峙していたのが太宰大弐の橘公頼ということだ。橘遠保は伊予の橘氏とされているが、おそらく橘公頼は
同族と思われる。もう一つ留意すべきは、蒲池城の一族は崇徳天皇の時代に三島明神を勧請していることである。とい
うことは三島明神を奉じる一族であることが分かる。この三島明神は伊豆の三島社(現・三島大社)から勧請したもの
とする見方が支配的だが、そうではなく伊予の大三島の神であろう。伊予の大三島の神は、伊予の水軍の一族が奉じる
神であり、後の河野水軍の河野氏なども伊予の水軍の一族であり、この三島明神を奉じ、物部氏族という越智氏後裔の
伊予水軍の一族が、純友追討軍となる。橘遠保の伊予の橘氏もそうであり、藤原純乗を蒲池城まで追撃し、その功によ
り蒲池の邑長になり、蒲池城に入り、近郷を従えたのではないだろうか。藤原純乗と対峙した人物として橘公頼の名が
上がっていることはそのあたりの消息を伝えていると解しえよう。このようなことから、蒲池城に居住し、蒲池邑を従
えていたのは、伊予の橘氏の一族ではないかと思われる。そしてその蒲池邑に地頭になった源久直が赴任し、土着して
蒲池氏を興すのだが、久直以降、蒲池氏もまた蒲池城を本拠地としたということは、久直が蒲池城にいた伊予橘氏と思
われる邑長の一族と何らかの関係を持ったことが考えられよう。嵯峨源氏の源久直が、伊予橘氏の一族を郎等にしたか、
あるいは婚姻などにより同族となったかは分からないが、久直が土着し、蒲池氏を興す背景には、伊予水軍の一族と
思われる蒲池邑長の伊予橘氏と思われる家の力があったと言えるだろう。蒲池氏が、伊予水軍が奉じる三島明神を氏神
とするのはその影響であろうし、また伊予水軍系の家を背景とした蒲池氏が水軍的であったことも容易に推察出来る。
だからこそ、承久の変の頃に、やはり水軍系の松浦一族から婿養子を迎えたとも言えよう。

補考・太田亮『姓氏家系大辞典』の考察
 太田亮は『姓氏家系大辞典』の中で蒲池氏については、「筑後屈指の名族なれど、出自については異説多し」と冒頭
に記し、藤原純友流、松浦党、宇都宮氏流をあげ、それぞれに解説を加えている。太田は蒲池氏の出自について、藤原
純友一族説にも松浦党説にも疑問を投げかけ、ある意味では興味深い解釈を提示している。それは蒲池氏の伊予出自説
であり、嵯峨天皇の子で藤原姓を受け、伊予に下った伊予親王の子の藤原為世に結びつくという説である。藤原為世は
越智家時の婿となって越智氏を継ぎ、その越智氏の後裔と称するのが河野氏をはじめとする伊予水軍の一族であり、先
に述べた伊予の橘氏も藤原為世の流れを汲むとされている。このようなことから、太田は、藤原純友流説は蒲池氏の水
軍由来を示し。嵯峨源氏松浦党説は伊予親王に関係したものと推論している。太田の見方に添って言ってしまうならば、
蒲池氏は、嵯峨天皇の第十王子の伊予親王の子の藤原為世の子孫ということになる。むろん藤原為世自身が伝説の人物
であるが、太田によれば、そのような先祖伝説を持つ伊予の氏族の中に蒲池氏もまたいるということであろう。蒲池氏
は室町時代に宇都宮氏から婿養子に入った蒲池久憲が家督を継ぎ、久憲の宇都宮氏は、関東の下野宇都宮氏の下り衆で
あるとか、豊前宇都宮氏の分流とされているが、太田はその宇都宮氏についても下野宇都宮氏でも豊前宇都宮氏でもな
く、伊予宇都宮氏の分流であろうと述べ、蒲池氏の一貫した伊予出自説を開陳している。そして伊予宇都宮氏そのもの
についても、先に述べた嵯峨天皇の子とされる伊予親王に関係した伊予の宇津宮であり、宇津宮と宇都宮の音が似てい
ることから錯誤が生じ、本来は嵯峨天皇に関連した伝承を持つ宇津宮であったものが宇都宮とされたのが伊予宇都宮氏
の出自ではないかと述べている。そしてもし太田が暗示しているように蒲池氏の名跡を継いだ筑後宇都宮氏が、このよ
うな伊予宇都宮氏の分流であるならば、蒲池氏は、嵯峨源氏の前蒲池にしろ、宇都宮氏の後蒲池にしろ、いずれも嵯峨
天皇・伊予親王・藤原為世・越智氏という伊予の氏族に関係していたことになる。
 むろん、太田のこのような見方は、一つの大いなる仮説にすぎない。そして仮説を支えているのは直接的な史料では
なく、いわば状況的史料である。しかしながら状況的史料による仮説だからという理由だけでは否定出来ない。歴史は
直接的史料がない場合は、周囲の状況的な史料を批判検討して妥当なものへと構成するからである。その意味で、太田
の仮説もまた傾聴するに値しよう。しかしながら太田の蒲池氏伊予出自説は、蒲池城に居住し蒲池の邑長であった一族
が蒲池氏であったならば成り立つかもしれないが、蒲池城にいたのは蒲池氏ではなく、藤原純乗と戦った橘公頼に関係
した伊予の橘氏と見る方が状況史料的にも妥当だろう。もし太田が蒲池城にいた一族は蒲池氏であると理解したとすれ
ば、その要因は、蒲池氏の嵯峨源氏説において、『蒲池物語』の松浦党説には注意を払いながらも、『蒲池家譜』にお
ける源行久説については一瞥を加えただけで、蒲池氏の嵯峨源氏出自説を松浦党説でのみ理解したからだといえよう。
 
 再度、整理するならば、蒲池氏は、嵯峨源氏の源満末のひ孫の久直が蒲池の地頭となり、肥前神崎から筑後蒲池へと
移り、蒲池の邑長で蒲池城の主であった伊予水軍氏族の橘氏の一族の力を背景にして鎌倉時代の黎明期に興した。しか
し承久時代に家系断絶に直面し、肥前神崎を本拠地とした松浦党の山代氏から源三圓を養子として迎え、松浦党として
家を再興したという流れになる。
 蒲池城をめぐる経過として整理すれば次のようになるだろう。
 ●天慶年間に藤原純友の弟の前右衛門佐純乗が蒲池城を建てる。
 ●三島明神を奉じる一族(純友追討に功のあった伊予の橘氏の一族と思われる)が蒲池邑長となり、蒲池城に入る。
 ●肥前神崎庄にいた嵯峨源氏の源久直が建久年間に蒲池庄地頭となり、後に土着して蒲池氏を興し、蒲池城に入る。
 ●嵯峨源氏松浦党の源圓(源三圓)が承久年間に蒲池氏の婿養子となり、蒲池城に入る。


 

■嵯峨源氏松浦党 源圓(源三圓、山代源三圓)

 承久の変の頃に蒲池氏の婿養子となった源三圓(源圓)は、松浦源大夫判官久の子で嫡流の御厨庄を相続した従五位、
兵衛尉松浦源四郎直の六男で山代氏を興した源六囲の子である。山代源六囲は、松浦久が郡司の清原是包の娘との間に
生んだ子で、囲の腹違いの兄弟に、松浦清、有田栄、大河野遊、峯披、御厨連がおり、囲の子の山代源三圓の孫で山代
氏を嗣いだ山代源三廣の子の山代弥三階は、文永十年の元寇の時に出陣し、やはり松浦党の佐志房らと共に討死にして
いる。
 山代氏が属した松浦氏は、その系譜をたどれば、大江山の酒呑童子退治の絵詞で有名な清和源氏の源頼光の四天王の
一人として有名な渡辺綱にはじまる渡辺氏の一族である。美男にして強者として知られた渡辺綱には京都の一条戻橋で
鬼と格闘し片腕をもぎ取ったという伝説などがあるが、その綱の子の渡辺久が御厨検校として九州に下り、その後、検
非違使として上松浦郡、下松浦郡や壱岐を治めることになった時、松浦を氏名とし梶谷城を築いたのがはじまりである。
 渡辺綱の系譜をさらにたどるならば、嵯峨天皇の第十二皇子であり、臣下に下った源融に到る。従一位左大臣の源融
は、紫式部の『源氏物語』の主人公の光源氏のモデルとも目される人物である。綱は、この融の四代後であり、清和源
氏二代目の多田満仲の聟の源敦に養育され、現在の大阪市中央区あたりになる摂津国西成郡渡辺に住んだため渡辺を氏
名とした。渡辺氏は代々滝口武者(宮中警護の武者)の一党であり、源頼光以来、大内守護(天皇の親衛隊)の任に就
いていた摂津源氏の郎等であり、源三位頼政の家臣としても知られている。渡辺氏は、渡辺党と呼ばれる武士団の棟梁
であり、渡辺氏以外の武士をも傘下にしていた。例えば『平家物語』にも登場する文覚こと北面の武士の遠藤盛遠もま
た渡辺党であり、そして盛遠が横恋慕した人妻袈裟の夫の渡辺渡はいうまでもなく渡辺氏の武士である。
 渡辺氏が率いる渡辺党は、渡辺久が松浦に土着し松浦氏となることにより、摂津渡辺党と肥前松浦党に分かれること
になる。
『九州治乱記』は、松浦氏について次のように記している。
 「松浦というは、人皇五十一代嵯峨天皇第十二皇子従一位河原大臣融の後胤、渡辺源二別当綱の後胤なり。融の子を
右大臣光と号す。この光は子息宮内卿燈の罪科に引かれて、摂州渡辺に流され、配所において卒去せらる。綱は光の四
代、融の五代の孫なり。然るに綱は堂上に仕えて丹後守を受領し、またゆえありて摂津守頼光の家臣となり、武勇万人
に勝れて、ある時は鬼を伐り変化を討つ。一年頼光、肥前守に任じて上松浦の名古屋へ下向ありし時、綱も供して下り、
暫く在国せしに依りて一人の男子を儲ける。名古屋にて出生したため名古屋二郎と名づく。その子は後三条院に仕え北
面にありて滝口を懸け大夫泰という。その子は五人あり。一は大夫判官久、二は渡辺総官大夫判官傳と号し、白河院の
北面にて弓馬の達人なり。この傳の子孫は、皆、源三位頼政の家人となる。三は左馬充至と号す。この至の子孫は甲斐
国に下向し、後に武田の家臣となる。四は勝五源十郎引と号す。この中で、長男の久は、久安元年、初めて肥前の領地
に下向し、松浦大夫判官と称しける。子孫次第にはびこり、上松浦、下松浦と分れて、都合四十八党となりぬ。」
 源三圓に至る系譜をまとめるならば、嵯峨天皇→嵯峨源氏・源融→渡辺氏・綱→松浦氏・久→山代氏・囲→蒲池氏・
圓と続くことになる。

 蒲池氏の歴史においては、嵯峨源氏時代の蒲池氏のことを「前蒲池」という。すなわち嵯峨源氏の蒲池氏は、南北朝
時代は南朝に属し、蒲池武久が、西下した足利尊氏を迎え撃った筑前多々良浜の合戦で嫡子の無いまま討死にし、蒲池
氏は、武久の娘を残して家系が絶えかけたからである。この蒲池の家督を継いだのが、武久の娘の婿となった宇都宮久
憲だった。久憲は、関東の下野宇都宮氏の後裔だが、この久憲以降の蒲池氏は、嵯峨源氏の前蒲池に対して、筑後宇都
宮氏の後蒲池と呼ばれ、宇都宮久憲こと蒲池久憲が、後蒲池時代の初代となる。

 
 
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