蒲池氏の歴史と史蹟


●蒲池氏の出現  ●嵯峨源氏松浦党、源圓〜蒲池久直  
●藤原氏族宇都宮氏、蒲池久憲 ●筑後柳川城主、蒲池氏 
●耳川の大合戦と蒲池宗雪(鑑盛)の最期  
●蒲池氏と龍造寺氏 ●蒲池鎮漣の最期と柳川落城 ●徳姫と蒲池家再興 
●蒲池鎮運とその一族 ●江戸時代の蒲池氏の子孫



●藤原氏族宇都宮氏、蒲池久憲

嵯峨源氏の流れを汲み、蒲池久直を初代とする蒲池氏は、十二代後の蒲池武久に後継者がおらず、家系断絶に直面するが、
関白藤原道兼の末葉の宇都宮朝綱の後胤の宇都宮久憲が婿養子となり、蒲池久憲として蒲池の家督を継ぐ。
 『筑後国史』によれば、
 「前蒲池出羽守の娘、成長に随いて家の絶えん事を悲しみ嘆き、神仏に祈誓を掛けて、再興の志い切となり。宇都宮弥三郎
朝綱八代の孫、宇都宮三河三郎久憲と云う人あり。祖父壱岐守貞久は、同刑部丞貞邦と共に宮方に候して、過ぎにし應安四年
征西軍の宮に供奉して、肥後国八代に在しが、其の後、菊池郡に住居し、筑前筑後、及び所々の合戦に抜群の軍功を顕せり。
貞久の子壱岐守懐久、其の子久憲。此の久憲の時に至り、宮方大いに衰微して、彼方此方にさまよいありきしが、不思議の夢
想を蒙り、高良山に参篭す。此の時、出羽守が娘も同じく霊夢の事有りて参詣せしが、神前に於いて相見え、互に夢の告を語
り合い、神明の加護浅からずと、相悦ぶこと限りなし。頓がて縁を結びて家に帰りぬ。時に應永年中也。則ち蒲池三河守久憲
と号し、再び家を興しけり。是れ後の蒲池八代の祖にして、宇都宮朝綱の後胤、藤原氏なり」
というように、南北朝の争乱の最中で蒲池武久の娘と、宇都宮久憲の運命的な出会いがあったようである。もちろん実際は、
このようなロマン的な伝承とは異なり、すでに武久の祖父の久氏が妻の実家の宇都宮姓を称したことにも見られるように婚姻
等により蒲池氏と同族関係にあった宇都宮氏の久憲が、事実上、自家に等しい関係の蒲池の家を継承したということだろう。
また、宇都宮氏の久憲が蒲池氏の名跡を継いだ背景には、久憲の筑後への土着の指向があったといえよう。というのも久憲の
曽祖父の貞泰や祖父の貞久、大伯父の貞邦らは、南朝の懐良親王に従って九州に西下し、懐良親王の征西軍営府直属の親衛軍
を指揮する武将だった。したがって逆にいえば、九州には地盤を持っていないわけである。久憲の頃は、南朝の勢いは衰え、
征西軍営府の往時の勢いは見る影もなかった。そのような中で嫡子がなく断絶しようとしていた蒲池氏の地盤を継承すること
により、久憲は、南北朝時代以降の、筑後への土着を模索していたと言えよう。

 宇都宮氏は、藤原氏北家の藤原道長の兄の関白道兼の孫の藤原宗円が、前九年の役の際に源頼義、義家に従って東国に下向
して行った祈祷の効により、下野国を拝領し、そこにある宇都宮大明神から宇都宮を称したと伝えられている。藤原宗円の孫
の宇都宮朝綱は、源頼朝に仕え坂東一の弓取りと呼ばれ、下野宇都宮氏の祖となり、朝綱の弟の宗房もまた頼朝に仕え、豊前
宇都宮氏(城井氏)の祖となる。
 下野宇都宮氏は鎌倉幕府においては執権の北条氏とは婚姻により親しい関係にあり、評定所において執権と共に政務や法務
を合議決断する幕府最高職の評定衆の要職にも永くついていたが、宇都宮久憲もまたその下野宇都宮氏の後裔であった。

 

蒲池の家督を継いだ宇都宮久憲は、上記略系の宇都宮貞泰のひ孫になる。



 宇都宮貞泰と貞久、貞邦親子は、懐良親王と共に九州に西下し、南朝の根拠地だった肥後国菊池郡に住み、南朝において唯
一、菊池氏を中心として気を吐いていた征西軍府に加わり、一三五九年(正平一四年)の大保原の合戦(筑後川の合戦)にお
いて、貞久、貞邦、懐久は討死にしている。大保原の合戦での南朝(宮方)と、北朝(武家方)の部隊は以下のようであった。

  総帥・征西将軍/懐良親王
  総大将/菊池武光
   第一陣/菊池武明 二千  第二陣/赤星武貫・菊池武信 二千  第三陣/菊池武光 四千五百
   第四陣/懐良親王(宇都宮貞久、懐久らは親王麾下)三千     第五陣/新田一族 二千
   右翼隊/名和大野 五千五百  左翼隊/新田一族 一千  夜襲隊/菊池武政 三百  東方隊/島津、他 一万三千

  総帥・少弐頼尚
   第一陣/少弐武藤、直資 一万五千  第二陣/少弐頼泰 二万  第三陣/少弐頼光 
   第四陣/少弐頼尚、松浦、島津 二万  第五陣/大友、秋月、原田 五千

大保原の合戦(筑後川の合戦)は、双方十万の大軍が入り乱れての死闘であり、九州での雌雄を決する戦いとなり、その激しさ
は頼山陽の詩にも歌われているが、『九州治乱記』が記しているところによると、九州の武将たちもほとんどがいずれかの陣に
参陣し、また一族の存続のために、一族が両陣営に分かれて戦ったことが分かる。
 蒲池氏の歴史においては、この宇都宮久憲以前の、嵯峨源氏系蒲池氏を「前蒲池」と、そして久憲以降の藤原氏族宇都宮氏系
蒲池氏を「後蒲池」と呼んでいる。久憲以降の蒲池氏は宇都宮氏族であるため、本姓は藤原であり、藤原久憲と称すべきだが、
大抵の場合、源久憲と名乗っている。それは、蒲池氏は家系的には嵯峨源氏であり、「源」が本姓で、久憲は婿養子として蒲池
の家督を継いだからである。とはいえ、久憲によって蒲池氏の血筋は藤原氏族宇都宮氏に移り、蒲池氏は家名の系譜においては
嵯峨源氏だが、実質的には筑後の宇都宮氏の性格を有することになり、そして、この後蒲池時代に蒲池氏は、筑後国の大名へと
成長していくことになる。
 「筑後国蒲池氏は、宇都宮弥三郎朝綱の末葉である。久則(久憲)という人物が筑後国に下向して、蒲池の家を興し、鎮漣ま
で八代、下筑後七千丁を領し、国中に諸侍多く、家は富み栄え弓箭の名を落とすことがない」(『肥陽軍記』)と記されている
のは、このことをさしている。
 南北朝末期・室町時代の九州北部は、肥前の少弐氏、豊後の大友氏、そして中国地方の長門の大内氏が、博多の争奪をめぐり
筑前国で熾烈な戦いをくりひろげていたが、筑後国には支配的な大勢力がなかったため、筑後宇都宮氏としての蒲池氏は、養子
縁組を通じて蒲池の門葉を広め、近隣に勢力を扶植していった。久憲の子供の則房は城島氏を継ぎ、久憲の嫡男の義久からは、
その子の久種が酒見氏を、大隈が今村氏を興し、久種の兄の家久の子の家種からは犬塚氏が、弟の家虎の子の家種からは西牟田
氏が生まれ、さらに義久の孫の親久の子で治久の弟の親則が安武氏を称すなど、多くの蒲池氏の分流支家を生みだし、蒲池家を
主家とする蒲池氏一族が形成されていく。そして筑後守治久の頃に、蒲池家は、それまでの蒲池城から柳川城へ移り、筑後の筆
頭大名としての地位を確実なものとしていくことになる。




●柳川城主 蒲池氏

 福岡県南部の柳川市は、水郷と北原白秋、そして江戸時代の藩主の立花氏に関係した観光名所が知られている。その陰にあっ
て、市内に残る柳川城跡は、あまり目立ってはいない。しかし柳川市の起こりは、この柳川城の城下町としてであり、城下町を
本格的に形成したのは、江戸時代初期の田中吉政であり、さらには柳川藩主の立花氏だが、その発端ともいうべき柳川城(柳河
城)を築いたのが蒲池氏である。
「柳川三年肥後三月、肥前筑前朝飯前」という戯れ歌が、戦国時代に大友氏の陣中で流行ったと言われるが、これは柳川城攻略
には三年かかるという意味で、蒲池氏が築いた柳川城の難攻不落の九州随一の堅城ぶりを歌ったものと言えよう。事実、柳川城
の難攻不落ぶりは、最後の蒲池家城主の蒲池鎮漣の時に龍造寺氏の城攻めにビクともせず、また後に城主が龍造寺氏に変わった
時、ほぼ同じ造作のままの柳川城を攻めた大友氏の勇将の立花道雪が、唯一落とせなかった城として口惜しがったということか
らも察しがつこう。
 蒲池氏は、久憲の代から筑後守護の大友氏の傘下に入っていた。大友氏もまた早くから筑後の支配経営に着手しており、筑後
最大の外様大名ともいうべき蒲池氏に対しては、代々偏諱を与え、朝廷の官位も「守」「輔」の高官の補任手続をとるなど様々
な懐柔策で望んでいた。また大友氏は、筑後国内の直参衆の国人諸氏を「高一揆衆」として地頭の役割をさせると共に、蒲池氏
を旗頭とする大名分に対峙させ、牽制させてたのだった。
 しかし、蒲池氏が治久の次の代になり、その力の強大化を恐れた大友氏は、筑後支配を強固にすべく、蒲池氏の分散を図るの
だった。すなわち蒲池治久の次男の蒲池親広を上妻郡山下に大名分としての別家を立てさせたのである。こうして蒲池氏は、柳
川の蒲池鑑久、鑑盛の嫡流と、上妻郡山下の蒲池親広、鑑広の庶流に分かれることになる。両蒲池を区別する場合、柳川が蒲池
からすると下に位置するため蒲池嫡流を「下蒲池」、山下の庶流を「上蒲池」と呼ぶ。

 筑後国は、応永六年(一三九九年)以来、大友氏が守護であり、蒲池氏はその傘下に属し、筑後二十四の筆頭の城持ち大名と
して遇されてた。『九州治乱記』には、次のような大友氏の大名編成が記されている。

  □旗本四家大名
   ○田原親定、その子親貫。
   ○戸次伯耆守鑑連入道立花道雪。
   ○佐伯権守惟定。
   ○日田。
  □大友旗本大名
   ○肥前国 龍造寺隆信。
   ○同 国 筑紫左馬頭惟門、その子上野介広門。
   ○筑前国 秋月文種、その子種実。
   ○同 国 原田左京大夫。
   ○筑後国 蒲池志摩守鑑広、その子兵庫頭鎮運。
   ○同 国 蒲池近江守鑑盛入道宗雪、その子鎮漣。
   ○同 国 溝口、草野、三池、その他の小名。
   ○肥後国 城親冬、合志弾正、赤星宮内、宇土、隈部鑑氏、賀井宗連、その他小名。
   ○豊前国 城井、長野、その他の小名。



●耳川の大合戦と蒲池宗雪(鑑盛)の最期

 大友氏は、少弐、大内の両氏が衰弱した後、大友義鎮(宗麟)の代に九州北部六ヶ国の守護となり全盛期を迎えていた。その
大友氏と、九州南部で勢力を蓄えていた島津氏との間で雌雄を決する大合戦が、天正六年(一五七八年)、日向国の高城川で行
なた。世にいう「耳川の合戦」である。三万五千の兵を持って日向国に入った大友軍は、やがて五万に膨れ上がり、対する島津
軍もまた四万を数え、その動員兵力が、上杉謙信と武田信玄の有名な川中島の合戦の倍以上であることから、その規模の大きさ
は予想がつくだろう。蒲池氏も大友氏の出陣要請に従い大友側の主要部隊の一つとして出陣している。「筑後の諸将は十月二日
に勢揃いし、二十四日、日州の陣についた。この時、柳川の蒲池武蔵守入道宗雪、同嫡子民部大弼鎮漣は三千の兵を従えて出陣
した」と『北肥戦誌』には記されている。しかし、それに続けて『北肥戦誌』は、蒲池鎮漣が落馬して体調が思わしくないとい
う理由で柳川に引き返したと記している。宗雪(鑑盛)は、老いの身に加えて病を患っていたが、大友氏に対する重恩の思いか
ら病をおして出陣していた。宗雪の元には蒲池の兵が八百余あったとされるから、鎮漣は二千以上の兵と共に引き上げたことに
なる。
 大友軍は、田原紹忍を攻撃部隊の総大将として高城川(現・小丸川)に布陣し、蒲池鑑盛(宗雪)は、吉弘鎮信、斎藤鎮実と
共に先陣攻撃軍に所属していた。ところが大友氏先陣の指揮官の佐伯惟教と田北鎮周の間に作戦の不一致があり、その指揮系統
の混乱に加えて島津氏得意の「釣り野伏せ戦法」により、戦いは大友氏の大敗北となった。大友氏の重臣佐伯惟教、田北鎮周が
討死にするなど大友軍の総崩れの中で、すでに老境にあった蒲池宗雪は、子の鎮安と共に勇猛果敢に戦い、壮烈な討ち死にをし
ている。蒲池武蔵守鑑盛入道宗雪の最期は次のように記されている。
 「自ら白髪に兜を被り、先陣として進む手勢八百余人を従え、川を一直線に渡り、敵の中央へ突入し、二町ほど切り崩し、な
おも前進して奮闘したが、まもなく日没を迎えた。翌日、再び、先頭をきって出陣し、味方の敗北となっても一歩も退くことな
く、敵将島津義久めがけて頑強に戦ったが、数刻後、味方を見れば、手勢は僅かとなり、吉弘鎮信以下の先陣攻撃軍も大半が討
ち死にしたため、近くの村に走り切腹して果てた。これに付き従う者八十余人も一度に自害した様は、楠木正成の湊川での最期
に勝とも劣らないであろう。」(『筑後国史』)
 蒲池宗雪の享年は五九歳であり、菩提寺の崇久寺に伝わる霊碑には「松梅院殿長國覚久居士神儀」と記されている。



 
 蒲池氏の歴史と史蹟 [戻る][進む]



 [表紙]