坊ケ浦(ぼうがふら)城(畑野町坊ケ浦字城山)

*参考資料  『新潟県中世城館等分布調査報告書』 『日本城郭体系』

*鳥瞰図の作成に際しては『新潟県中世城館等分布調査報告書』の図を参考にした。

 雑田城主の本間氏の配下であった本間主善の城だったという。この地域が、久知地頭本間加賀守の旗下であった吉住地頭本間源三郎季躰の勢力圏内であることから、その配下の大塚主膳の城であったともいう。ちなみに「坊ヶ浦」は「ぼうがうら」ではなく、地元では「ぼうがふら」と呼んでいる。

 小倉に向かう途中の坊ヶ浦にある標高180m(比高100m)ほどの急峻な岩山にあり、地元の子供たちは三角山などと呼んでいたものである。国仲平野から、とても目立って見えている山である。

 かなり急峻で岩場もある山なのだが、現在は山頂付近まで舗装された林道が通っているので、車で簡単にアクセスすることができる。

 林道を登っていくと、アンテナの所を過ぎて周囲を岩場で巡らされた平場を回り込むようにして林道が続いている。明らかに人工的な平場であり、ここが出城であったと思われる。天然の岩場によって、厳重な防御構造を成している。先端部分であるので、見晴らしもよい。

 さらに林道を進んでいくと、南側の山頂部へと続く幅広の尾根がある。これを進んでいくと、すぐに堀切が見えてくる。ここから先が城の主要部と思われる個所である。そこからいったん下って登っていったところが最高所であり、そこに祠が祭られている。ただし、山頂部分には遺構はなく、物見としてのみ利用されていたものと思われる。

 1970年代、中学校の頃、HRを利用して、近くに遠足に行こうというような話が持ち上がった。その際、私は「みんなで坊ヶ浦城へ行きましょう!」と提案したものである。「近くに城があるんだ」というのが意外だったのか、その提案が通り、クラス全員で、坊ヶ浦城に登ることになったのである。今から思うと、けっこう無謀なことをしたものだ。当時は林道はなく、岩場をよじ登って山頂に登っていった。女子も一生懸命に岩場をよじ登っていった。今にしてみると、よく先生がこんなことを許可したものだと思う。山頂には祠があった。

 山頂で私はみんなに向かって、坊ヶ浦城の解説をしたのだが、城があると思っていたみんなはポカンとしていた。そりゃそうだろう、普通の人にとってはこんなもの、城でもなんでもない、ただの険しい山に過ぎないのである。クラスメートのほとんどは、私にだまされた、と思ったに違いない。でも景色はよく、みんなはいい顔をしていた(ような気がする)。若いということは素晴らしいものである。

 この遠足は印象的なものだったらしく、中学校の卒業アルバムにもしっかりと掲載されていた。下の写真は卒業アルバムからスキャンしたものである。

南側から遠望する城山。ここからの比高は100mほど。山頂には遺構はなく、物見としてのみ利用されていたと考えられる。 中学校のHR遠足でここにやってきた。山頂部分である。先生が撮った写真が卒業アルバムにも掲載された。もちろん私も映っているのだが、分からないだろうなあ。ここにこれだけの人数が訪れたことは、後にも先にも、この時だけであろう。
尾根基部との間を分断する堀切。深さ3m、幅6mほどのもので、両端に竪堀を入れている。 城内にある段差。
出城の平場。先端部分が岩場で一段高くなっている。 出城の側面部。周囲は岩盤となっている。





























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