千葉県横芝光町(旧光町)

*参考資料 『日本城郭体系』 『房総の古城址めぐり』 『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』 『千葉城郭研究5号』

岩室城(光町台字城の下)・台城(光町台)

*鳥瞰図作成に際しては「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」の図面を参照した。

 上記の報告書には宗竜寺の北端の1,2郭部分と、さらにその周辺を城域としている。実際、その辺りに遺構がみられるのだが、実は、この報告書では認識されていない南端の星宮神社にも城郭遺構らしきものが存在している。以前、岩室城を探しに来た時、星宮神社周辺の地形を見て、こちらが岩室城であるのかと思っていたのだが、後日「千葉県所在・・・・」の図を見て、イメージが余りに違うので、今回確認しに行ってきたというわけである。実際には城館遺構は2ヶ所にある。宗竜寺のある台地には北東と南東にそれぞれ突き出した地形があり、そのそれぞれに城郭が営まれていたようなのである。

 南端の城の方は遺跡登録されていないのだが、図を見ても分かるとおり、城郭と見てよいと思う。先端の1郭周囲には土塁が巡らされ、先端近くに虎口らしきものもある。台地基部の2郭側には堀切があり、星宮神社のある2郭と接している。3の部分は腰曲輪である。腰曲輪は東側の城塁下にもある。星宮神社の北側が台地上に上がるための切り通しの道となっているが、これも本来は堀切であったものと見てよいであろう。城内に星宮神社があることも合わせて、千葉一族に関連する豪族(椎名氏)などの城館が存在していたものと思ってよいのではないだろうか。2連郭+腰曲輪といった構造である。

 そういうわけで、この南端の城には名称も付けられていない。この周囲が「台」という地名なので、仮にここを台城としておく。
 
 さて、従来知られている岩室城は、宗竜寺の北側にある。宗竜寺の北側には養鶏場があるが、その右手奥の山林内部に重厚な堀と土塁が残っている。堀は深さ5m、幅8mほどもあり、台地基部を掘り切って、北側に横堀となって延びている。この堀に囲まれた1郭部分の土塁は郭内からでも高さ3mほどあり、かなりの土木量によるものである。切り通しの道によって分断された北側に2郭がある。上記の概念図では先端部分を1郭としている。これはセオリー通りではあるが、先端は地勢が低くなっており、1郭から完全に見下ろせるような位置にある。このような位置関係からして、主郭は図の1郭と見た方がよいと思う。千葉一族の椎名氏の分流の岩室氏の居城であったと言われている。

 ところで、この周囲には、けっこう気になる地形がある。養鶏場の西側には土塁が一本あり、養鶏場から南側にかけても、土塁状の土手が続いている。また、その南端辺りには、やはり土塁の残欠とも思われるようなものが残っている。いずれにしても、残存は断片的であり、そのまま城館遺構と見てよいものとは思われないが、もしかすると、これらは城に関連するものであるのかもしれない。














養鶏場の南西側には、このような土塁の残欠らしいものが残っている。 1郭と2郭との間の堀切跡。右側の1郭の方が2mほど高くなっている。
1郭南側の堀。深さ5m、幅8mほどもある大規模なものである。 養鶏場。この右側の山林の中に1郭が隠れている。
南西下から見た岩室台城。比高20mほどの台地先端部を利用している。 台地下から上がってくる切り通し道路の途中に星宮神社入口がある。
1郭との間の堀切。深さ2m、幅5mほど。 1郭虎口部分付近の土塁。
(以前の記述)岩室城は比較的良く遺構の残った城である。岩室の中央部の比高20mほどの台地の南端部が城址らしく、そこには写真の神社がある。何の神社か確認できなかったが、例によって星宮神社であるのかも知れない。写真の土手の手前は堀底道になっており、三の堀とでも言うべきものだ。神社の南側には空堀と土塁があり、脇は腰曲輪で固められている。特に東側の空堀は深く掘られ、深いところでは7mほどもある。また、二重の土塁や櫓台も残っている。この辺りは山林化しているが、その奥に更に一郭があり、直線連郭式の城であったことが分かる。

 椎名六郎胤光の六男に福岡八郎胤業がいるが、その長男の資胤が岩室城を築いて移り、岩室氏を名乗るようになったという。

 城址のすぐ北側に曹洞宗宗龍寺がある。宗龍寺は由緒のありそうな寺院で、古そうな墓がたくさん並んでいる、江戸じだいのものは年号を確認できるのだが、もっと古いものもあったかもしれない。またこの寺の境内には、光町指定文化財の板碑やかやの木がある。




小川台城(光町小川台)

*ラフ図の作成に際しては『千葉城郭研究』第5号の椎名さんの図を参考にした。

 小川台にある隆台寺の境内やその背後の比高5mほどの低い台地部分が小川台城の跡であるという。この台地はあちこち削られ、周囲に民家が立ち並んでいることもあり、かなり改変が進んでいる様子である。そのため本来の城の形状がよく分からなくなってしまっている、と見るべきであろう。

 それでも、隆台寺の西側の墓地には、Bの虎口が残されている。これは高さ2m、上端幅が3mほどもある大きな土塁によって形成された虎口であり、その手前部分には、堀跡と思われる痕跡も残っている。上端幅の大きさからすると、虎口脇の土塁の上には、櫓のような建造物が建っていた可能性もある。

 Bの奥の台地は倒木がひどくて、歩き回るのも大変だが、その奥にはAの土壇状の地形があった。周囲よりも2mほど高くなっており、方30mほどの方形に近い形状の空間となっている。ここが主郭ということになるだろうか。

 その他にもあちこちに土塁の名残のような地形を見ることができるが、どこまでが城郭に伴うものであるのか明確ではない。
 おそらく、沼沢地に臨む微高地の先端を利用した城郭であったのだと思われる。

 その歴史等は不明であるが、隆台寺の前面にはかなり古そうな宝筐印塔なども残っており、古い時代に地元の豪族が居館を構えた所であるのかもしれない。









Bの虎口の両脇にある土塁。高さ2mほどだが、上端幅が3mほどもある重厚なものである。 Aの部分の城塁。高さ2mほどある。
(以前の記述)小川台城は、小川台の隆台寺の北側の台地上にあったらしい。台地上には土塁や郭などが残っているという。



木戸館、木戸陣屋(匝瑳郡光町木戸)

 木戸館は木戸塁とも呼ばれ、木戸字長塚にあり、椎名信胤が居を構えた所であるという。県道横芝停車場白浜線の、「長塚上」のバス停のあたりにあたらしい。平地の居館であったというが現在では遺構はまったく見られない。ただ城址付近に星宮神社らしきものがあるだけである。天正年間に千葉氏の没落と共に滅んだという。

 木戸陣屋木戸館の3km南、もう海に近いところで栗山川添いにある。幕末期の佐倉藩の陣屋の跡で、水堀や土塁が一部残っているというが、よく分からなかった。

 右は木戸陣屋見取り図(『千葉県教育振興財団 研究紀要28号』の掲載されていたもの)を基にして作成した復元鳥瞰図。
























小田部(こたべ)城(光町小田部)

 小田部の星宮神社周辺が城址ということである。北側に突き出した台地上であるが、突き出した先端部はほとんど加工されておらず、台地基部に近い場所を取り立てて城館としている。星宮神社は奥まった所にあり、入口もちょっと分かりにくいのであるが、この神社の場所が分かれば、遺構もすぐに分かる。

 神社本殿の建つ20m×10mほどの部分が最高所にあり、その本殿周囲は高さ2mほどの土塁に囲まれていて、ここが主郭ということになりそうだが、郭というには狭すぎるようである。物見台か櫓台といったところであろうか。

 城館遺構らしいものは、この背後に存在している。神社の後ろには深さ3m、幅5mほどの横堀が一直線に延びている。堀は西側で折れ曲がり、南側に延びている。堀の先端は4の部分で行き止まっている。4の部分は方形の小郭であるが、5の郭から接続する部分の関門となる場所であろうか。

 神社のある高台から、幅広の土塁が堀に面して西側に延びている。土塁は途中で低くなってしまうが、西側の堀に面する部分では別の土塁の高まりがある、というように変則的な土塁の配置となっている。この辺り、後世の改変があるのかもしれない。この堀の内側の3の部分が城内で最も広い部分で、主要な建造物はここにあったのではないかと思われる。神社からは東側にも土塁が延びている。こちらの土塁はかなり低いものでしかないが、この内側の2の郭もかなり広く、主要な郭であったろう。そのさらに下に6の腰曲輪がある。

 神社に上がる参道は不自然にS字型になっているのが目に付く。通常神社の参道の石段は直線的なものが多いが、このようになっているのは、もともとの登城道がこのような形状をしていたことによるのではないかと思われる。この辺り、本来は内枡形に近い構造であった可能性もある。右側上の櫓台のような土塁も、虎口関連のものであろう。

 参道の南側は民家となっているが、民家の前を通って台地下に降りていく切り通しの道がある。これが、城外との区画を示す堀切の名残であったと見るべきであろうか。

 神社背後の横堀の先にも台地が北側に向かってかなり延びている。横堀の北側の7の部分もかなり広い平坦地になっているが、その先は緩やかな傾斜で、地勢が次第に高くなっている。そしてピークを迎えた後、後はまた緩やかに地勢が傾斜して降っていく。このようにほぼ自然地形のままとなっていることから、台地先端部は城郭に取り込まれていない。なぜ、台地先端部を城郭加工しなかったのかは不明だが、台地先端部に主郭を置くというのが必ずしもセオリーではなかったことを示しているのではないだろうか。この部分には溝のようなものが掘られいているが、これは後世、通路として掘られたものであろう。

 このように、小田部城には、それなりに城郭らしい遺構が残ってはいるが、後世の撹乱があるのか、今ひとつ、形状がはっきりしない。地元の方のお話でも、城があったという伝承もなければ、城郭に関連する地名もないということであった。そういう意味ではよく分からない城郭であるといえるかもしれない。









星宮神社の入口。民家の間の分かりにくい所にある。 2の郭から見た、神社の建つ1郭部分。比高3mほどの土壇となっている。
神社の周囲を巡る横堀。深さ3m、幅5mほどある。 神社に向かう参道は枡形内部を通るように屈曲している。
(以前の記述)小田部城は、虫生の集落のある比高20mほどの台地上の先端部にあり、参道の石段を上がっていくと星宮神社が建っている。城主は分からないが、星宮神社があるので、千葉氏関係の城だったことは確かで、千葉一族椎名氏の城館であったと言われているが、詳しいことはよく分からない。郭は2段に構成されており、神社の周囲は土塁が取り囲み、その下には空堀がぐるりと取り巻いている。遺構の保存状況はほぼ良好だ。 




駒形城(光町台字駒形、城の腰、要害)

何条小学校と一段下にあるグランド。小学校建設によってほぼ隠滅してしまったようである。城の腰、要害といった地名が残されているので、それなりの城郭であったのではないかと推測されるのだが・・・・。
 駒形城は、小田部城の300m西、小田部城と向かい合う位置にある台地上にあったという。この地には現在南条小学校が建っている。城主等詳細は不明だが、小田部城と関連しあった城であることは間違いないだろう。小学校が建設されているので、遺構は失われてしまったものと思われるが、小学校と、そのすぐ南側の台地との間の道が、掘り切ったようになっており、堀底道と呼んでいい状態になっている。これが遺構といえるかも知れない。




篠本城(匝瑳郡光町篠本字城山)

*篠本城はすでに隠滅してしまっているので、『千葉県の歴史』(資料編 中世T)の発掘図を基にして作成したラフだけ提示しておく。

 篠本城は、篠本地区の集落のほぼ中央の、比高25mほどの台地上にあった。寒風城より700mほど南西で近い位置である。土塁などが残っていたというが、現在では「光スポーツ公園」を造成するために山はすっかり削り取られてしまったので、ほぼ跡形もなく消滅してしまった。それに際して発掘調査が行われ、報告書や篠本城の復元鳥瞰図なども作成されている。これを見る限りでは、篠本城は地元の権力者の居城というよりも、何軒かの居住者が共同して身を守るための施設であったようである。発掘の成果で分かったことであるが、城郭が必ずしも地域の支配者によるものであるとは限らないということを示唆的に示しているのだと思う。

 篠本城はこの辺でも最も古い城の1つで、平良文の孫にあたる良国が天慶5年(942)にこの地を領して城を築いたのに始まるというので1000年以上前の話だ。城主の子孫は後、関口と姓を改め、徳川時代には代官となったという。




















寒風(さっかぜ)城(光町篠本字城の台)

 県道109号線沿いで、匝瑳市の久方地区と接する辺りに位置している。善光寺の北東300mほどの位置である。比高20mほどの台地で、北の県道側に突き出した部分を城郭として取り立てている。

 城は大きく分けて、3つに分けられる。南北にある2と3の郭は長軸100mほどの規模だが、中央にある1郭は長軸200mほどもある多角雑形の郭で、ひときわ大きい。この郭をどのように理解するかで、この城の性格についての解釈は分かれてくる。

 県道からこの台地の西側に向かって進んでいくと、やがて道はBの切り通しの所に来る。ここから3の郭下の墓地まで行くための道が付いているのでそれを進んで行って、途中の右手に上がる道を上ってみると、そこに城址標柱が建っている。この辺りが1郭ということになる。1郭は畑地となっていて、一部を除けば藪も少なくて比較的歩きやすい。

 この城で最も目立つ遺構は、2郭の北側にある二重堀である。この部分が寒風城で一番防御に意を凝らしている部分であるといえよう。この堀切の深さは3mほどであるが、幅は6mほどもあり、かなり幅を広く取っているのが特徴である。南側の堀は所々浅くなっているが、これは耕作化によって埋められているのであろう。土塁は2郭側にも存在していたと思われるので、1郭と2郭の両方にかつては土塁が配置されていたと思われる。したがって、1と2のどちらが優位な郭であったのかについてはちょっと迷う所である。普通に考えれば、二重堀によって区画されている南端の2を主郭と見るべきであろう。

 2郭の南側には、切り通しによって区画されている。しかしその先は、地勢が低くなっているとはいえ、南側の台地とは続くような位置にある。また2郭東側下の腰曲輪が、二重堀のうち、2郭側の方を通って堀底に上がるようになっている、といったことを勘案すると、1郭の方が優位な郭とひとまず考えてよいかと思われる。

 では1郭が主郭なのであろうか。あるいはそうなのかもしれないが、この郭はやたらと広くて、形も複雑であり、そうとう大人数の兵力がないと守るのに難しかったであろう。この辺りの領主が常にこの郭を守るだけの兵力を駐屯させていたとも思えないので、城主の居住の空間としては、もう少し手ごろな大きさのものがふさわしいのではないだろうか。といったように考えてくると、北端の3が最も主郭にふさわしい郭であるということになる。となれば台地の先端に主郭を置くというセオリーにも叶っている。ただし、北端下に尾根がゆるく伸びている部分があり、そこを鋭く断ち切ってもいないのが気になる。主郭であるならば、もっと防御に気を遣ってよさそうなものである。

 さて、2郭はとにかくだだっぴろい郭であるが、その周囲はしっかり切岸整形が成され、腰曲輪も配置されている。そういう意味では、それなりにきちんと造った郭であるといえる。この郭の性格をどう見るべきであろうか。

 こういう場合に考えられるのはだいたい2つのケースである。1つは大兵力の駐屯地であったのではないかということ。もう1つは、村人などを非難させるための村人曲輪であったのではないかという場合である。この場合はどちらに当たるであろうか。

 北総地域には、村人曲輪と思われる広大な外郭部を持った城郭が少なくない。これらの城郭の発生には永禄年間の正木氏の侵攻が関連しているのではないかと思われる。他国からの侵略という非常の局面に当たって、多くの城が外郭を持つようになったものではないかということである。一方、坂田城などは拠点的な城郭であり、城主が北条氏の命令を直接に受ける立場にあったことから、兵力集結のための外郭部を必要としていた。

 寒風城の場合は、城主がそれほどの兵力の差配を任されていたというようには思われない。となると、消去法によって、広大な1郭は村人曲輪であったという考え方の方が浮上してくる。寒風城の東南600mほどの所には、城というよりは防御性の集落であった篠本城があったが、寒風城も、それとやや似たような城郭であった可能性がある。



Bの登り口。ここを右手に上がっていけば3郭までいい道がついている。軽なら楽勝の道である。 県道109号線から見た寒風城。比高15mほどの台地上である。この辺りから右手に入るとBの所に出る。写真は3の郭辺りである。
城址標柱。これがないと、城址かどうかよく分からない。 1郭東南側下の腰曲輪の状況。切岸を形成したためか、腰曲輪はかなり広範囲に配置されている。
二重堀の一番北側の土塁部分。高さ3mほどある。 二重堀の北側。深さ3mほどだが、幅は8mほどあり、幅広の印象を受ける。
二重堀の南側。堀底は東側にかけて竪堀となって下に落ちている。 3郭との間の堀切。3郭に上がる道(左側)が付けられたためかなり改変されているが、もとはやはり幅広の堀切であったものと思われる。
(以前の記述)寒風城は篠本地区の東のはずれ、八日市場亀崎と地を接する比高20mほどの台地上にある。椎名氏の居城の1つだったという。「寒風城跡概念図」によると、台地上には連郭式に3つの郭が配されている。どの郭が主郭だったのかは分からないが、中央の郭が最も大きく、長軸200mほどの雑形で、周囲には腰曲輪が巡らされている。また、この郭と南の郭との間には二重の空堀と土塁が巡らされ、防備を固めている。成田市の東和田城の二重空堀と構造がよく似ているが、戦国期の築城の特徴の1つであると思う。ただし、現在は山林化が激しいので、遺構を確認するのは困難だ。城主については「鬼沢氏」または、「鬼若氏」であったとする説もある。





芝崎館・芝崎砦(光町芝崎)

 場所についてはまだ確認していないが、芝崎館は柴崎城の直下に発見された低地館であるという。高速道路延長工事のさなかに発見されたものである。

 芝崎砦は、同時に、芝崎館に隣接する台地の踏査によって発見されたという。比高30mほどの台地上には古墳があり、平坦になっているが、明瞭な城郭遺構は確認できなかった。
(「千葉城郭研究7号」新規発見城郭より)

 


新善光寺館(光町篠本)

*ラフ図の作成に際しては『千葉城郭研究』第5号の椎名さんの図を参考にした。

 篠本の新善光寺の背後の台地上にはAのL字型の土塁が残されており、これが城館に伴う遺構であるかと思われる。

 この辺りは一種の城郭密集地帯であり、道路を挟んですぐ北側には寒風城があり、南西500mほどのところには篠本城があった。西側700mほどの台地には要害台城があり、東方には亀崎城や新村城などが並んでいる。

 新善光寺の背後の台地はかなり削られているようで、寺院の側から台地に登ることはかなり難しい。しかし、この台地は西側の日吉神社と尾根続きになっており、日吉神社経由で簡単にアクセスできる。日吉神社には車で上がることもできるが、狭い道なので、下のどこかに停めておくのが無難であろう。

 日吉神社の周囲にも土塁状の地形が見られるが、これは神社に伴うものと見るべきもので、城とは別に考えた方がよい。

 日吉神社から東側に尾根を進んでいくと、すぐにAの土塁の西側部分が見えてくる。土塁は南に30mほど延びているが、この部分の土塁は郭内部からの高さが低く、土塁というよりは、郭の切岸といった印象の方がふさわしいかもしれない。高さは2mほどである。

 土塁は東側の台地端に向って100mほど延びていっている。そして途中から、北側に堀状の窪んだ地形を見ることができる。この堀の痕跡から推測するに、本来は堀が全周するような形態であったのではないかと思われる。

 台地が削られてしまっているので、現在確認できる遺構はこれだけである。しかし、Aの土塁が城郭関連のものであることは間違いないかと思われる。

 「新善光寺館」という名称になっているが、このような台地上に居館を置くのは少々不自然に感じる。台地下の新善光寺のある部分は谷戸的な地形になっている上に、下の平野部よりも5〜6mほど高くなっている。居館を置くとすれば、普通はこの寺院のある場所ということになるであろう。

 それでは台地上の遺構は何なのか、ということになるが、これは陣城のような臨時築城に伴うものではないだろうか。長く延びているわりには高さも2m程度ほどしかなく、堀もだいぶ埋まっているとはいえそれほど深くなかったようである。こうした様子はいかにも急造したもの、といった印象を受ける。この近辺の城郭密集の原因は、なんらかの軍事的緊張状態があったゆえではないかと考えられるのだが、この遺構もそうした状況に伴うもの、といったように思われるのである。

 新善光寺は山号を「殿谷山」という。このことは、ここに中世城館が存在したことを暗示している。上記の通り、台地下の新善光寺のある部分が谷戸式城館であり、そこに篠本氏といった地元の豪族が居館を構えていたことを想定した場合、それと台地上の遺構を結び付けて考えるとしたなら、ある時期の軍事的緊張状態の下、山上に、詰めの城として臨時の築城を施したもの、といったような想像をすることもできる。






南側に延びる土塁。高さ2mほど。こちら側には堀の痕跡が見られない。 東西に長く延びる土塁。北側には堀の跡が残っている。
(以前の記述)新善光寺館は、寒風城のすぐ南西の善光寺の北側の台地上にあった。台地上には高さ2mを越える土塁が一直線に延びていると言う。



田中城(光町虫生字ニカヘ)・丸塚城(光町虫生字丸塚)

 虫生の集落の背後の比高20mほどの台地の上に星宮神社があるが、その上が田中城である。「城郭体系」では、この城のことを虫生城(芝崎城)としているが、この城は、原状ではそれほど大きなものではなく、拠点的な城郭とはいえないので、これは誤りであると思う。虫生城とすべきものは古城の方であると見るのがよい。

 この星宮神社の登り口は分かりにくいが、火の見櫓のある辺りから入り込んでいくと、台地に上がっていく切り通しの道が見えてくる。ここを登ればすぐである。台地上には土塁に囲まれた星宮神社があるが、これが1郭ということになる。この郭の入口は切り通しの虎口となっている。現在はかなり削られていて、ここが虎口らしく見えるのであるが、これは後世の改変によるものである可能性もある。1郭の西側には3の腰曲輪があり、そこから西側は深さ8mほどの土手になっている。この下の4の部分は幅30mほどとかなり広く平坦であるが、その先には、西側の台地の土手が見えている。結果として4は幅広の堀といった形状となっている。人工的な堀としては城の規模に比較してあまりにも巨大すぎるが、両側の土手は切岸加工されているようであるから、自然の谷津を利用した堀といっていいだろう。

 それにしても、台地に上がる道が、かない深い切り通しの道となっているのはどうしてなのだろう。単に道を付けるだけならば、このように深く切り通しにする必要もないだろう。やはりこれも城郭関連の遺構とみるべきか。

 田中城は、自然地形を利用しながら、防御しやすさを目途として築かれた城郭であるが、それほど大きなものではなく、出城の類であったものと思われる。田中城、丸塚城、中城、駒形城、小田部城と、5つの城郭が300mほどの距離を置いて直線的に並び、そのさらに東南側には古城がある。これらは古城を中心とする城郭ネットワークであったと思われる。

 田中城の300mほど東側に丸塚城がある。丸塚と呼ばれている、古墳のような比高13mの小さな台地を利用したものである。こちらは田中城よりもさらに小さく、物見のための砦といった趣である。山上の中心となる郭は長軸10mほどといった狭いもので、周囲に高さ2mほどの土塁が巡らされている。土塁に囲まれた郭というよりも、実際の印象は、穴蔵といったイメージである。虎口は南側に開口し、腰曲輪が数段巡らされている。図の通りで、簡素な砦であったと思われる。






東側の丸塚城のほうから見た田中城。比高20mほどの台地上にある。夕方が近く、逆光で見えにくくなってしまった。 田中城内にある星宮神社への登り口は、切り通しの通路をあがっていくようになっている。
星宮神社の入口は切り通されて、深さ5mほどの虎口状になっている。 西側の尾根との間は深さ8m、幅30mほどの自然地形を利用した堀である。
西側の田中城の方向から見た丸塚城。こんもりとした古墳状で、比高13mほどの岡である。 中心となる穴倉部分の外側の城塁と腰曲輪。
(以前の記述)田中城は、芝崎台と呼ばれる台地上に展開している。千葉氏族の、匝瑳党椎名氏の氏族の虫生氏、または芝崎氏の居城だったと思われる。台地は比高30mほどで、消防の火の見櫓の辺りから、山上へ登る細い道がついている。切り通し状になった道で、そこを抜けると土橋が広くなったような郭があり、その先の右手に星宮神社がある。写真は神社を取り巻いている土塁だが、この下はかなり深い空堀になっており、その幅は広く一部土塁も築かれ、腰曲輪のようにも見える。遺構の保存状況は良好だ。

丸塚城は虫生城の300m東にある。比高13mほどの小さな独立丘である。出城と言うよりは、狼煙台か、小規模な見張り台といったほうが良いであろう



中島館(光町芝崎字中島)

 2003年、新発見の中世城館跡である。古城の南西500mほどの所の水田の耕地整理中に発見された。ここからは、平安時代の井戸(筒井筒!?)や建物跡が発見されているが、その脇から中世の居館の跡も見つかっている。遺物などから15世紀中ごろまでは使用された館と考えられ、地元の豪族であった椎名氏などの居館ではないかと想像される。沼沢地に囲まれた要害の地で、平安時代には荘園役所など、後には豪族の館として長く使用された場所であるらしい。(以上、左衛門尉殿がまとめた資料による。)



中城(なかんじょ)・(光町虫生字中城)

 中城は比高20mほどの北側の低地に突き出した台地に築かれている。古城とは尾根続きになっており、古城の出城のようなものであったと考えられる。

 位置としては南条小学校の南西500m、広済寺の北東500m、丸塚城の東300mほどの所である。田中城(星宮神社)の台地下から東側にまっすぐ向って延びている水田中の細い道があるが、これを東に向って進み、突き当たった所の台地の上がそれである。

 台地は急峻な土手に囲まれているが、先端からよじ登っていくとすぐに1の平場に出る。ちゃんと削平された地形になっているが、堀切などの明瞭な区画は見られない。

 その奥の台地はかなり広くなっている。途中、1mほどの段差で区画されているが、それをすぎると、西側の台地縁に、高さ1.5mほどの土塁が盛られているのに気がつく。土塁に沿って進んでいくと、土塁はL字型に南に折れ、やがてなくなっていく。

 山中にヤブが多くて、隅々まで歩いてはいないので、他にも遺構があるのかもしれないが、ざっと歩いた範囲で明確に遺構らしく見えたのは、この土塁だけである。

 出城にしても、実に簡素なものであったと思われる。















北側から見た中城。比高20mほどの台地先端部にある。左側の奥が古城で、両者は尾根続きになっている。 中城の土塁。高さ2mほどで台地の縁に沿ってL字型に折れている。台地の先端ではなく、中ほどにあるのが珍しい。
丸塚城のさらに400m東に中(なかん)城がある。比高20mほどの、北に向かって突きだした台地の先端部に位置した城である。土塁などが残っている。中城という名前から、古城と、虫生城との中継の城としての機能があったものと思われる。この3城のある台地はそれぞれ指呼の間にあり、互いに機能しあっていたものであろう。



古城(ふるんじょ)(虫生城・光町虫生字古城)

*鳥瞰図作成に際しては「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」の図面を参照した。

 南条小学校の南600mほどの所にある。東西に続く台地は細い尾根によって結ばれているが、その中央の平坦部分を利用して城は築かれている。比高20mほどの台地である。海老川沼の北西側に「住宅前」というバス停があるが、そこから北西側に道を上がっていくと左側に見える台地がそれである。この道をさらに進むとAの部分まで来るが、ここから城址まで続く山道がついている。「ごみ不法投棄禁止」の看板が目印である。

 城は、広大な1郭を中心に、周囲に腰曲輪を配置し、要所を堀切で掘り切るといった形態のものである。1郭内部はかなり広く、長軸100m以上ある。これだけの広さがあれば、それなりの人数がこもることもできるであろう。この地域には城郭が多く密集しているが、この古城が最も大規模であり、拠点的な城郭であるかのように見える。
 「城郭体系」は田中城のことを虫生城(芝崎城)としているが、「房総の古城址めぐり」では、この古城を虫生城としている。おそらくは「城郭体系」の方が誤っているのだろう。

 1郭の北西側から南西側にかけては土塁が盛られている。北西側には支尾根が派生しており、その方向には2の堀切が掘られている。また西側には尾根が続いていて、そちら側も堀切によって区画されている。3の北側には切り通しの部分もあるが、これは西側の尾根からアクセスする際の虎口の名残であろうか。この西側の尾根を進んで北側に向かうと中城に達する。

 1郭の東南側の中央部に枡形虎口のようなものがある。しかし、郭内部はかつて耕作されていたようなので、その際に付けられた道の可能性もある。その他にも1郭内部には根切り溝のような溝があちこちに掘られている。1郭の城塁は下の腰曲輪からの高さ6mほどあり、わりあいきちんと切岸加工されているが、その直下の2の腰曲輪下の城塁などは自然地形のままのようである。この辺りまでは工事しきれなかったのであろうか。

 1郭の北側には土塁があるが、三日月型の独立した土塁もある。何かの土壇として使用したものなのだろうか。その先に深さ3mほどの堀切があり、その北側に5の部分がある。この堀切の堀底は4の腰曲輪となっており、その先には切り通しの虎口があって、下の腰曲輪と接続している。

 5の先の6との間には深さ5mほどの堀切がある。これが城内最大の堀切であり、北側の尾根からの防御を意図したものである。6の北側にも小さな堀切があるが、これは防御用というよりも、「ここから城域に入る」という区画を示すものであろう。尾根道はその先も続いており、Aの手前で、2mほどの切岸となっている。この部分が城に入る最初の関門となる場所なのであろう。Aの部分の道は切り通しとなっているが、これも本来は、堀切であったものだろうか。とすると、1郭までに数々の防御を施しているこちら側こそ大手道ということになるだろう。






東南側下から見た古城。比高20mほどの台地上である。 東側の尾根の基部辺りから登る道がある。不法投棄禁止の看板が目印である。
5の郭と6の郭との間の堀切。深さ5mほどあり、城内最大のものである。 1郭内部の土塁。
1郭南側下の腰曲輪を見たところ。 6郭の堀切の所から、1郭城塁と中断の腰曲輪を見た所。段々になっているのが分かるであろう。
中城の400m東南の台地に古城がある。古城という名称から、ここが元々の城のあった所なのかも知れない。かつての虫生城がここにあり、後に星宮神社の建つ現在地に移っていったものだろうと思われる。比高30mほどの東西に延びた台地上で、城址には土塁や空堀が残っているという。




宝米(ほうめ)城(匝瑳郡光町宝米)

宝米城跡にある祠の1つ。
 宝米城は、栗山川を臨む比高30mほどの台地の先端部にあった。台地上はかなり広い平坦地になっていて、その西端に大棟梁神社がある。またそれ以にも小規模な鳥居を持った小さな神社らしきものが3カ所ほどにある。この辺りが城址だとすれば、台地の基部との辺りに空堀などがなければならないはずだが、畑地の造成で崩されてしまったのか、まったく面影がない。台地の南端部には櫓台と言っても良いような比高5mほどの土塁状の高まりがある。唯一の遺構といった感じだ。土塁上は方8mほどとわりと広くなっており、その中央部には写真の祠がある。城主等は未詳。




傍示戸城(匝瑳郡光町傍示戸字城の台)

若梅(わこうめ)城(匝瑳郡光町傍示戸)

 傍示戸城は、虫生城の北西500mの所にある。比高30mほどの、城の台と呼ばれる台地で、虫生城と向かい合っている。県道109号線の「富下」というバス停や「JAそうさ」の北側上にそびえている台地である。

 城址の北の下に星宮神社があるので、やはり椎名氏関連の千葉一族がいたのであろうと推測される。

 成就院のあたりから台地を南に登っていくと、光浄水場がある。この右側が城址になる。浄水場と城址を隔てる道はかなり深い堀底道であったような構造で、かっての堀の跡と見ても良さそうだ。城址は畑地になってしまっているので、遺構はよく分からなくなってしまっている。空堀状に窪んだ所や、腰曲輪のような部分、低い土塁状の高まりなども見られるが、いずれも自然地形なのか城郭構造物なのかどうかははっきりしない。

 傍示戸城は、もともと耕作化によってかなりの部分破壊されてしまっていたが、水道施設の施設が建設されるためにさらに被害を蒙ることとなり、そのため、発掘調査が行われた。右のラフは発掘調査報告書の図から想像して描き起こしてみたものである。

 城内からは副次的に建造物の跡が発見されており、ある程度の長期間にわたって使用され、建物が造り代えられているさまが伺われる。

 台地上には横堀が掘られているが、これらの堀には折れが見られ、一部には出枡型形状の張り出しも見られる。多少技巧的な印象もあり、戦国期の城であったかと推測される。



 若梅城については詳細ははっきりしないが、傍示戸城と続いた台地の、東側の先端部の辺りにあったのではないかと言われている。しかし遺構等は確認できない。

 傍示戸城の付属施設であったか、あるいは一体化した城であったというべきであるかもしれない。







傍示戸城の空堀らしきもの。近くには、この辺りの城址でおなじみの星宮神社もある。




要害台城(匝瑳郡光町篠本字要害台)

*鳥瞰図図の作成に際しては『千葉城郭研究』第5号の椎名さんの図を参考にした。

 篠本の弘経寺の南側、熊野神社の西側にある比高30mほどの独立台地が要害台と呼ばれ、戦国期の城の跡である。周囲は切り立っており、西側は水田地帯に臨んでいて眺望がよさそうであり、城を築くのにふさわしい地形である。 

 なお、城址の東側には県道109号線が通っており、南側の水田には「舟戸」の地名が残っている。水陸の交通の要衝を押さえる地点でもあった。 

 といったわけで城に登ってみよう、と以前から思っていたのだが、どうにも登り口が分からない。城址の周囲には民家がびっしりと立ち並んでいて、登っていけそうな所が見つからなかったのである。しかも全山ヤブに覆われているように見える・・・。

 しかし、城址南側には篠本三区区民会館があり、ここに車を置いて、隣の墓地辺りからなんとか登ってみた。

 登ってみると、思ったほどはヤブではない。急峻な土手を這い上がってみると、3郭下の腰曲輪に出た。見ると3郭の城塁は見事な切岸状態となっており、見るからに戦国の城郭であることが分かる。まさに「要害!」といった印象を受ける。

 腰曲輪から4郭へは坂虎口のような道が残っており、そこから4郭に登る。すると3郭に上がる虎口らしきものがあり、そこから3郭に上がっていった。

 3郭の上が1郭である。1郭は長軸50mほどあり、南側と東側とに土塁が盛られている。また、1郭の西側に2郭があり、そこには茶畑があった。城内でヤブになっていないのはここだけであり、この茶畑の管理をするために南西の切り通しの道が使用されているようであった。

 城は一見すると、単純に段郭を重ねただけのように見える。しかし、要害台城は実際にはけっこう技巧的な城郭である。たとえば、先に述べた、南側の腰曲輪から4郭、3郭と経由して1郭に向うルートだが、それぞれの郭を経由する間、上の郭の塁上からの射撃が容易な配置となっている。そういう意味では、段階的に敵を攻撃することを目途とした構造であるといっていい。たとえば4郭の北側には土塁と堀があり、4郭にあがった敵はまともに3郭からの攻撃にさらされ、逃げ場を失うのである。

 台地下から登る切通しを通って、茶畑のある2郭に向うルートも同様である。途中経由するいずれの郭も、上の郭の城塁からまともに狙い撃ちされそうな位置にある。そう広くもない台地上のスペースを有効に利用して迎撃空間を生み出しているのである。

 2,3,4といった郭の下に巡らされている腰曲輪も、単純に置かれているのではない。この腰曲輪を横移動する際に障壁となりそうな土塁、堀状の窪み、といったものが各所に配置されていて、敵の軍勢が安易に移動するのを妨げているのである。 

 そして、これらの郭の城塁はみな、見事に切岸加工されていて、往時だったなら、直登するのは不可能であったろう。現在は竹やぶとなっているため、頑張れば斜面を登ることも可能なのであるが、それでもかなりきつい斜面である。

 このような戦闘的な構造、鋭い切岸、といった要素を見ていくと、まさにこれが戦国最盛期の城であった、ということが実感できる。この地域の城の中では最も戦国の城の息吹を感じさせる城の1つである、といっていい。

 城の歴史等は未詳である。戦国期に、街道や船着場を押さえるための要衝として築かれ、用いられていた城であったのではないかと推測される。

南側から見た要害台城。一面の藪山という感じ。 1郭の土塁。郭内からの高さは1.5mほどである。
3郭と1郭の城塁。全山竹やぶといった状況である。 2の郭先端の堀切状の地形。
(以前の記述)要害台城は、篠本地区の北部にある。水田地帯に突きだした、比高20mほどの独立台地である。要害台と呼ばれていることから、篠本城、あるいは寒風城の出城があったところではないだろうか。篠本地区には台地がいくつも連なっているが、この台地はそれらと少し離れて、ぽつんと小高く盛り上がっている。1.5km北西にある大島城と立地条件がよく似ている。城址に登る道は発見できなかったが、一部木が切られ、見通しが良くなっている。また山上の平坦な様子もよく分かる。城址には、土塁、虎口、腰曲輪などが残っている。




























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