千葉県印西市(旧印旛村)

*参考資料 『日本城郭体系』 『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』 『房総の古城址めぐり』 

師戸城(印西市師戸字龍ケ谷)

 
  師戸城鳥瞰図。東南上空から見てみた。この城に関しては地方領主の近くて遠い城もどうぞ。

 師戸城は印旛沼を挟んで、臼井城と向かい合う位置にあり、臼井城の出城としての機能を果たしていたものと考えられる。現在は印旛沼公園として整備されており、一部土砂採掘により削られているが、おおむね旧態を残している。





















主郭の堀と土塁。この部分は、堀も土塁も小規模なものだ。主郭からは、印旛地方を遙かに展望することができる。  二郭と三郭の間に掛かった橋の上から、空堀と土塁を見たところ。5.6mとけっこう深く掘り下げられている。
四郭内部。広場になっており、かなり広い。周囲を4.5mの土塁がぐるりと囲み、外側には深さ10m以上の空堀がある。
四郭虎口付近の堀と土塁。写真ではわかりにくいが、土塁上からの深さは10m以上あり、極めて大規模なものであり、この城の建造が、戦国も末期のものであることを伺わせる。
   






高田山城(印西市岩戸字高田山)

 高田山城は印旛沼北西の低地に西側から突き出した比高15mほどの台地先端部に位置している。場所がちょっと分かりにくいが、大廻方面から岩戸方面に向かってくる町道が県道64号線に合流する信号の東南500mほどの所である。(コンビニのある信号である) このコンビニの東側の裏に製材所があるが、そのさらに東側の道に山林に入っていく道が見える。これが図の西側から城址に続いている道で、これを進んだ先の山林の中に遺構が残っている。この道は城址の北側の斜面に沿って台地下まで続いているのであるが、これは後世造られた道であろう。

 鳥瞰図は「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」所収の概念図を参考にして描いたものである。城は基本的に2郭構造である。城域は全体で80m四方ほどであり、それほど大規模なものではない。台地の北東部に郭を展開し、南側の部分は城域に取り込んでいない。

 2郭の周囲を囲む堀は深さ4m、幅6mほどのものである。西側には長さ20mほどのかなり大きな張り出し部分があるのが特徴である。この上の部分は土塁も幅広になっており、櫓に相当する建築物があったのではないだろうか。2郭の虎口は南側にある。土橋と土塁によって虎口が形成されているが、土橋の幅は3mほどとかなり幅広なものになっている。この部分は後世、広げられている可能性が高いと思う。堀も一部埋められてしまっているようで、浅くなっている部分が所々にある。またこの虎口の東側には横矢のための張り出しが見られる。このようにきちんと横矢で虎口周辺を防衛しているのがこの城の特徴であり、この城の築かれた時代を想像する手がかりとなるといえるだろう。導入路として2郭北側の腰曲輪を通るルートも想定できそうに見えるが、こちら側は台地が削られているようでもあり、この腰曲輪も本来は横堀であったのかもしれない。この腰曲輪を通過すると一気に1郭まで達してしまうので、本来ならもう少し工夫がほしい所である。

 2郭の北東部に1郭が位置している。方40mほどの規模である。やはり土塁と堀があり、西側、南側にそれぞれ横矢張り出しの構造を持っているが、埋められてしまっているのか、堀、土塁の規模はいずれも2郭周囲よりも小さく、現状では土塁の高さは1mほど、堀も深さ1m程度になってしまっている。東側に犬走りのようなものが見えるが、かなり痕跡的なものであり、これは自然地形であるのかもしれない。

 横矢を随所に効かせた構造から、高田山城は戦国後期の城であると思われるが、特に伝承等は残っていない。師戸城、岩戸城、臼井城などと比較的近い位置にあることから、これらと関連して、一時的に急造された砦のようなものであろうか。あちこち堀が埋められているのは山林作業によってであると思われるが、もしかすると未完成であったということを証左しているのかもしれない。

南側から見た高田山城。東側に突き出した半島状台地で比高は15mほど。 2郭の横矢張り出し構造部分の堀。深さ4m、幅6mほど。
2郭の土橋と虎口。土橋の幅は3mほどあり、後世広げられたもののようである。 1郭の堀と土塁。かなり埋まってしまっているようで浅くなっている。
(以前の記述)高田山城は岩戸城の800m東北にあり、岩戸城の出城であったと思われる。比高20mほどの半島状台地の先端部を連郭式に区切った城であるが、山林化している中に遺構はよく保存されている。台地上の東北寄りに主郭があり、それを取り囲むように二郭がある。二郭の外側の堀には凸型の張り出し部分があり、その部分の土塁は櫓台状になっていて、戦国期の築城を思わせる。空堀は埋まっていてだいぶ浅くなっているが、あちこちに屈曲があり、そうした形状が良く確認できるくらいに遺構はよく保存されている。

 「房総の古城址めぐり」ではこの城を岩戸城としているが、「中近世城館跡詳細分布調査報告書」の説を採り、ここを高田山城としておく。  

 県道千葉臼井印西線の大廻新道というバス停から東北に200mくらい行ったところから高田山にはいる道がある。途中までは道がついているのだが、城址付近は完全に山林化しているので藪の中を分け入らないと遺構に辿り着けない。一月の休日に山中を歩いていると、すぐ近くでバーンと猟銃の音がした。ウサギでも撃っているのであろうか。それにしても近くなので、間違って撃たれたらと思うと怖い。城址調査も命がけだ!!




岩戸城(印西市岩戸字市場)

 岩戸字市場にある西福寺が岩戸城の中心部分である。西福寺のある部分は一辺60mほどの方形の区画を成しており、その周囲には見事な土塁と堀がめぐらされている。この土塁・堀の規模からしても、単郭の居館などではなく、台地全体を取り込み、周囲に複数の郭を配置した堂々たる城郭であったのではないかと想像をたくましくしたくなるのだが、現状では、台地上のほとんどが宅地化しているので、あちこちの部分を歩き回ることもできない。したがって、本来の形状は不明であるとしか言いようがないが、以前の記述で述べている通り、臼井氏の三大支城と呼ぶにふさわしい規模を持った城であった、とだけは言えるかもしれない。

 西福寺の周囲にはおそらく、かつて土塁と堀が四周していたのだと思われる。現在、土塁の切れがあちこちに見られるが、どれが本来のものであったのかよく分からない。しかし、寺院の入り口の部分がもともとの入り口であった可能性が高いであろう。

 西福寺のある主郭は、方60mほどの形状である。南の角の部分が幅広になっており、櫓台といってよいかもしれない。この部分から東側の堀底に向かって土塁が少し突き出ている。堀底内を区画しようという意図のものであろうか。また、この土塁は北東側の角が最も高くなっている。この部分は、堀底からの高さが6mほどもあり、かなり堅固な印象を受ける。

 南側の堀はすっかり埋められている。土塁を崩して埋めたのであろう。堀の窪みがまったく分からないほど見事に均されてしまっている。西側も堀は埋められてしまっている。しかし、こちら側は微妙な段差となっているため、かつての城塁のラインは明白である。北側の門から、土塁がさらに北西方向に延びているが、その辺りに2郭が形成されていたのであろうか。

 西福寺の南側50mほど先の山林の中に、土塁の痕跡とわずかな段差が見られる。これも2郭を区画するためのものであったろうか。
 県道をはさんで西側の神社の周囲にも土塁は見られる。このような周辺のあやしい地形もかつての岩戸城の名残であった可能性もなしとはしないが、現状からはなんともいえない。本来はいったいどのような規模の城郭であったものだろうか。

 下の以前の記述にもあるように、岩戸城の城主は、臼井氏の一族であった岩戸氏である。伝承では鎌倉時代に、臼井氏の相続問題で内紛があり、臼井氏の落とし胤をかくまった岩戸胤安は、志津氏に攻められ、岩戸城は落城したのだという。しかし、鎌倉時代の居館がこれほどの規模を持っているということはないだろう。少なくとも戦国期くらいまでは、臼井城の支城として使用されていたのではないかと思われる。

西福寺の周囲を取り囲む土塁。高さは郭内からでも2m以上はある。しっかりとした土塁である。 土塁の東南側にある虎口状の切れ。ただし、切り方が不自然なので、後世の改変の可能性大である。
土塁の外側の堀。深さ3〜6m、幅は7mほどである。 北東角の城塁。この場所の城塁が一番高く、堀底から6mほどの高さがある。
(以前の記述)岩戸城は、師戸城の1.5km北西、臼井城の2.5km北に位置している。師戸城、志津城と並ぶ臼井城の3大支城の1つである。城址は比高20mほどの台地上にあるが、台地上のほとんどは宅地化されており、遺構の多くは失われている。しかし、中心部であったと思われる部分は西福寺の境内となり、よく遺構をとどめている。西福寺の周囲は写真のように土塁が取り巻いているが、この土塁は師戸城などと同様の規模の大きいものである。土塁の外側は空堀になっており、空堀は幅7.8m、高さ5.6mほどある。

 岩戸城の城主は臼井氏の一族で岩戸五郎胤安で、彼は鎌倉中期の人物である。正和3年(1314)、臼井城主、臼井祐胤が死去した時、子息の竹若丸はわずか3才だった。志津城主の志津次郎胤氏は、竹若丸を殺して臼井城を我が物にしようとしたが、それを察知した岩戸胤安は竹若丸を城にかくまい抵抗した。しかし、志津胤氏の攻撃を受けて岩戸城は落城、岩戸胤安も討ち死にしてしまったという。




鎌刈館(印西市鎌刈)

 左衛門尉殿から、印旛村に悉皆調査からも漏れている城館跡があるというお話を伺って知った城館である。ただし、『印旛村史』には記載されているということである

 鎌刈地区から北西に突き出した比高10mほどの台地の中ほどに館は位置している。東祥寺と鷲宮神社の前の道を北に向かうと、商工会館の前の所で、まっすぐ台地奥に入っていける道がある。ここを200mほど進んだカーブミラーのある十字路を左に曲がると、道が左、右とクランクして行きやがて山林に入っていく。ここを行き過ぎるとすぐに墓地になるので、引き返す。墓地から50mほど戻った十字路を墓地から向かって右側に曲がって進んでいく。道なりに行くと民家の内部に入ってしまうのだが、途中道なりにカーブせずに未舗装の道路をどんどん先に進んでいくと、畑の中を通ってやがて山林となる。この山林の中の道をさらに進んでいけばすぐに左手に土塁が見えてくるので館の跡はすぐに分かる。

 鎌刈館の構造はとても変わっている。60m四方の堀に囲まれた方形といった形からすれば、一応、「館」と見てよい構造なのだろうと思うが、その間には浅い堀切が入れられ、細長い2つの郭に分割されている。中央の堀の東側に土塁が盛られているので、東側が1郭ということになるであろうか。しかし、この1郭も不思議な郭で、その東側の土塁との間に深さ3mほどのかなりきちんとした堀が掘られている。郭内よりも外側の土塁の方がはるかに高さが高い。この東側の土塁の外側には堀が掘られておらず、つまりこの部分だけ見ると、1郭の方が城外のようにも見えるのである。このように堀や土塁といった遺構はきちんと残存してはいるが、城郭の通常の土塁・堀の配置からすると、どうも理解しがたい構造である。埋められてしまっているのか、途中で自然消滅している堀もあり、虎口にもこれといった特徴は見られない。

 これが中心となる部分の遺構だが、さらに堀は1郭外側からさらに南側に延びている。この堀はそこで東側に折れる。土塁も堀も途中から痕跡的な状況になっているので、この先の部分は隠滅してしまっているのであろう。その南側にも土塁が折れながら延びており、3の郭を形成している。一方この3の北側の堀は、南西部では竪堀となって台地下に落ちているが、これは通路として使用されていたものであったようだ。

 このように城址は一部隠滅しているようなので、本来の構造は分かりにくい。この館の周辺の民家には、敷地の周囲に土塁を築いているものもある。それらもかつての城域の一部であったとしたら鎌刈館はそうとう大きな城館であったということになる。あるいは茨城県阿見町の実穀古屋敷のように、土塁で囲まれた複数屋敷を配列した城郭集落のようなものであった可能性もあろう。またそうではなく、1郭の東側の畑地そのものが本来の城の中心であったのに、消滅してしまったために分かりにくくなっているのだということかもしれないが、実際の所どうであったかは、よく分からないとしかいいようがない。

 基本的に現在見られる遺構が城の大半であったとするなら、単郭方形の土豪層の居館、と見るのがよいかもしれない。しかし、1郭周辺の土塁と堀の形状は城館遺構としてはどうにも不自然であり、あるいは後世に別の目的(たとえば馬込とか)によって使用された名残であるのだろうか。

鎌刈館の堀。深さ4m、幅5mほどである。 郭内部にある堀。これによって郭内が二分されている。
堀の奥の方はかなり複雑に入り組んでいる。 東側の二重堀の間の土塁部分。この両脇が空堀である。




立館(印西市瀬戸字新立)

*鳥瞰図の作成に際しては城跡ほっつき歩きを参考にした。

 立館はジョウガ址とも呼ばれ、六合小学校のすぐ北側の比高15mほどの台地先端部にあった。

 立館は、鎌刈館同様、『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』にはなぜか収録されていないが(そのため、近年までその存在を知らなかった)、『印旛村史』には掲載されている。

 それにしても、「立館」というのは、しっくりしない名称である。「立」は「タテ」すなわち「館」の転であるから、実際には小字名を取って「○○館」とすべきところである。ところが小字が「新立」なので、このような名称にしてしまったのだろう。「瀬戸館」とでもした方が良いように思うのだが、瀬戸は区域がけっこう広いので、これもまたピントの合っていない名称になってしまう。
 別名の「ジョウガ址」とはまたどういう意味であろう。単に城跡という意味なのであろうか。

 六合小学校の北側に入り込んでいくと、台地奥に進んでいく道が見えてくる。そこを進むと虎口となっており、右側には土塁と堀の痕跡、左側には城塁と腰曲輪が見えている。この左側の腰曲輪は進んでいくと横堀状になり、やがて西側の城塁に突き当たる。
 東側の土塁は20mほど延びて、その先は崩されてしまったようである。

 このように見てくると、残存状況は半端な感じがする。内部の耕地整理に伴って、かなり改変されているものと見える。

 城内部はかなり広く、長軸200mほどもある。内部の南半分は畑となっているが、北側は竹ヤブである。しかし、それを突っ切って先端部まで進むと、先端下には腰曲輪が造成されていた。この腰曲輪は台地の東端辺りまで延々と続いている。ここからの城塁の高さは2mほどであるが、一応、城郭として造成されている感じはする。
 
 城の東南側には民家が建てられているので、この造成によっても改変されているであろう。

 さて、この館の内部は非常に広い。これだけの広さで単郭ということはなかったであろうから、内部が区画されていた可能性は高い。しかし、現状ではそれは分からない。図にある中央部の溝のようなものは、畑に伴う根切り溝であり、城郭遺構ではない。現状では本来の形状を創造することは珍しい。そこで1947年の航空写真を見てみたが、その時代にはすでに、郭内部は現在と同様に開墾されており、堀などを見つけることはできなかった。

 これだけの広さを有していることからすると、単に豪族層の居館というよりは、より軍事的色彩の強いものであったような気がする。「新立」という地名からも想像されるように、戦国期辺りに、新しい城館の必要性と共に形成されたものであったかと思われる。

 ところで。『印旛村史』によると、この北側の台地にも方形の城館跡があるという。「新立」という地名からすると、この館の他に古い館も存在していた可能性がありそうだが、それは確認していない。

南側の虎口東側の土塁を郭内から見たところ。 同じ虎口の西側には横堀が見られる。
北側から広大な郭内を見たところ。正面奥に土塁が見える。 城塁の東端部分。下には腰曲輪が北端まで延々と続いている。
 『印旛村史』には、地元の片野氏の受け継いでいる伝承が記されている。それによると、立館の城主は片桐伊豆守という人物であったという。片野氏はその子孫であり、ここは昔は「館村」といい、片野一族の村であったという。近くの熊野神社は片野氏の氏神であり、その西側にある東端山光明寺が片野氏の菩提寺であった。 



萩原城(城ノ内城・印西市萩原字城ノ内)

*この城は、完全に民家の敷地内になっているので、城址を見学したい人は必ず所有者の許可を得てからにしてください。 

 萩原地区の北側の水田地帯に「城ノ内」の地名が残っている。この地名が示す城が萩原城である。北側に細長く突き出した比高20mほどの台地上の先端が城の中心であったと思われる。『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』には「ほぼ完存」とあるのだが、実際には先端部以外に明確な遺構は見られず、台地の東側もかなり削られているように見える。その後改変されてしまったものであろうか。

 台地の先端部分には高さ2mほどの土塁が残っており、その土塁には縦に2本の堀切状の切れが見られる。この土塁は上端幅も大きく、櫓台といってもいいかもしれない。

 その北側は切岸となり、その形成に伴う加工のために北側の一段下には腰曲輪が生成されている。そしてこの腰曲輪の東端辺りに金毘羅神社の祠が祭られている。この神社は公のものではなく、下の大きなお宅の庭からしか登れないようになっている。妙見社ではなく金毘羅様が祭られているのは北総の城にしてはめずらしく、千葉一族とは関係のない城であったのだろうか。

 城であるからには、台地基部の辺りに大規模な堀切があってもよさそうなものであるが、それは現在では見られなくなってしまっている。この辺りにも後世に埋められるなどの改変がなされているのであろう。

 城のある台地の南西側の下には集会所があり、そこから台地上に上っていく、かなり大きな切り通しの道がある。現在は人が通っていないようだが、これは旧道であったと思われる。この旧道も城となんらかの関係があったものであろうか。

 台地上の城としてはこれだけのものであるが、この台地下周辺には土手を伴ったような民家が何軒か見られる。これらも城の遺構の名残であったとすると、城は台地上の施設だけではなく、台地縁辺一帯の集落を取り込んでいた可能性もあるだろう。「要害」でも「根古屋」でもなく、この辺りの中世城郭では比較的珍しい、「城ノ内」の地名を残していることも、そうした城のあり方に関係しているのではないかとも思われる(もっとも、「要害」「根古屋」「城山」に比してみると若干珍しいというだけで、「城ノ内」の地名が他にないわけではない)。そのように発想してみると、実はこの城にとって重要であったのは、台地縁辺であったのかもしれない。

 城主等も不明である。このことも地元の方に伺ったのだが、「伝承等はない」ということであった。特定の城主による城というよりも、台地上の主郭を中心に(ここの集落主のような人がいたかもしれないが)、縁辺部の集落そのものを取り込んで「城ノ内」を形成することを意図していた城であったというように考えてみるのもよいかもしれない。

北東側から見た萩原城。比高15mほどの台地上にある。 南西側の集会所の所から台地上にあがっていく古道跡がある。これも城に関連したものであろうか。
台地先端部にある土塁の間の堀切。深さ2m程度の小規模なものである。 北側先端下の腰曲輪に祭られている金毘羅神社。
(以前の記述)萩原城ノ内城は、松虫城の北1.5km、かつての印旛沼に向かって北に突きだしていたと思われる比高20mほどの台地上にある。周辺は低地なので、見晴らしの良さそうなところである。台地上への登り道は分からなかったが、城址には土塁、堀、腰曲輪などが残っているという。城主等は未詳だが、松虫城と中根城の中間の位置にあるので、つなぎの城か、どちらかの城の出城だったかと思われる。




船戸城(印西市字船戸)

*鳥瞰図の作成に際しては『城郭と中世の東国』(千葉城郭研究会編)の左衛門尉殿の図を参考にした。

 師戸城(印旛沼公園)から、県道64号線を西に向かって進むと、道は脇の台地を次第に上がっていくが、その道の脇の民家の奥に船戸城はある。

 城の半分以上が削られてしまっているために、旧状を復元することは不可能であるが、おそらくは、一辺が50m程度の単郭方形の城であったと思われる。砦といった程度の規模であるが、「根古屋」という地名を残していることから、ある時期は多少の集落を伴っている城であったと思われる。また、城の性格は「船戸」の地名が示すごとく、印旛沼の水運を監視するためのものであったと思われる。

 1郭の堀を隔てて、城址の西側一帯にも、「郭」と呼んで差し支えなさそうな平坦地が展開している(2の部分)。明らかに人工的に削平されたと思われる部分であり、この辺りを畑を「根古屋」と呼んでいるということとあわせて、何らかの付属施設が存在していた可能性は大である。

 この地域の「張り出し部を伴った単郭の城」については、左衛門尉殿が上記の書で述べている通り、臼井原氏が街道や水運の要所に配置した番所城郭であったと見てよいのだと思う。すぐ近くには原氏の本拠の臼井城があり、その衛星的城郭ネットワークの一翼を担っていたのであろう。

 

西側の堀跡。横矢張り出しの部分を見た所である。 郭内の様子。左側が土塁。
(以前の記述)船戸城は印旛沼の水路を見下ろす比高20mほどの独立台地上にある。師戸城の700m西、岩戸城と臼井城との中間点の位置にあり、つなぎの城としての役割を担っていたものと思われる。城址は一部削られてしまっている。「城郭体系」はここを岩戸城としているが、ちがうであろう。台地上は東西に細長くなっているが、山林化しているので遺構は未確認。




松虫陣屋(印西市松虫字談議所)

*鳥瞰図の作成に際しては『城郭と中世の東国』(千葉城郭研究会編)の左衛門尉殿の図を参考にした。

 07年1月20日、久しぶりに松虫陣屋を訪れた。北総開発鉄道の成田延伸事業によって、この城址の一部が破壊されるということで、現在、発掘調査が行われている。そんなこともあって、破壊される前に見ておこうと思って再訪したというわけである。

 松虫陣屋は松虫寺の南600mほどの所にある。松虫寺の南側の台地の南端部辺りである。この台地は北東に延びているので、地形上から「北東部にある」と勘違いしてしまいがちなのだが、実際は南端である。(私も以前そう思い込んで、あちこち探し回ったが、分からなかったことがあった。)南の瀬戸方面の低地を臨む比高20mほどの台地に位置しており、印旛沼を挟んで、佐倉方面と対峙するような位置関係となる。

 松虫陣屋は台地上に深さ3mほどの堀と土塁を巡らせることによって、複数の郭を展開させたものである。ただし、後世の改変のためか、ある程度の部分が破壊されているようである。古い時代には畑として使用されていたのであろう。

 複雑に折れを見せる土塁によって区画された40m×80mほどの長方形の区画が、城の中心である。それに付属するように南端に2の部分が接して2郭構造のように見えるが、あるいは、1と2の間の土塁は途中までしか築かれなかった仕切り土塁であって、本来1と2は1つの郭であったというようにも見えなくはない。しかし、実際のところどうにも全体の形状が理解しにく、土塁の接続がどのようになっていたのかも不明である。それというのも、城の北西部分は現在、どうしようもないほどの倒木だらけになっており、堀や土塁がどのようになっているのかも把握しがたい状態になってしまっているからである。いったいどうしてここまでひどい倒木の山になってしまったものだろうか。

 1郭の東南辺りには土塁の内側に窪みがある。しかし、これは根切り溝であり、城とは関係のないものである。畑作時代に掘られたものであろう。しかし、Aの虎口の内部北側辺りは、土塁の内側に、堀といっていいほどの窪みがある。内側にも堀があるというこの構造はちょっと不思議である。井戸の跡にしては細長すぎるし、あるいは一種の土坑ででもあったろうか。

 2の北西側には2本の堀のようなものがある。これもよく分からない構造である。かつては二重堀ででもあったものだろうか。
 台地基部となる北側にはAの堀が長く延びている。この堀は単に郭の周囲を巡っているだけではなく、その両端は竪堀となって台地下の方に落ちていっている。もっともこの竪堀は、横移動阻止のためのものというよりも、通路として使用させる要素が大きかったもののようである。

 この堀のさらに北側にCの堀と土塁がある。Cは堀の深さが2m未満、幅も3m程度とかなり浅いものであるが、一見して堀の跡と見える。かなり埋まってしまったものであろう。この堀は東側では台地下まで切り通しの道となってつながっている。
 
 ざっとこれだけのものである。「松虫陣屋」という名称は『利根川図誌』から来ているものであろうが、非常に象徴的であるといえよう。というのも、この名称が示す通りに、まさに「陣城」と呼ぶのにふさわしい形状を示す城だからである。複雑な折れを持っているのは戦国後期の様相を呈しているといってもいいだろう。上杉謙信の臼井城攻撃、里見氏の香取侵攻といった混迷した時期に急遽取り立てられたものなのではなかろうか。『利根川図誌』では天正10年代の栗林義長との関連を示しているが、栗林義長の活躍談は後世作られたフィクションであるに過ぎない。
 
 ところで、松虫陣屋周辺には、土手や切り通しなどあちこちにあやしい地形を見ることができる。おそらく、松虫寺関連の付属施設などがあちこちにあったのではないかと思われるが、松虫陣屋そのものに関連するものも含まれている可能性がある。

07年、発掘中の松虫陣屋。といっても発掘されているのは、図の2の辺りだけである。 Aの虎口近くの堀。深さ3mほどで、それほど大きなものではない。
1郭北側の城塁が折れている部分を、塁上から見た所。 西側の土塁。この手前辺りは倒木がひどすぎて、何がなにやらさっぱり分からない。どうしてこうまで木が折れてしまったものだろうか。
松虫寺。この寺院の周囲の道は細いが、案内はあちこちにある。 松虫陣屋のある台地の基部辺りにある大きな土塁。高さ2mで上端幅が3mほどある。この脇の道も切り通しで、堀状である。
松虫寺のある台地の北東にある堀切のような切り通し。かなり深く、台地下まで続いている。 松虫寺の駐車場のすぐ東側にも土塁や郭らしき跡が見える。しかし、これは寺院関連の遺構であろうか。
(以前の記述)松虫城は松虫寺のすぐ南側の台地上にあった。現在は山林となってしまっているが、土塁や堀などは良く残っているようだ。藪となっているので中に立ち入ることは難しいが、写真のように空堀と見られるものも見受けられる。「概念図」によると台地の突端の方形に区画された郭が中心のようで、周囲には堀や土塁が廻り、腰曲輪や、土塁上には櫓台もあったようだ。
 栗林義長が下総に侵攻してきたときに、ここに陣を置いたという。「利根川図志」に松虫陣場として解説があるのがここのことであろう。

 松虫寺は、ひっそりとした小さな寺だが、その歴史は古く、奈良時代の行基による開基だという。重要文化財の木造薬師如来なども秘蔵されている。奈良時代、聖武天皇の娘、松虫姫が大病にかかり、占ってもらったところ、下総のこの寺の薬師如来に祈れば良いと言われ、祈願を立てて病気は回復した。それ以来姫の名にちなんで、この寺を松虫寺と呼ぶようになったということである。




吉高城(印西市吉高字掛鼻山)

 吉高城は、印旛沼に突きだした掛鼻山と呼ばれる台地の上にあった。甚平渡しから800mほど西に行った所にあったという。残念ながら、昭和50年代に土砂を取られてしまったので、現在では城址はほとんど消滅してしまったということである。城址の付近に宗像神社がある。

 『利根川図志『の巻4には「吉高大介城跡」として紹介されている。ここでは付近にある地名などを挙げているが、城主の吉高大介や城の歴史等については特に説明していないので、この人物のことも含めて、詳しいことは分からない。


 といったわけで、吉高城はすでに湮滅してしまったものと思っていたのだが、地図をよく見ると、東側の山稜は残っているように見える。そこで、ちょっと内部に入ってみることにした。

 東側の谷戸部から畑の脇を通って行くと、Bの南側の切岸がすぐに見えてきた。最初、「堀切!」と思ったのだが、堀底の南側は平坦なまま、南に続いているようである。この南側がどうなっているか気になって確認してみようと思ったのだが、ここから南側にかけては3mを越える高さの熊笹が密集していて、とてもではないが進めたものではなかった。しかし、わりと平坦な土地が続いているように見える。

 Bの部分の東側には低い土塁が見られる。Bは現状では幅6mほどになってしまっているが、本来は2郭に当たる部分であったノだと思われる。しかし、すぐ西側は無残にえぐり取られてしまっている。

 ここから北側に進んでいくと、郭は土橋状になっていく。といっても、もともと土橋であったわけはなく、西側が土橋になるほどに削られてしまっているということであろう。ここは狭いのに竹がびっしり生えている。

 見ると、全面に土手が立ちはだかって見える。Aの部分である。台地の先端近くで最高所に当たるので、ここが主郭であったものであろう。この東側には腰曲輪も造成されている。この腰曲輪はけっこう傾斜していて、腰曲輪にしては普請が甘いといった印象を受けるものであるが、腰曲輪の東側下は切岸加工されており、腰曲輪としてみてよいものである。ここからAに登ってみると、上には非常に細長いスペースしかなく、そこにテレビアンテナが立っていた。

 上記の腰曲輪の下にも、もう一段の腰曲輪がある。

 なにぶん、台地の大半が削られてしまっているので、本来の形状を把握するべくもないのだが、A、Bの形状から想像するに2段ほどの郭構造になっていた可能性が高いと思われる。

 戦後直後の航空写真も見てみたのだが、台地上は平坦な畑地となっていたようで、城郭の構造を明らかにすることはできなかった。早い時期に、耕作化で改変が進んでいたようである。だから、古い航空写真を見ても城の形状をうかがい知ることはできなかった。
 吉高城については、本当にこれが城であったかも含めて、永遠の謎となってしまった城である。今後も、全容を解明することはほとんど不可能であろう。

東側の谷戸部から見た吉高城。比高15mほどの台地である。 Bの南側の切岸状部分。笹がびっしりと生えていて、状況を把握するのは困難である。
Aの主郭と思われる部分の東下の腰曲輪。しっかりと先端部下は切岸加工されている。 Aの下からBに向かう部分は、台地が削られすぎていて土橋形状になってしまっている。




米津出羽守屋敷(印西市岩戸字市場)

 江戸末期の旗本米津出羽守の居館が印旛村岩戸にあったという。現在西部地区公園があるところの北側辺りであると言われるが、判然としない。遺構についても不明。


























大竹屋旅館