千葉県鋸南町

人骨(ひとほね)山城(鋸南町畑字人骨山)

 鋸南町の一番東端の鴨川との境界近くに「畑」という小字の土地があるが、そこに標高290mの人骨山がある。この山は国土地理院の2万5千分の1地形図にも掲載されているので、地形図を見れば場所はすぐ分かる。津森山の南側辺りである。この辺りの大字名は「大崩」となっており、崩落しやすい急峻な山が多いようだ。

 06.1.8(日)、千葉城郭研究会の松本さんに誘われてこの山を訪れた。ここにはもしかすると城があるかもしれないが、「人骨山」という名称から、ちょっと怖い場所のようなので、一緒に来てくれないかと言う依頼を受けていたのであった。そこで成田から走りに走って鋸南町までやって来たというわけである。

 この山にはいくつかの伝承がある。1つは鬼に関するもので、「かつてこの山には鬼が住み、毎年、節分の日には若い娘を生贄として要求していた。娘たちは鬼に食われてしまうのである。しかし、これ以上犠牲を増やしたくない。これを防ぐよい方法はないかと村人たちが思案していた所、どうも犬を使って鬼を倒す方法があるらしいことを知った。近江にいい犬がいるそうだ。ということで、近江からドン太郎という大きな犬を連れてきた。そして、どういう方法を使ったのか分からないが、ドン太郎は見事に鬼退治をしたという。その後もこの山には鬼に食われた娘たちの人骨が多く見られ、それで人骨山と呼ばれるようになったのである。節分の日に鬼に食われた娘たちの事を偲んで、この村ではそれ以後も節分を祝う事をしなくなったという。」里見八犬伝の伝承地から近い場所であるが、大きな犬が活躍するという話が興味深い。八房を彷彿とさせる話でもある。 

 次は姨捨山に関する伝説で、昔、この山に、働けなくなった老人を捨てていたという伝承である。とすると、人骨とはこの姨捨に関連するものであったのかもしれない。ここでは詳しく書かないが、本来、鬼とは人が転化するものであり、たとえば「今昔物語」を読むと、「人里はなれた山に住む老婆は鬼と化す」といったような事が書いてある。この話に出てくる鬼というのは、捨てられた老婆が転化したものだとすれば、この2つの話はつながるという事になる。松本さんの想像では、「もともとこの山にはお堂などがあったのではないか。その跡から骨が出たりした事などがあって、それが元となって、こういう伝承が生まれたのではないか」ということであった。いずれにせよ、興味深い伝説なのだが、本当に人骨があるとすると、確かに一人で登るのには怖い山である。

 3つ目の伝承が、今回の訪問につながってくるのだが、「房総里見誌」には次のような記事があるという。「勝山ひるまが崎、妙本寺山上の太鼓打場、中央路では、大崩の人骨山は火ともし山にて狼火をあげし所・・・・」、つまり、ここには里見氏の狼煙台があったという伝承もあるのである。そこで松本さんは「ここに未確認の城があるのではないか」と思ったというわけである。確かに目立つ山で、北側には長狭街道(県道34号線)も通っている。地取り的にも城があって不思議ではない場所である。

 県道34号線から「タルミ橋」というバス停の東側から大崩の集落に入り、八幡神社を過ぎてさらに1kmほど進んだ辺りから右手に人骨山が見えてくる。さらに進むと、道が大きな切り通しになり、津森山方面へのハイキングコースの入口がある。途中の道は狭いが、この辺りにはかろうじて車が2台ほど留められるスペースがあるので、ここに車を置いて、西側に戻り、南側下の何軒かの家がある所へいったん降りてから人骨山に向かった。この時目の前には2つの目立つ山があり、集落はその間の谷戸部分にある。この右手の方が人骨山なので、右手の方に向かうことにした。(しかし、後で分かったのだが、左側の山に沿うようにして谷戸の奥に入り込んでいく道から、人骨山までのハイキングコースが付いていたのであった。人骨山は決して人を近づけない怖い山ではなかった・・・・。われわれはそれを知らなかったので、直接人骨山に近づけるよう、右側から登る道の方に進んでいったのである。)何軒かの家の前を通って登っていくと、不意に北西側の尾根との間にAの堀切が現れた。山頂から見ればかなり下になるので、城に関連するものかどうかは不明だが、なんとなく遺構らしく見える部分である。堀切の底には道が付いているので、この道が付けられた時に生じたものである可能性もあり、はっきりとはしない。

 ここで道は途絶えてしまった。仕方がないのでここから山頂を目指して直登することに。だいたい直登比高は100mほどであったが、何しろ山は見た目よりもかなり急峻なので、とてもきつい。木や根っこにつかまりながら、ようやく登っていくのである。それでも悪戦苦闘15分ほどで、山頂に着いた。山頂は自然のままの尾根で何にもない。幅も狭く、最大で5mほどである。これでは家一軒建てることもできないであろう。イメージ的には韮山城の天ヶ岳砦に似ている。一見して「こりゃあ、城じゃないな」と思った。しかし、景色はとてもいい。周囲はみな山であるが、房総の主要な山はもちろん、太平洋と東京湾を一度に見ることができる。東京湾の先には、三浦半島、丹沢、富士山まで一望の内である。これは確かに物見や狼煙台を置くには最高の場所であるといえる。ここに狼煙台を置いておけば、外房と内房を、一度に繋ぐ連絡網が完成するのである。確かにそういう意味では狼煙台があったという話は、説得力がある。松本さんは「山頂は、狼煙をあげるだけの場所にすぎず、城の遺構はないが、地形図を見ると南側の山裾に段々の地形がありそうだ」という。確かに地形図を見るとそのように見える。山頂に登って分かったのだが、直登などしなくても南側から登る山道が付いていたのである。そこを通って降りようかと思案していたところ、急に人の声が聞こえ、たくさんの中高年の集団がふうふう言いながら山頂にやって来た。意外にもこの山はハイキングコースになっているようで、祭日のこの日、正月登山をするツアーが催されていたらしい。またたくまに山頂は3,40人のハイカーでいっぱいになった。山頂はとても狭いので、それだけで立錐の余地もないほどである。人骨山は決してさびしく、怖い山ではなかった・・・・・。われわれは山頂部分から降りて、南側の裾部に行く事にした。

 さて、そうして登る時に通ってこなかったハイキングコース沿いに降りていったのだが、確かに南側には段々の地形があった。地形図だけでそれを読み取るとは、さすが、松本さんである。地形は2郭から5郭の下の段まで、複数段になってきれいに削平されている。段の高さは2mほどである。後世、畑地として利用されている可能性もあるが、山頂に狼煙台があったとしたら、この辺りに番所を置く必要がある。この段々の郭に小屋掛けをしていたのではないだろうか。つまりこの辺りが城の主要部というわけである。この段々の郭の東側と南側には尾根となり、そこに道が付いているのだが、この道そのものが削り残しの土塁といった形状を示している。かなり未発達な観は否めないが、古い時代の安房の城であれば、こんなものであろうか。ということで「確かにここは城であると見てよいだろう」ということを松本さんと確認した。一応、城があってよかった・・・・・。何もない山で、徒労になってしまったらどうしようかと思っていたのである。4の郭が最大で、東西に30mほどの長さがある。これだけ段々の郭があれば、そこそこの人数を籠めることも可能である。といっても数十人規模であろうが。

 4,5の郭の南側の道の下の斜面はまるで竪堀のような削られ方をしているが、こちら側の斜面は非常に急峻であり、このような巨大な竪堀を掘る必要はない。これらはみな自然崩落によるものであると思われる。この道はさらに西側に続き、Bのところで再び登りになる。この場所に、虎口状の地形が一ヶ所ある。あるいは山道をつける際にできたものかもしれないが、この方向から来る道に対する関門としてはちょうどいい場所である。この道はやがて降って行って佐久間方面につながっているようであった。Bの下にはちょっと湿った平坦地が段々になっているが、どうやらこれは水田の跡のようである。比較的近年まで使用されていたのか、現在でもかなり湿っている。

 3の郭の東側を10mほど降っていった所には尾根があるのだが、この先にはCの堀切がある。これも深さ2mほどの小規模なものである。位置的にも半端であるが、この先の尾根が完全に自然地形になっている事から、城域を示す境界堀のようなものなのかもしれない。この堀切は最初に見たAの堀切と規模がまったくいっしょで、こうしてみてみると、Aの堀切も境界堀の一種であった可能性があるだろう。

 4の郭の東端から尾根道は南側に細く続いていく。この部分は上から見ると、非常に長い土橋のように見える。両側は削り落とされたような急斜面で、北側の斜面には水仙がたくさん植えられている。

 下からハイキングコースを登ってくると、図のDの所で道が突き当たり、左右に分かれている。1つは人骨山方面に行く道で、もう1つは7の郭方面に行く道である。Dの下は虎口状の切り通しになっており、この両方の向かう道はそれぞれ坂虎口のようになっている。これら全体を1つの構造物とすると、発達した虎口と見ることもできるが、後から作業用の車両を通すために道が広げられているので、これによって人工的な切り通しが生じている部分も多い。ゆえに、これをそのまま城の構造物と見ることはできない。しかし、ここは位置から考えて虎口であったと見てもよい場所であり、すべてでなくとも、いくつかは本来の虎口であったかもしれない。ここから30mほど降った所にもいかにも虎口的な地形がある。

 その時、下から、キャタピラ付の台車を押しながら登ってくる人に遭遇した。台車には30個ほどのリュックサックが積まれている。どうやら山頂の団体の人のリュックのようで、こうしてリュックだけ持って上がるというサービスまであるらしい。これなら中高年でも手ぶらで上がれるというわけである。あの狭い山頂でお弁当でも食べるのであろうか。確かに景色はいいがとにかく狭い・・・・。あの狭い山頂にこれだけの人が集まったのは、有史以来初めての事ではなかろうか。(ちょうどこの時お昼の時間であった。)

 Dの虎口から南側に上がった所にピークがあるのだが、このうち、7の部分は城内でも2番目に大きな郭であり、南北30mほどある。北西端には塚状の高まりがあり、西側にはこの塚状土塁から派生する低い土塁が続いている。北西の塚の東側下、北東のピーク部分との間にもそれぞれ浅い堀状に削った部分がある。また、この郭には虎口状の小さな切り通しもある。Dの所から7の郭方向に上がってくる道は上記の台車などが上がれるように道幅を広げているのだが、そのためか。道の途中には虎口状の切り通しになっている部分が3ヶ所ほどある。これも後世のものの可能性が高いが、虎口のように見えてしまうのである。

 どうもこの7の郭は出城のような部分であるようだ。南側からの防御を意識しているものである。南側下にも道が続いてはいたが、この道はおそらく県道88号線辺りに出るのであろう。この県道を南下していくと、宿要害、富山城、蛇喰城、里見番所などがある。してみると、南側からこの人骨山に登るルートも昔からあったのではないかと思われる。

 尾根はさらに南側から大きくU字型に回りこみ、最初に見えた、左手の山の方まで続いている。この左手に見えた山も怪しく見えたので、尾根を回りこんでそちらを通って車を置いた所に出よう、ということになり、尾根伝いに歩き始めた。しかし、この尾根はけっこう分かりにくく、知らないうちに通り越してしまって、まったく別の尾根に迷い込む事になってしまった・・・・・。降りようとしたが、途中から崖になって行きどまってしまい、結局また引き返す事に・・・。おかげで足はがくがくである。地形図を見ながら注意して歩いていたのだが、それでも尾根歩きというのは、進路を見失いやすい。木で見通しが利かない山の場合、なおさらである。

 さて、結論であるが、人骨山は確かに城であったと一応見てよいものと思われる。伝承の通り、おそらくここには里見氏の狼煙台があり、そのための郭が中腹の裾部に段々に設けられていた。狼煙台に伴う城であるから規模は小さいが、未発達ながらも虎口や堀切なども認められる。里見氏の、比較的古い時代の城であったものだろう。ただ、山頂部分には狼煙台に伴うような遺構もまったくなかった。このことをどう見るべきであろうか。

北側から見た人骨山。比高150mほどある。左側にも似たような山があるので、間違えないようにしよう。 北西側のかなり下にある堀切A。深さ2mほどの小規模なものである。しかし、位置が非常に半端な所にある。
直登で苦労して登った人骨山山頂にある三角点の標柱。山頂はとにかく狭い。だが、標高290mほどあり、周囲がよく見渡せる。 山頂からは房総の主要な山や海はもちろん、三浦半島も見渡すことができる。確かに狼煙台を置きたくなる場所だ。
山頂からハイキングコースを通って、下に降りていった。写真は2から始まる段々の郭群。 5の郭の南側は削り残しの土塁のような地形になっている。
出丸のほうに続く道はまるで長い土橋である。斜面にはたくさん水仙が植えられている。町おこしの一環であろうか。 出丸との間の下にある虎口状の部分。正面奥が人骨山方面である。
Dのところを降っていくとさらに虎口状の切り通しがあるが、これは後世の所産であろうか。 2〜5の郭群から佐久間方面に降っていく道が付いている。途中のBの部分の上の虎口状の部分。
Bの下は水田の跡が何段かになっている。 かなり降った所にあるCの堀切。やはり深さは2m程度ととても小規模である。境界堀の一種か。
この山はハイキングコースになっているが、その名称はいかにも不気味だ。こんな名前の山に、人が来たがるものであろうか。(・・って、実際、たくさんのハイカーが来ていた。) 5の出丸の南西端にある土壇。5の部分は小さいながら、土壇、虎口、土塁など、一通りのものがそろっている。まさに出丸である。
南側の尾根をさらに進んでいくと、こんな切り通しの虎口状の地形が見られる。しかし、遺構の可能性は低い。 さらに鴨川寄りの尾根をだいぶ進んだ先には、このような中規模の堀切状の地形があるが、最近この近くで植林が行われたようで、その際に造られたものかもしれない。





































大竹屋旅館