宮崎県えびの市

*参考資料 『日本城郭体系』 『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』 『えびの市の城館跡』

*参考サイト  城郭放浪記

飯野城(亀城・えびの市原田3595亀城公園))

*鳥瞰図の作成に際しては『えびの市の城館跡』を参考にした。

 飯野城は、飯野小学校の北方にそびえる比高30mほどの山稜に築かれており、現在は亀城公園となっている。ただし、公園となって整備されているのは本丸だけであり、後の部分はヤブの中にあり、少なくとも夏場の探索は容易ではない。

 川内川を渡った辺りから「亀城公園」の案内が出てくるので、それに従っていけば迷うことはない。途中で道が左手に曲がって行き、そちらが公園方向であるが、これを右手に進むと、三ノ丸背後の大堀切の間を通る林道の所まで出ることもできる。

 さて、山稜に差し掛かると公園入口の冠木門があるが、そのままさらに車で進んでいく。すると、内部のくぼ地を利用した射場があり、そこに車を停めて置くことができる。しかし、さらに進んで本丸内部まで車で進入することも可能である。

 本丸は公園化され、きれいに整備されている。1辺が100mほどの三角形の郭であり、ここに島津義弘公の碑などが建てられている。

 石垣は用いられていないが、周囲は垂直切岸に加工されており、なかなか堅固である。また、城塁の高さも20mほどはあり、これをよじ登るのは容易なことではない。

 虎口と思われるものは南側の正面にある。車道となっているため、改変されている可能性はあるが、だいたいは旧状のままであったと思われる。『えびの市の城館』の解説によると、本来の虎口は、平成5年に「亀城を守る会」がブルドーザーによって破壊してしまったという。保存会が破壊してしまっては、やっていることがまったくもって本末転倒である。

 本丸から南側下の尾根には4郭があり、その一部分が物見曲輪となっており東屋が建てられている。ここからは南側の城下集落がよく見渡せる。まさに「物見」にふさわしい場所である。かつても物見櫓のようなものが建っていたのであろうか。

 本丸周辺を見た後、車で下の射場まで戻って、今度はそこから徒歩で二ノ丸・三ノ丸を探索することにした。当初、三ノ丸の登り口が分からなくて右往左往したのだが、たまたま作業をしていた現地の方がお城好きだったようで、その後、案内してくれたのであった。ラッキーというか、本当にありがとうございました!

 二ノ丸に行くには、まずは射場の奥まで進んでいく。すると三ノ丸と二ノ丸との間の堀切部部に出るが、そこから二ノ丸に登って行く道が見えている。これを進むと小規模な枡形構造があり、これを抜けたところが二の丸である。虎口脇には大きな竪堀があるが、同じ構造は、徳満城など、この地域の城郭によく見られるもののようだ。

 二ノ丸内部はひたすらヤブの中である。本丸よりも一回り小さいということ以外ほとんどよく分からない。地図の亀城公園の印は、この二ノ丸辺りに付けられているのだが、実際はまったく整備されておらず、公園なんかじゃない! 二ノ丸の南側下方には尾根が延びており、そこが削平されている。そこも物見と呼ばれているということである。

 本丸・二ノ丸の北方にあるのが三ノ丸である。ここが城内最大の郭であり、長さは東西に200mほどもある。虎口は南側に1カ所で、その下の方にわずかに横堀状の地形がみられる。虎口もそれほど明瞭なものではないが、坂虎口になっている点は二ノ丸と共通している。三ノ丸の周囲もみな鋭く切岸加工されている。そのせいか、あちこち崩落している部分もあり、登攀するのは容易なことではない。

 このように飯野城は、さほど技巧的な城郭ではないが、曲輪取りを広く取っている辺りは、大勢力の拠点城郭としてはふさわしいものであり、近世城郭的な雰囲気もある。また、切岸加工もしっかりしており、防御性も高い。島津義弘の居城として申し分のない城郭だったといっていい。伊東氏がいつ攻めてくるかわからない状況であったため、いつでも戦闘態勢に入れる飯野城が居城として選ばれたのであろう。

南側から遠望する飯野城。比高は30mほど。亀城公園の案内板が出ている。 公園の入口には冠木門が設置されている。
本丸の虎口。後世の改変もあるらしい。 本丸内部。
本丸下の4郭と物見曲輪。 物見曲輪から見た景色。川内川が蛇行しながら流れている。
二ノ丸と三ノ丸との間の堀切。倒竹だらけである。 三ノ丸の城塁。横堀状の部分がある。
三ノ丸の内部。まったく手入れがされていない。 三ノ丸と北側の山稜の間の堀切には小川が流れている。
 飯野城の創建は古く、平安時代の永暦元年(1160)、真幸院の収納史・日下部重貞によって築かれたのに始まるという。後に、城主は北原氏に代わった。

 しかし、注目すべきなのは、永禄7年(1564)に島津忠平(義弘)が入城し、居城としたことであろう。北原氏の領地が伊東氏によって浸食され、それに対抗すべく、島津氏が進出してきたのである。島津氏は、北原氏を別の土地に転封させ、この城を拠点として宿敵伊東氏と対峙することとなる。

 実際、元亀元年(1572)6月、3000の兵を率いた伊東勢が、加久藤城を攻撃にやってくる。島津勢は小勢力ながら巧みに戦い、伊東勢を打ち破った。これが木崎原の合戦であり、九州の桶狭間とも呼ばれている。危険な戦いであったが、これに勝利したことによって、島津氏と伊東氏の力関係は逆転した。

 義弘は以後、27年間にわたって、飯野城を居城とした。

 *鳥瞰図の作成に際しては『えびの市の城館跡』を参考にした。

 長徳庵は、谷津を挟んで、飯野城とすぐ西側に向かい合う比高30mほどの台地先端部にあった。

 長徳庵とは城郭らしくない名称であるが、位置やその構造からして、城郭であることは間違いない。googlemapの航空写真を見ると、土塁が明瞭に見えている。堀ではなく土塁で構成されていることから、城ではない名称になったのであろうか。

 その由来等もまったく不明であるが、すぐ東側に飯野城があることからして、飯野城の出城の1つと見て間違いないであろう。長徳庵の北側を尾根沿いに進んでいけば、飯野城から加工藤城にアクセスすることも可能である。




















加久藤城(久藤城・えびの市小田1224)

*鳥瞰図の作成に際しては『えびの市の城館跡』を参考にした。

 加久藤城は、飯野城の5kmほど西方にある。比高50mほどの台地先端部であり、主郭には神社が祭られており、ここまで参道が付けられている。

 南側の国道221号線を走っていると、「えびの市松原」という信号の20mほど西側の道路入口に「←加久藤城跡」を示す案内表示がある。北側の道に入り込むと正面に城山が見えてくる。後は、道なりにどんどん進んでいけば城内に到達することになる。

 主郭まで車で行くことも可能ではあるのだが、途中、下の写真にもある急カーブがある。小型車でなければ、これを曲がり切ることはできないであろう。ここさえ通過できれば、主郭の神社まで車で行けるのだが、この先も運転していてドキドキするような道であった。だから車で神社まで行くことはお勧めしない。私も次に行くときには素直に下の駐車場に車を置いてから行くことにしようと思っている。途中にも遺構があり、それらを見ながら歩いていく方が、結局は効率的だったりするのである。

 参道は2郭の下の段郭の脇を通って、1郭の正面真下まで行く。その辺りに城の案内板が立てられている。そこから急坂を登り切ると、1郭である。

 1郭の入口はやや窪んだ地形となっており、枡形のように見える。といっても、さほど明瞭なものではなく、神社に伴う改変にすぎない可能性もある。

 1・2郭の周囲は切り立った崖となっており、なかなかの要害である。特に西側は実際に法面が崩落してしまっているようで、端の方がオーバーハングしている。そのため、ロープが張られているので、あまり端の方に寄らない方が無難である。

 この1・2郭の南側には腰曲輪や虎口などの地形がみられる。そこから南側にかけて数本の尾根状地形があり、それぞれ加工されているようだが、夏場であまりヤブに入れないので、lこちらは未確認である。

 2郭から堀切を隔てて東側に「中城」があり、そのさらに東側には広大な「新城」がある。ここまでが広義の加久藤城であり、新城までも含めると、城域は非常に広大である。城主の勢力の大きさを想像するにあまりある城郭であると言っていい。


南側から遠望する加久藤城。比高50mほどある。 神社へと回り込む急カーブ。ここを通過できる車ならば、主郭の神社まで行くことが可能であるが、車で行くより、途中の遺構を見ながら歩いていく方がよい。
主郭入口の枡形状地形だが、神社に伴う改変かもしれない。 主郭にある神社。
主郭西側の城塁は崩落した崖になっている。乗り出さないようにロープが張られていた。 主郭南側下の小郭にある虎口。
南側下の腰曲輪。 通路南側の巨大竪堀状地形。
 中世期に当地域を支配していたのは北原氏であり、その居城は徳満城であった。その徳満城の支城として築かれたのが、加久藤城で、当時は久藤城と呼ばれていた。

 永禄7年、伊東氏に圧迫されていた北原氏を援護するために島津忠平(義弘)がこの地域に進出してくると、北原氏から離反者が次々と出たため、北原氏を転封させることになり、久藤城も島津氏に所属することになった。その後、忠平は城を改修して、中城・新城を加え、城の規模もかなり大きくなった。「久藤城に加えた」という意味なのであろうか、城の名も加久藤城と改名されることとなった。

 義弘自身は飯野城を居城として、加久藤城には、広瀬夫人を住まわせたという。いつ伊東軍が攻め寄せてくるかもしれないという臨戦態勢の中で、なぜ夫人をわざわざ別の城に住まわせたのかが不思議である。広瀬夫人は義弘の妻のうちでもに最も愛された女性であったという。あるいは、正室とうまくいっていないので、別の城に住まわせたのであろうか。城代としては川上三河守忠智を置いたという。

 このことについてだが、wikipediaの記事によれば、これは、加久藤城を囮として伊東勢を呼び寄せ、一気に決着を付けるための義弘の策略であったという。だからあえてわずかな兵で広瀬夫人と加久藤城を守らせたのだという。もし本当ならば、自分の妻を囮とする非情の作戦ということになる。

 ところが、それに伊東勢が引っかかってしまったのが木崎原の合戦である。元亀元年(1572)6月、3000の兵を率いた伊東祐安は加久藤城の鑰掛(かぎかけ)口に攻めかける。わずかな城兵はこれに果敢に抵抗する。それに対してわずか300の兵しか持たない義弘は、この兵を各所に展開させて伏兵として埋伏させた。

 初戦で敗退した伊東勢はこの日のあまりの暑さに池尻川で水浴びをして休憩していた。そこに島津勢が襲い掛かり大激戦となった。結局、伊東勢は、士分の者の多くを失って敗退。これが伊東氏衰退の原因となって行く。

 島津勢も兵力の8割が討ち死にするという大激戦であった。少数の兵で大軍を打ち破ったことから、この戦いは九州の桶狭間とも言われている。




 

徳満(とくみつ)城(えびの市東川北371)

*鳥瞰図の作成に際しては『えびの市の城館跡』を参考にした。

 「徳満(とくみつ)」といえば、日本テレビのアナウンサーの徳光さんを思い出してしまうのであるが、先祖がこの城と何らかの関係があったのであろうか。

 徳満城は、九州自動車道えびのICの北西2kmほどのところにある。川内川に臨む比高20mほどの台地である。県道102号線を西側に向かって走って行くと、川を渡ってすぐのところに城址碑と案内板が設置されているのが見えてくる。その背後が城址である。

 この県道部分はかつての堀切を利用したものであるという。もともと城のある部分は、県道の北側の部分と台地続きであったが、城を築城する際に掘り切ったのだと言われる。その跡を利用して県道が通っているというわけである。これを掘り切るのはそうとうの難工事であったことだろう。

 本丸への入口は、城址碑の先を200m近く進んだところにある。左手の山中に分け入っていく道が見えてくるので、これを進んでいく。入口がちょっとヤブになっているが、進んでいくと堀底通であることが分かる。中之城と高城との間の部分である。

 それを進んでいった先に本丸への登り口が見えてくる。それを上がると坂虎口となっており、脇に竪堀が入れられている。これと同じ構造は飯野城でも見ることができた。

 しかし、この城はまったく整備されておらず、本丸すらもただのヤブ状態である。それでも中央部は何とか歩くことができるが、それ以外の部分は夏場ではちょっと厳しい。それでも東側に進んでいくと、虎口跡かと思われる竪堀状に大きくくぼんだ所に出てきた。中之城との間は高さ1m未満の低い段差によって区画されているだけであるが、この段差には部分的に石垣が積まれている。案内板の説明によると、江戸時代の正徳年間、城の石垣を遣って川内川の堤防を築いたというから、本来はもっとふんだんに石垣が使われていた可能性がある。

 本丸の西側には高城がある。もともと谷津部分があったのであろうか。堀の幅はかなり広く、その広くなったところに山道が付けられていて郭内に進むようになっている。郭に進入する部分は、左右に分かれるような構造となっている。しかし、それほどしっかりとした造りではない。

 高城も郭内はヤブであり、内部把握は容易ではないが、本丸よりはかなり小さな郭のようである。

 本丸と大堀切を隔てて東側に小城がある。堀幅は20mほどもあり、とても人工的に掘り切ったものとは思われない。堀底はもともとは傾斜した地形であったようだ、何段かに加工されている。

 小城の虎口は西側にあるが、その脇には部分的に石垣が見られる。また、この郭には土塁も見られ、独特の区画が見られる。小城の東側の城塁jはもともと垂直切岸だったのであろうが、現在では崩落した崖状態となっている。高さは10m未満であるが、これをよじ登ることはまず不可能であろう。守りの堅い郭である。しかし、小城も全体にヤブだらけであり、内部を探索するのは容易ではない。

 この3つの郭が、徳満城の主要な郭である。この他、周辺にも郭と思われる平場は展開しているが、主要部は上記の3つといっていい。それぞれ急峻な切岸に守られており、防御力は高いが、それぞれが完全に独立した郭となってしまっているので、郭同士の連携がよいとは思われない。このような独立郭を並列する群郭式城郭は島津氏の支配地域に多く見られるが、1つの郭が攻め取られてしまった時に支援がしにくい構造のように思われてしまう。

東側から遠望する徳満城。比高20mほどの低い台地である。 北東角の道路脇に城址碑と案内板が建てられている。
高城と中之城との間の通路を入って行く。両側は鋭い切岸である。 1郭内部。中之城との間は低い段差だけで区画されている。
本丸東側の虎口。 中之城との間の段差に見られる野面の石垣。
高城の城塁。 小城の城塁。本丸との間の堀切は幅20mほどもある。
小城の石垣。 小城東側の城塁。高さは7mほどだが、とても登れない。
 徳満城は、中世以降、当地域の支配者であった北原氏の居城であった。永禄年間、北原氏は伊東氏に圧迫され、家臣も四分五裂状態となっていた。そこで、島津氏が進出し、伊東氏の勢力を追うと共に、北原氏を転封させ、当地域を拠点として伊東氏と対抗することとなった。

 永禄7年以降の徳満城は、島津氏の飯野城・加久藤城の支城となった。




森岡城(えびの市)

 森岡城は、国道221号線が川内川を東側に渡ってすぐのところにある。

 森岡城は、いわゆる城ではなく、あやしいお城のジャンルに属するものである。この城については何の予備知識もなく、たまたま加工藤城から飯野城に向かう途中に発見したものである。駐車場があったので、車を停めて写真を撮る。

 見るからにあやしい物件で個人のもののようだったので、外観だけ撮って去ろうと思ったのだが、作業をしている方に由来を伺った所、「入場料を払えば中に入れる」ということであった。どうやら一般公開をしているらしい。

 そんなわけで、大手門のところで入場料500円を払って中を探索してみた。

 森岡城は、地元で会社を経営している森岡氏が、30年間かけて少しずつ建設をしてきた城であるという。個人で城を建てるというのは一種の男の夢であり、私も子供のころは、お金をためて城を建ててみたいと思っていたのであった。それを具現化しているのである。これはすごい。

 しかも、単に天守閣を建てて満足するというのではなく、ここの城主は「縄張り」というものを意識しているようで、構造の上からも城と呼ぶのにふさわしいものである。中門を入った先には小規模ながら枡形が形成されている。

 建物の外観だけではなく、内部に入ることも可能である。内部には書院が再現されていたりして、そういう意味でもよくできている。また、庭園内には、各地から集められた銘木があったり、滝や水車が設置されていたりと、散策していてなかなか楽しいお城である。

 そして、何よりも、建築群の見事さに圧倒される。模擬建造物は嫌いという人も、けっこう満足できるのではないかと思ってしまう。これだけ見事な城郭建造物は、少なくとも宮崎県内には他に存在していない。いったいどのくらいの費用がかかったのか分からないが、今後は天守閣も建築予定のようで、そのころにまた訪れてみたいと思ったのであった。






森岡城の前面。こんな立派なあやしい城は見たことがない!
大手枡形に架かる橋は二重橋であろうか。
南西の三重櫓。ただし、内部は二重である。これが天守かと思ったのだが、天守は別に建設する予定らしい。
入口の大手門。ここで入城料500円を払って中に入る。 城内にある櫓。
二重櫓を見たところ。どう見ても城郭的光景である。宮崎県の城郭の中では、リアルなものも含めて、もっとも立派な建造物が建つ城郭であるといっていい。 城門。ちゃんと枡形になっている辺り、城主がよほどのマニアであることが分かる。
城内を流れる川には水車が設置されている。 城内の建物は、内部に入ることも可能である。































大竹屋旅館