宮崎県宮崎市

*参考資料 『日本城郭体系』 『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』 

*参考サイト  城郭放浪記

日知屋城(日向市日知屋1)

*鳥瞰図の作成に際しては『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』を参考にした。

 日知屋城は、伊勢ケ浜に臨む比高30mほどの断崖の岬の上に築かれている。大嶽神社のすぐ東側である。狭隘な断崖上に築かれた海城ということで、遺構についてはまったく期待していなかったのだが、実際にはそこそこの平場があり、土塁や石垣、虎口などもしっかりと残っており、それなりに見どころのある城郭であったのにびっくりである。

 岬の入口には城址碑が建てられており、その先が駐車場になっていて、そこに車を停める・・・のはいいのだが、この駐車場、猫がたくさん遊んでいる。それも警戒心がないのか、あまり逃げていかない。うっかり運転していると猫を踏んでしまいそうになるので、注意が必要である。城内を散策して車に戻った時も、車の下で昼寝をしている猫がいたりして、追い出すのが大変であった。

 城内には散策路が付けられており、散歩している方が何人もいた。景色を見ながら散策するのにはなかなかよい場所である。この城を歩いていると、どこにいても波が寄せて返す音が聞こえている。海のそばなんだなあ、ということを実感する状況である。それに北側の砂浜、南側の断崖など、見どころのある景色が満載である。

 岬の上はもともと狭隘な地形だったのだと思うが、それでも斜面を削平して、そこそこの曲輪面積を造成している。これだけあれば、まずまずの人数を籠めて置くことが可能であろう。

 ただし、山上部分は非常に狭く、岩もゴロゴロしている。山頂部分は単なる物見としての機能しかなく、居住空間は下の方の平場を利用していたのだと思う。

 北東側の進入路から進むとAの虎口の所に出る。ここに門があったのであろう。そこを入ると土塁をめぐらせた平場があるが、土塁の裏側に石垣が積まれているのが特徴的である。ここに限らず、この城内には各所に石垣が見られる。岩場なので、石材の調達には苦労しなかったのであろう。

 そこから上がって行くとBの枡形状空間があり、さらに石段を登っていった所が山頂部である。山頂部にはたいした平場がなく、そこから東側に降りて行った場所に平場が何段もあることからすると、山頂部分そのものが城壁的な構造物として意識されていたようである。

 平場の先端部分にCの区画がある。ここにはしっかりとした土塁や石垣が廻らされており、まとまった広さもある。実質上の主郭はこの場所であったかもしれない。

 海岸部には岩場の間の浸食部分がある。この辺りが船着き場として利用されていた可能性があると思う。

 日知屋城は、それほど大規模な城郭ではないが、三方を海に囲まれており、断崖もあることから、かなり攻めにくい要害であったというべき城である。

南側から遠望する日知屋城。断崖に囲まれた岬の上にある。 入口にある城址碑。
城内入口の模擬城門。入った所が枡形的空間となっている。 城その枡形的空間を囲む土塁には石積みがある。
登城道脇にある墓地。古い五輪塔がたくさん並んでいる。 Aの虎口に向かうところの冠木門。
Aの虎口跡。 虎口内部の土塁の内側には石垣が積まれている。
1郭の辺り。スペースはほとんどなく、岩がゴロゴロしている。ここは物見程度の場所であったと思う。 風除け土塁の側面部の石垣。
先端近くから1郭下あたりの岩盤を見たところ。 Cの郭の周囲には土塁が廻らされている。
中にはこのような切石の石垣もある。 北側は砂浜となっている。
 日知屋城は、伊東氏48城の1つであったという。城主は伊東祐堯の子祐邑であった。後には、福本新十郎・氏本駿河守らが城主となったという。

 天正15年の秀吉による九州征伐の後には、延岡城に属する城郭の1つとなった。




西城(日向市東郷町山陰丙1571-1)

 西城は、耳川に臨む比高40mの断崖上に築かれていた。耳川! 耳川と言えばあの有名な耳川の合戦の耳川であろう。合戦が行われたのがこの近くであったとは思われないが、耳川と聞いただけで、思わず興奮してしまうのであった(後で、実際に合戦が行われたのは耳川ではなく、高城であることを知った)。

 西城というからには、東側に本城というべき城があったということになるはずだが、西城は米良氏の居城であった山陰城の西の出城であったということである。山陰城の方は今回は訪れていないが、西城の北2kmほどのところにあったようである。

 西城に訪れるには、東郷中学校の所を右に曲がって行く。そのまま少し進んでいくと、さらに右手に上がって行く分岐点があり、そこに「西城公園 百姓一揆の碑」という案内が出ている。そこを進んでいったところの駐車場に車を停めると、すぐ正面に城址公園が見えてくる。

 城は大きくわけて1郭と2郭との2郭構造であり、わりと小規模である。そのためか、全体が公園化されているのがうれしい。駐車場から百姓一揆の碑の脇を進んでいくと、すぐに堀切が見えてくる。深さ6m、幅10mほどの堀切である。ここに橋が架けられているので、簡単に向こう岸に渡ることができる。

 そこから1郭の前面の城塁をジグザグに登って行くと、1郭の内部に進入することができる。その途中には2段の小郭が配置されている。

 1郭は、長軸40mほどの楕円形であり、あまり広くない。南側の下にも小郭が造成されていた。

 2郭は、1郭の下から東南方向に80mほど延びた尾根上に造成されている。先端近くに東屋が置かれ、先端下にはやはり小郭が造成されている。

 この2つだけの城郭であり、ささやかなお城であるが、全体が公園化されているので、とても歩きやすいお城である。何しろヤブがないっているのがお勧めできる最大のポイントである。世の中には城址公園と銘打っていながら、ヤブに埋もれるままのものもけっこうある。

 振り返って駐車場の方を見てみると、百姓一揆の碑のある辺りも、郭に見えてしまうのであるが、現在、堀切などの区画が見られないので、本当に城域内であるのかどうか、確信は持てないのであった。





西城公園入口の案内板。 駐車場から、城址公園方向を見たところ。
城址公園との間の堀切。 堀切に架かる橋。
1郭入り口。 1郭内部。正面の山も、何か由来がありそうな山である。
1郭から2郭を見降ろしたところ。 1郭から駐車場方向を見たところ。こう見ると、あちらも郭のように見える。
 西城は、米良氏の居城であった山陰城の西の支城であった。城主は米良喜納の一族で、米良宮内正であったという。この人物は山麓にある成願寺を建立した人物でもある。

 山陰城は伊東48城の1つであり、米良氏も伊東氏の有力な家臣であった。
 
 天正5年、島津氏によって伊東氏が日向から敗走すると、西城にも、島津氏の家臣が入部したと思われる。 





































大竹屋旅館