宮崎県宮崎市

*参考資料 『日本城郭体系』 『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』 

*参考サイト  城郭放浪記

門川城(門川町門川尾末5980-2)

*鳥瞰図の作成に際しては現地案内板の図を参考にした。

 門川城は、尾末の八坂神社の北東100mほどの所にある。比高20mほどの独立台地である。

 県道388号線を走っていると、道路脇に「門川城入口」の標柱が見えてくるので、ここから路地に入って行く。この時点ではどこが城址なのかよく分からない。城の東側には広大な山稜があるので、そちらかと思ってしまうのである。しかし、実際の城址は西側の小さな台地の方であるが、その方向に台地があることも道路からはよく見えない。

 県道の入口標柱の所からどんどん進んでいくと、この位置に案内板が立てられており、城内入口の目印となっている。ところが、この案内板、南側からだと見えにくい角度に設置されており、しかも周囲には草が繁茂している。だから、気づかないでずっと先まで進んでしまった。「おかしいぞ」と思って引き返してきてやっと、この位置に案内板があるのに気が付いたのであった。

 困ってしまうのは駐車場がないことである。仕方がないのでテキトーに離れたところの路肩に停めさせていただいたのだが、周辺の道はけっこう狭いので、脇に寄せるのも大変である。

 先の案内板の所から城内に向かって道が付いている。ところが、これまたヤブになっているため、道になっているのかどうか不安になってしまうような入口である。それでも進んでいけば、そこが道であることが分かってくる。

 進んでいくとすぐに、二ノ丸下の堀の所に出た。この堀は見事な遺構であり、規模も大きい。ただし、内部には木が生えていたりするので、写真では明瞭に映らない。堀底は畑になっていたりして浅くなっているようだが、本来はもっと深かったものと思われる。この堀の東側が三ノ丸である。

 東南角の土橋を通る。すると城塁の斜面に道が付けられており、これを登って行く。ただし、この道も夏場ではけっこうなヤブである。

 それを登った所が二の丸。二ノ丸は2段構成となっている。こちらは杉林となっているため、比較的ヤブは少ない。城内で唯一まともに歩ける郭である。

 二ノ丸から隅の尾根状の細い部分を上がって行くと、そこが本丸となる。ところが本丸もヤブに支配されてしまっていて、形状はなんだかよく分からないのであった。冬場になったとしても収まりそうのないヤブである。

 台地にはかなりの数の腰曲輪が造成され、一部には竪堀や虎口などもあるようだが、とにかくヤブがひどくて、内部をまともに探索できない。鳥瞰図は、現地案内板に頼ったものであるが、本当にこの通りであるのかどうか、とても心もとない。


 門川城はコンパクトにまとまった城郭で、その構造も分かりやすい。もっとも、それはヤブがなければ、の話である。夏場とはいえ、もう少しヤブが少なかったら、まともに遺構を見ることができたのになあ、と思うと何とも残念な城郭である。


門川城の入口。こちら側からでは分かりにくいが、左手のヤブの中に案内板が立てられている。 二ノ丸下の堀に架かる土橋。
土橋から堀の北側を見たところ。 二ノ丸から下の堀と三ノ丸とを見降ろしたところ。
二ノ丸内部。 本丸内部。ヤブしかない・・・・。
下の土橋から西側の堀と城塁を見たところ。
 門川城は、中世に日向国の支配者であった伊東氏の家臣である米良氏の居城であった。

 天正6年(1577)、島津氏と、伊東氏の救援依頼を受けた大友氏とは高城で戦い、この戦いで敗れた大友氏は日向から撤退する(高城の合戦・・・世間一般でいう耳川の合戦である)。

 門川城主米良四郎右衛門はこの戦いで討ち死にしてしまい、門川城も島津氏に接収された。その後の城主は、門川神社所蔵若宮神社再興棟札によると「藤原祐盛」であったという。

 天正15年の秀吉による九州征伐により、島津氏は撤退、この地域は延岡領となり、高橋元種の支配下に置かれた。その後、門川城に誰が入部したのかは未詳だが、後、一国一城令によって廃城となったと考えられる。









































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