宮崎県木城町

*参考資料 『日本城郭体系』 『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』 

*参考サイト  城郭放浪記

高城(木城町高城1292-4)

*鳥瞰図の作成に際しては現地案内板の図を参考にした。

 高城は小丸川と切原川に囲まれた比高30mほどの台地先端部分に築かれていた。地図などにもだいたい掲載されているので、場所に迷うことはないだろう。高速だと、南九州自動車道高鍋ICから3kmほどの距離である。

 城の登り口は西側の台地基部の方にある。そこで南側山麓を走っていると、南側の斜面の木が切られていて、竪堀をくっきりと見ることができた。木が切られているのはありがたいのだが、南側斜面なので、この後、こまめに草刈りをしていかなければ、いずれは、どうしようもないヤブになってしまいそうである。

 西側の部分から台地上に上がって行く。するとすぐ道路脇に「第7空堀」といった標柱が見えてきた。その脇はただのヤブである。ではあるが、内部を覗き込んでみると確かに堀があった。ただし、ヤブの中であるが・・・。

 このように、高城では「第1空堀」から「第7空堀」まで、すべてに標柱に拠る案内が設置されている。ただし、第6空堀だけは、現在はすっかり埋められてしまっているために、痕跡も見られなくなってしまっている。

 城の方向に進んでいくと、途中の道が細く土橋状になっている。その先が再び膨らんで主郭となっているのである。こんなに城郭おあつらえ向きの地形が存在していたというのも、考えても見ると不思議な話である。

 城址には駐車場が設置された関係で、車を通すための切り通しが付けられている。これが一見、枡形状に見えているのだが、どこまで旧状を活かしているのかは不明である。駐車場のある部分と1郭との間には第1空堀があり、台地上は2つに分けられている。第1空堀は、北半分は埋められてしまっており、南側もだいぶ加工されているが、現存する部分からでも、非常に大規模な堀切であったことが理解できる。

 先端部分の1が主郭で、規模は70m×50mほどである。目立つことに南側の端付近に模擬天守風の展望台が置かれている。華灯窓をあしらった展望台で、その姿は犬山城の最上層そのまんまである。犬山城の生首がそのまま置かれているような塩梅といっていい。この展望台、デザインは悪くないのだが、せめてもう1層高くしてくれるとよかった。というのもせっかく展望台を造ったというのに、この高さでは、山下からはほとんど見えないのである。もう少し丈のある模擬天守であったなら、城下からでも、孫うことなく城として認識されたことであろう。何かのページで、城址には「メロディ時計台がある」と書いてあったのだが、これがそうなのだろうか。

 1郭の周辺部下には何段かの腰曲輪が造成されている。まとめてみると、これだけの規模であり、著名な城であるわりには、実際の城域そのものはそれほど広くはないのであった。

 話は変わるが、この地域の城には、城の郭名として、「高城」という郭を有する城がいくつもある。そのせいか、高城そのものが城名となっているものも多く、『城郭体系』の索引に載っているだけで4つの高城があった。

南側の斜面の木が切られていたため、竪堀がよく見えた。これは第3・4空堀から続くやつである。 一番西側にある第7空堀。ヤブでよく分からない。
主郭までは細い尾根道が続き、途中に何本もの堀切がある。 第5空堀。形状がはっきりしている。
第3空堀。下から見えたやつである。 主郭部に入って第1空堀。加工されてはいるが、大規模なのがよく分かる。
1郭にあった模擬天守風の展望台。 1郭南側下の帯曲輪。
 高城の歴史は古く、南北朝時代に島津時久によって築かれたのに始まるという。時久は九州に落ちてきた足利尊氏に従って戦い、新納軍を拝領し、後に新納氏を名乗るに至った。

 しかし、長禄元年(1457)、新納氏が伊東氏と戦って敗れると、高城は伊東氏に属す城となり、野村蔵人佐が城主となって、伊東48城の1つと呼ばれるようになる。

 この城は2度にわたって大きな合戦の舞台となった。

 1度目は天正6年(1578)のこと。前年に、島津氏の攻勢に耐え切れず、豊後大友氏を頼って敗亡した伊東氏が、大友氏の支援を受け、連合軍5万で、高城に攻め寄せてきた。この時の高城城主は、島津家臣の山田有信であった。大軍の攻勢に山田氏はよく耐え、やがて、島津の援軍と共に、大友軍を打ち破った。これが「高城川の合戦」である。

 この戦いは、一般的には「耳川の戦い」と呼ばれている。しかし、これは敗れた大友軍が、退却中に雨で増水した耳川で多く溺死したためで、耳川そのもので合戦があったわけではない。「高城川の合戦」という呼称の方が正しそうである。

 2度目は天正15年(1587)、秀吉の九州攻めの際のことである。この時、羽柴秀長率いる15万の大軍勢が高城を囲んだが、山田有信はよく防ぎ、とうとう落城しなかったという。

 このように、高城は2度も歴史の大舞台に立った城郭なのであった。









































大竹屋旅館