宮崎県小林市

*参考資料 『日本城郭体系』 『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』 

*参考サイト  城郭放浪記

小林城(小林市真方803-5城山公園)

 小林城は、石氷川が蛇行する地点に屹立する比高30mほどの独立台地に築かれており、現在城山公園となっている。

 最初、公園入口がどこか分からなかったので、東側方向から接近して、ぐるりと一周してしまったのだが、入り口は西側方向であった。国道265号線の「大手橋」という信号の近くに「小林城跡」という標柱が立てられており、城址方向へ道が付けられている。

 この坂道をまっすぐ進んでいくと、道は行き止まりになってしまう。道なりに右に曲がった所が広場のようになっており、その手前に案内板が設置されている。ということで、この広場に車を止めようと思ったのだが、ロープが張られていて、車を入れることができなかった。ということで、車を停める場所がないので、邪魔にならなさそうな路肩にでも置かせてもらうしかない。

 案内板の脇から山上に登っていく道がつけられている。これを進んでいくと、道がまっすぐに上がる部分と、左手に回りこむ部分とに分岐する。このまま右手を上がっていけば、切り通し状の虎口を経由してすぐに1郭に進入できる。

 しかし、「←空堀」という表示があったので、とりあえず左手に進んでみることにした。わざわざ「空堀」という表示があったので、よほどの空堀なのだろうと思い、まずそちらを確認してみようと思ったのである。もっとも実際にはそれほどたいした空堀などないだろうと思っていた。

 左手の道を進んでいくと道は下がって、次に上がり始める。その辺りに両側に土塁を配置している構造があり、そこに「大手門」という表示があった。ということは、こちらから回り込んでいった先に、上に登っていくルートがあるのだろう、ということで先に進んでいく。

 大手門から先は幅広で腰曲輪状の3郭が長く延びていた。その北側の城塁部分は竹が密集しているのだが、覗き込んでみてびっくり! その先の4郭との間に、深さ10m、幅20mはありそうな空堀があった。なるほど、これだけの堀ならば、わざわざ案内板を設置したくなるわけだ。ところが残念なことに、空堀の斜面には竹が密集しすぎていて、写真ではまったくうまく映らなかった。

 3の腰曲輪をまっすぐ進んでいく。3郭はすそ部分を廻るようにして東側の奥の方までずっと続いていた。南端の行き当たりの所に、尾根状の土塁が付けられており、これを登ると2段の小郭があり、1郭に上がるようになっていた。

 その上が1郭である。広さは長軸60mほどの台形のエリアである。公園ということであるが、特に何もない。ただ、草木は刈られているので歩きやすくなっているのはありがたい。公園なのに人っ子一人来ていなかった。

 小林城はこれだけの城である。さほど技巧的なところはないし、構造も単純なものであるが、周囲に川が廻っていることと、独立台地の周囲を削りたてて切岸を形成していることから、相応に防御力を発揮することのできる城郭であったということができる。実際に島津義弘の攻勢を退けたという歴史を持っている城である。

小林城入口。城山公園となっているが、駐車場はない。 2郭下の大手門跡。この先の3郭を進んでいくと、大堀切が見えてくる。
4郭との間の
3郭。腰曲輪状でかなり広い。 南端から1郭に登る虎口。2段のテラス状の郭が続く。
1郭内部。 1郭の虎口。
 小林城は、永禄9年(1566)に伊東義祐によって築かれたものであるという。現在のえびの市地域の掌握を狙っていた義祐は、ここに橋頭堡を築くことによって、島津義弘のいる飯野城を虎視眈々と伺っていた。飯野城までは直線距離で10kmほどの位置である。

 そのことを察知した島津義弘は、同年10月26日、軍勢を率いて飯野城を出撃、小林城を叩き潰すべき攻勢を仕掛けた。しかし、城兵の守りは堅く、戦いは激戦となった。案内板によると「城の濠は死体で埋まり、200頭もの牛馬が焼き殺された」とある。空堀が死体で埋まるとあるが、多分に誇張的な表現であり、あの広大な空堀を死体で埋めることは不可能であろう。

 牛馬200頭というのもよく分からない。馬だとしたら、山麓近くにあった馬小屋が襲撃され、馬も殺されたということなのであろうが、牛は何のためにいたのであろうか。

 いずれにせよ、激戦の末に島津義弘は撤退せざるを得なかったのであるから、この程度の城でも、守りようによっては、十分に大軍の攻撃に耐えられるということである。

 天正5年(1577)、島津氏によって伊東氏が日向から追い出されると、小林城も島津氏に接収されることとなった。









































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