宮崎県串間市

*参考資料 『日本城郭体系』 『16世紀末全国城郭縄張図集成』

櫛間城(串間市西方2960)

 櫛間城は、福島川に臨む比高15mほどの台地先端部を利用して築かれている。現在は、工業団地になってしまっており、遺構の多くは失われてしまっているということで、『16世紀末全国城郭縄張図集成』に掲載されている図面を基にして復元図を作成してみた。

 宮崎や鹿児島に多い群郭式城郭の一種のようであるが、城域の広大さと郭数の多さが印象的で、ぜひとも訪れてみたくなってくる。そんなわけで、宮崎の城めぐりを計画した際に、櫛間城の訪問も計画に入れていた。

 ところが、串間市は宮崎の中でも中心部からかなり離れたい地にあり(どちらかというと鹿児島の志布志辺りからアクセスするのが近そうである)、その日、宮崎の他の城館めぐりに思ったよりも時間がかかってしまったということもあって、串間まで行く時間がなくなってしまった。

 遺構の大部分が破壊されてしまっているのなら、無理していくこともないかなと思って、その時は訪問をあきらめてしまった。しかし、心残りがあったため、参考までに復元鳥瞰図を描いてみたというわけである。

 「遺構の大部分は破壊されている」と思っていたのだが、現在の航空写真を見てみると、北方の4つの郭くらいは温存されているように見える。なんとなく堀のラインを見ることもできる。次に訪れる機会があったら、ぜひとも探索してみたい所である。

 1970年代の航空写真を見てみると、右の復元図の通りの形状を監守することができるので、少なくとも1970年代までは遺構のほとんどは温存されていたようである。これだけの城郭なのに、保存の手が打たれずに工業団地になってしまったのはなんとも惜しまれる。



 櫛間城は南北朝時代の建武2年に野辺氏によって築かれたと言うから、ずいぶん古い城郭である。もちろん、そのころはまだ現在のような規模の城郭ではなかったであろう。

 戦国期になると伊作氏の居城となる。伊作氏は島津氏と抗争した挙句、結局は敗れて、櫛間城は島津氏の支配下に置かれることとなった。

 秀吉の九州征伐の後、櫛間jは、高鍋3万石の秋月氏の領域となり、飛び地支配を行った。その頃の串間城は代官所の機能を有していたのであろう。後に一国一城令が施行されると、櫛間城は海上となったと思われる。































































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