宮崎県都城市

*参考資料 『日本城郭体系』 『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』 

*参考サイト  城郭放浪記

安永城(鶴羽城・都城市庄内町12730-1)

*鳥瞰図の作成に際しては『都城市の中世城館跡』を参考にした。

 安永城は、庄内小学校の北西側にそびえている比高30mの台地に築かれていた。山麓近くに南州神社が祭られている台地である。本丸は公園化されており、登り口も何ヵ所かある。北側から回り込めば車で上がって行くことも可能であるが、比高30mほどであるから、どこから登ったとしてもすぐである。

 本丸は長軸100mほどの多角形状の郭である。北西側に2本の山稜が延びており、その両方が加工されて郭となっているが、その内部の窪んだ地形も加工されている。北西側からこの内部に進入する通路もあり、進入路を両サイドの上から攻撃できるようになっている。あるいはこれが大手道であったかもしれない。

 現在の車道も虎口のように見えるのであるが、現在の通路の土手の北西側にも切り通しがある。こちら方面のルートは、車道の外側のこの部分が本来のルートであったのかもしれない。


 本丸と堀切を挟んで北東側にあるのが二ノ丸である。こちらは、かなり規模広大な郭であり、現在は一面の畑となっている。入口は本丸の東側辺りにあり、こちらも車で郭内部まで上がって行くことが可能である。ただし、台地上に来ても、それらしい遺構は特に見ることができない。虎口は切り通し状になっているが、旧状がどの程度改変されているのかは明らかではない。

 二ノ丸の南側は削られた崖になっているが、これは本来の切岸ではなく、本当に近代になって削られてしまったもののようである。削られて面積が確保された内部が牛小屋になっていて、関係者以外立ち入り禁止となっている。牛が退屈そうにあくびをしていた。

 本丸と二ノ丸との間の堀切は、現状では幅20m以上もあり、非常に規模が大きい。大規模なのはいいのだが、これでは本丸と二ノ丸とで連携ができていたのがかどうか疑問である。この地域には、このように群郭式とでもいうべき形式の城郭がいくつもあるが、各曲輪ごとの連携がどうなっていたのか、いつも気になるところである。あるいは吊り橋でも架ければ、連携できるかもしれないのだが。


 この2つの郭が城の主要な部分で、それだけでかなりの規模であるが、それ以外にも、「金石」「取添」という2つの出城のようなものがある。

 このうち取添は、二ノ丸の北西側の台地の先端部を削り取ることによって成立した一角である。台地基部との間に深い堀切を入れ、傾斜した地形を数段に削平することによってコンパクトな城郭を成立させてたものである。しかし、全体がかなりのヤブであり、夏場では内部探索は厳しい。台地基部部分から接近する敵の最初の関門となる部分であり、前面防御要塞とでもいうべき一角である。

 そのさらに東南側の独立した小台地を加工したのが金石である。北東の台地側とはかなり離れているので、もともと独立台地であったように見えるのであるが、もしかしたら大工事によって、北側から大胆に切り離しているのかもしれない。だとしたら、そうとうな難工事であったものだろう。

 もっとも、金石の部分は台地こと完全に削り取られてしまったようで、現在は平坦になり、そこにソーラー発電機がたくさん設置されている。梅北城もそうであるが、近年は、ソーラーパネルの設置によって破壊されてしまうという城址もけっこうあるようだ。バブルの時代には宅地開発で破壊されてしまう城址が多かったが、時代の変遷とともに、ソーラーパネルが城址破壊の天敵となってしまったかのようだ。


 ここまでが、安永城の遺構であるが、実は城郭遺構と思われるものは、このさらに北側にもある。城に続く広大な台地がネック部で細くなっているこの位置である。『えびの市の城館』の図を見ると、ここにかつては堀切が存在していたようであり、同書では「外堀」としている。ただし、現状ではどこまで遺構かよく分からなくなってしまっている。

 しかし、ここから南側までを城域とすると、城域があまりにも広大になりすぎる。これは茨城の稲敷や鹿行によく見られる「大堀」「新堀」と同様に、街道閉塞を意図するものと見てよいと思う。






南側から遠望した安永城。比高30mほどの急峻な台地である。 二ノ丸への登り口。
二ノ丸内部。広大な畑となっている。西側の城塁は削られて、牛牧場となっていた。 本丸進入部。この左側の外側に、もう1本の切り通しがある。
本丸西側の郭。細長い郭が2本西側に延び、中央部の窪んだ部分も細長郭となっている。 本丸入り口脇の土塁。上の写真を拡大したところである。
取添北側の堀切。ヤブになっているが、しっかり残っている。 かなり北側の外堀跡らしき部分。
 安永城の創建は不明であるが、一説によると応永2年(1468)に本郷敏久によって築かれたという。本郷氏は後に島津氏に属することになる。

 以後も本郷氏の拠点となり、本郷氏の本拠が都城に移った後も、本郷氏の一族によってしっかりと守られていた。

 文禄年間には島津氏内の所領替えがあり、本郷氏は祁答院に転封となり、代わって当地には伊集院氏が来て、伊集院氏の居城となった。

 慶長4年(1599)、伊集院忠棟が、島津忠恒によって殺害されると、伊集院氏の残党は安永城に拠って抵抗したが、やがて島津氏によって鎮圧された。その後は再び本郷氏の居城となったという。




梅北城(都城市梅北町1758-4)

*鳥瞰図の作成に際しては『都城市の中世城館跡』を参考にした。

 梅北城は、梅北運動公園のすぐ南西側にあった。西側の川に臨む比高10mほどの台地先端部分である。比較的近年までは遺構をよく残していたようであるが、ソーラーパネルが設置されたことで、北側の堀はすっかり埋められてしまったようである。

 城は全部で4つの城(郭)によって構成されていたという。

1 新城 
 梅北城で最も主要な郭というべきものは新城の部分であり、150m×100mほどの方形の区画であった。新城の名称の通り、城の完成段階ではもっとも中心となった区画であると思われる。現地案内板や『都城市の中世城館』の図などを見ると、周囲を取り巻く堀と土塁は、北東の一部分こそ埋められてしまっているが、北側の大部分は残されているように描かれている。

 しかし、上記の通り、ソーラーパネルの設置によって、現在は完全に埋められてしまったことは、現在の航空写真を見れば一目瞭然である。残存していれば、かなり見ごたえのある堀であったと思われるが、何とも残念なことである。破壊されたのは近年のことだと思われるが、史跡指定されている城館なのに、どうして安易な破壊が許されてしまったのであろう。私有地の畑であったので、市としては止めることができなかったのであろうか。現状では何の変哲もない一面の畑としか見えない。案内板が設置されているのもこの部分ではない。


2 中之城 
 城内で唯一、ほぼ完存状態にあるのが、中之城である。中之城は、20m×60mほどの小規模な区画であるが、これが本来の梅北城の本体部分であったという。確かに、北側に土塁が盛られているとこからすれば、台地からの区画を明瞭に意識していると言っていいだろう。

 しかし、全体が竹ヤブとなってしまっているので、歩きにくく、虎口がどこかもよく分からない。『都城市の中世城館』の図を見ると、、南側、左右の3箇所に虎口が描かれている。確かにこの部分にはそれぞれ削り取られ窪んだ一角が見受けられる。しかし、そのいずれも、後世に削り取られたもののように思われる。あるいは、もともとの虎口をさらに削り取ってしまったものなのかもしれないが、旧状通りでないことは確かである。

 不自然な人工的な窪みは、郭内部にも2箇所見られる。この窪みは千葉の室戸城に見られるものと同様で、後世に何らかの理由があって、掘り返されてしまったものなのであろう。土なのか、石なのか、発掘されたものが何であったのかは不明であるが、それなりの理由があって掘り返されてしまったのだと思われる。

 このように、中之城は規模そのものは小さいのだが、台地続きに当たる新城との間の堀切は現存しており、見ごたえがある。深さ10m、幅15mほどもあり、車を通すようにしたためか、そこの方の壁面は重機によって削られているようである。この堀は西側では新城から北側に向けて長く延びている。南側にも延びていたようだが、こちらはほとんど埋められてしまっている。

 このように中之城は、よくまとまった区画ではあるが、広さがあまりないので、後に新城を築いて、主要部をそちらに移したものと思われる。


3 上村城
 城全体の南西部の守りとなっていたのが、上村城である。この部分はかつて、中之城と同じ高さを持った台地であったというが、宅地開発のために、現在では台地はすっかり削られてしまっているが、航空写真を見てみると60m×100mほどの規模はあったようである。さらに航空写真を見ると、西側の堀は現存しているようにも見えるが、確認はしていない。上村城は、もともとは独立した城館であったようである。


4 飛永城
 これらの他に飛永城と呼ばれる部分もあったという。しかし、これがどこのことをさすのか明瞭ではない。この図では仮に南東の一角がそれらしいものと想像してみたが、その西側の民家の立ち並ぶ低地がそうではないかという説もある。であるとするなら、飛永城は平城であったということになるが、それを示す堀などの遺構は現在では見られない。したがって、飛永城が平城であったかどうかは明らかではない。

 この4つの部分が総合体となっていたのが梅北城であった。

南西側の上村城跡付近にある案内板。 新城内部。近年まであった堀もソーラー発電所の設置で埋められてしまっていた。
下の民家の脇から新城に上がって行く後世の通路。 中之城の虎口、と思ったのだが、どうも後から掘り返した跡であるようだ。
中之城北側の土塁。 新城の堀の西側下部分。改変はされているが、堀らしき形状は残っている。
中之城と新城との間の堀切。深さ10mほどもある大堀切である。
 梅北城の創建について、はっきりしたことは分からないが、南北朝期に梅北を領した畠山直顕が築いたのではないかと言われている。

 その後は、島津、新納、本郷、伊集院らの各氏による取り合いが行われたが、最後は本郷氏の居城となった。




山之口城(都城市山之口町山之口)

*鳥瞰図の作成に際しては『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』を参考にした。

 山之口城は、都城市山之口町山之口494番地の北側の比高20mほどの台地先端部に築かれていた。古大内川と東岳川とが合流する地点の東南側である。ナビの地図などには、この東側の高い山(確かに目立つ形の山である)に「城山」の地名を付けているので、そちらが城址ではないかと思ってしまいそうなのであるが、実際にはそちらには遺構はないとのことである。(『城郭体系』の説明文も、山之口城は城山であったというようになっているのだが。)

 3郭の南西山麓に養魚場があり、その脇から台地上に上がっていく道が付けられている。周囲をざっと歩いてみたが、おそらくこれが、城址に向かう唯一の道のように思われる。城の北側山麓には林道が通っているが、いずれもヤブがひどく、山稜に取り付けそうな箇所はなかった。また、1郭の東側の下からもアクセスするルートがあるらしいのだが、夏場では完全にヤブに埋もれてしまっている。1郭の城塁も急峻であり、東側の道からは、ちょっと取り付けそうにない。

 といったわけで、養魚場の脇から3郭方向に登って行くことにした。この道はかろうじて2郭と3郭との間にある畑の跡まで続いているのであるが、道はそこまでである。そこから少し登った所が、堀切にかかっている土橋となっている。しかし、この堀切もヤブがひどくて視認することは難しい。

 さらに、2郭、3郭に登ろうと試みたのだが、夏場ではとうてい無理なヤブであった。

 そんなわけで、ほとんど城内を確認できておらず、右の鳥瞰図は、ほとんどの部分を『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』の図に頼ったものである。冬場になって少しはヤブが収まったとしても、内部をきちんと歩くのはけっこう難しそうである。

 東岳川を挟んだ西側の道路の脇に城址標柱が立てられている。城址標柱を立てる場所も、このくらいしかなかったのであろうか。

 たいして規模の大きな城郭ではないが、わりとまとまりがよい城でもある。中世期を通じて各勢力の取り合いとなった城であるから、交通・支配の拠点として、枢要な位置にあったということなのであろう。



東岳川の脇に立てられている城址標柱から見た山ノ口城。ここからの比高は30mほどである。 3郭南西側の養魚場脇の道から登るのが一番アクセスしやすいルートである。
1郭東側の城塁。こちらからも道があるらしいが、ヤブがひどくて、とても進めたものではない。 2郭と3郭との間の堀切。といってもヤブがひどすぎてよく分からない。
2郭の様子。夏場に探索するのはほぼ不可能である。
 山之口城は、南北朝時代初期の延元年間に土肥実重によって築かれたのに始まるという。その後、島津氏、伊東氏、本郷氏と、諸勢力によって領有が変遷したが、最終的には伊集院氏が支配する所となった。


































大竹屋旅館