宮崎県宮崎市

*参考資料 『日本城郭体系』 『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』 

*参考サイト  城郭放浪記

宮崎城(宮崎市池内町1245-2)

*蜂に注意!!!

*鳥瞰図の作成に際しては『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』と現地案内板の図を参考にした。

 県道44号線の池内交差点の西側一帯に広がる比高60mほどの山稜に宮崎城は築かれている。城への登り口はいくつかあるようだが、今回私は満願寺口から登城した。というのも、県道脇に「宮崎城址」の大きな標柱が立てられており、これに従って進んでいった所がこの登城口だったからである。満願寺口の登り口はこの辺りであり、地図を見ても山上までの道が記載されている。

 まずは谷戸部を奥に進んでいくのだが歩き始めてすぐに正面や脇に急峻な山肌が立ちはだかってくる。いかにも直登が困難な山稜である。比高60mとは思えないほど高く見えており圧迫感がある。

 しかし、登城道はしっかりしているので、歩いているうちにすぐに本丸と目曳城との間の堀切部分に到達した。城内には「←本丸」といった案内表示が随所にされているので、これに従っていれば迷うこともないであろう。

 まずは北側の目曳城を目指す。切り通し状の虎口を抜けていくと、目曳城のある台地に到着する。狭隘な地形かと思っていたのだが、山上には意外に広い空間があって驚く。目曳城は基本的には単郭構造の郭であるが、内部に低い切り通し状の通路が刻まれている。だがこれはあくまでも通路であり、堀切のような区画性は有していない。

 目曳城の先端側面部を降りて今度は服部城を目指す。数段の小郭があり、やがて石碑が建てられている区画に到達する。ここが服部城である。しかし山道が整備されているのはここまでで、ここから先には道はない。服部城から東側には、射場城があり、その間に二重堀切が掘られている。

 また、服部城の北西方角には深い堀切があり、その先には段郭がある。「なかなか深い堀切だ!」と思って下をのぞいた瞬間、頭にチクリという激痛が走った。「何だ?」と思う間もなく、他にもチクチクとする。どうやら蜂らしいということが分かり、急いでその場を離れたのだが、結局、頭頂部2か所、首1か所、右肩1か所、左肩1か所の合計5カ所も一瞬のうちに刺されてしまった。そのうち頭と首筋を刺した蜂は針が取れなくなったのか、くっついたままだったので、手で引きちぎるようにして離して捨てた。体長4センチほどのキイロスズメバチであった。

 油断した! 山で一番危険なのは蜂である。通常、山を歩いていて、蜂に気が付いたらそっとその場を離れるようにしていたし、羽音が聞こえたら近づかないようにしていたのだが、今回はまったく蜂の存在に気が付かなかった。というより、気が付いた時にはもう刺されてしまっていた後であった。後の祭りとはこのことである。

 これまでも蜂に刺されたことは何度かあったが、大体1か所のみで、それも手足だった。今回は、頭や首も含めて、5カ所も刺されてしまっている。これはやばそうだ。

 とりあえず、本丸の方まで戻ってきたが、痛いのはもとより、鼓動が早くなっており、手足が熱くなってきた。本丸の下の部分で、この後どうするかを考える。

 しばらく様子を見ていたのだが、アナフィラキシーの症状は出ていない。それではとりあえず大丈夫かな、と思い、一通り、他の部分も見て回ることにした。

 ということで、本丸に上がって行った。さらに彦右衛門城、百貫城と進んでいったのだが、どうにも動悸が収まらない。あまりヤブの中に入り込んで行って、そこで倒れてしまうのもまずいので、テキトーな所で引き上げることにした。というわけで、南端の方まで歩いて行ってはいない。もっとも、冬場にならないと、端の方のヤブになっている個所を探索するのは困難である。体調も心配なので、山を下りることにした。

 というわけで、宮崎城を訪れる人は蜂に気を付けた方がよいと思う。おそらく、服部城の北端辺りにスズメバチの巣があったのだと思う(どれが巣だったのか確認できてはいないが)。もっとも、この記事は2015年9月のことであり、数年したらハチの巣は移動してしまっていると思われるが、その時は別の場所に巣を作っているかもしれない。蜂にはくれぐれも気を付けた方がよい。この記事を書いている現在も、まだ腫れは引いておらず、あちこちずきずきとしている。

 5カ所刺されたのだが、一番痛くないのは頭の2か所であった。髪の毛があるせいだろうか。あまりちゃんとさせなかったのだろう。頭は痛みも腫れもたいしたことはない。それに対して一番痛く、腫れあがったのが首筋である。肌が柔らかい上にリンパ節などがあるからなのであろう。だから毒の廻りも早くなってしまうのだと思う。山歩きをする際はなるべく肌、それも首筋をを露出しない方がよいということである。

 宮崎城・・・規模も大きいし遺構も見所がある城なのであるが、途中からちゃんと見て回ることができなくなってしまった。私にとっては、あまりよくない思い出の城となってしまったようだ。

満願寺口の登城道入口。案内板が設置されている。 正面に城塁が見えてくる。比高80mほどの急斜面が立ちはだかっていて圧巻である。
本丸と目曳城との間の大堀切。 目曳城入口。
服部城内部。この右側の石碑奥にハチの巣があるので気を付けよう。 服部城東側の二重堀切を見降ろしたところ。
服部城北西側の堀切。ここを降りようとした瞬間、いきなり蜂に5か所も刺されてしまった。 蜂に刺された痛みを抑えつつ本丸に戻ってきた。動悸が激しくなっている。
本丸南側の堀切。多少息苦しくもなってきた。 彦衛門城から百貫城へと向かう。
百貫城との間の堀切。この辺から先はヤブ状態のようだ。
 宮崎城は伊東氏によって築かれた城であった。南北朝時代の延元元年(1336)、南朝方に属した伊東氏方の武将図師六郎入道慈円はこの城に立てこもったが、北朝方の土持宣栄に攻められて、城は落城した。

 室町期に入っても、この地域は伊東氏の勢力県内であり、伊東一族の伊東県が宮崎城の城主であった。文安3年(1446)、伊東県は島津氏に内応したため、伊東祐尭が宮崎城を攻撃して落とした。その後、落合彦左衛門が城代となった。

 天文3年(1534)、伊東氏内部で家督相続をめぐる内紛が起こった。家老の長倉能登守は、嫡子の義祐ではなく、その弟の祐吉を支持し、この城に入れて城主としたが、ほどなく祐吉は病死してしまい、義祐が佐土原城に入城して伊東氏の家督を相続した。その後の宮崎城は義祐によって接収されることとなる。こうした経緯を見てみると、宮崎城は、伊東氏の中でも、かなり枢要な城郭として認識されていたようである。

 その伊東氏も、元亀3年(1572)の木崎原合戦で島津氏に敗れて以降、一族の内紛が続き、島津氏の圧迫に耐えられなくなってしまい、天正5年に豊後に脱出する。

 その後の宮崎地域は島津忠朝の支配地となり、忠朝は、日置忠充、後には上井覚兼を城代として宮崎城に在城させた。上井氏は『上井覚兼日記』という記録を残しており、それによると城内の生活がよく分かるという(読んではいないが)。

 天正15年、秀吉による九州征伐で島津氏が敗れると、宮崎城は、延岡の高橋元種によって接収された。

 慶長5年、関ケ原役の際、宮崎城には高橋元種家臣の権藤種盛がいた。伊東祐兵は、石田三成から西軍に誘われていたが、それを巧みにかわし、身の処し方を黒田如水に相談した。如水は、祐兵に西軍方の城を攻めることを提案した。祐兵は病気のために大阪にいたが、嫡男の祐慶を宮崎に派遣した。そこで宮崎城は稲津重正の率いる伊東勢に攻撃されて、落城した。稲津氏はこの後も各地で転戦して八面六臂の活躍を続ける。よほどの人物だったのであろう。若干27歳である。

 ところが、高橋元種も東軍に属していたため、戦後、宮崎城は、高橋氏に返還されることとなった。そのため、伊東氏と高橋氏の関係は険悪になり、伊東祐兵は、宮崎城攻撃の咎を、稲津重正1人にかぶせようとしたと言われる宇。結局、そうしたことがきっかけとなって、稲津重正は清武城で反乱を起こして滅亡する。

 だが結果として伊東氏は東軍側として行動したので、戦後も清武・飫肥3万6千石を安堵されたのであった。




倉岡城(池尻城・宮崎市糸原3291)

*鳥瞰図の作成に際しては『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』を参考にした。

 宮崎城で蜂に負傷したというのに、そのまま次に訪れたのが倉岡城である。たいして高くない岡城なのであるが、この城はヤブが多い。もうヤブはいやだなと思いつつも、けっこうヤブ漕ぎをしてしまった。あちこち痛む状態でのヤブ漕ぎは辛さが倍増である。

 糸原の倉岡神社のある台地一帯が倉岡城の跡である。大淀川に臨む比高20mほどの独立台地となっている。この大淀川はかなりの暴れ川で、明治になるまで橋を架けることもできなかったというから、この川を天然の濠とする要害地形であった。

 台地上の1,2,3という連続する3つの郭が城の主要な部分であると思われる。

 倉岡神社のあるところも郭の一部(居館部?)であったようだ。神社の背後から2郭と3郭の間に進んでいくと、やがて2郭への登り口が見えてくる。ここを上がった所が2郭である。

 2郭は倒竹が多く、歩きにくい。それでも結構な広さがあるので、建造物等をいくつも配置することができそうである。2郭の東南側にも堀切があり、その先に4郭が見えている。

 そこからいったん倉岡神社に降りていき、1郭方向に回り込む。すると、1郭の脇に城址標柱が立てられているのが見えてきた。そこから1郭に登って行く道もある。しかし、その道にはかなり草が茂っている。雨も降ってきたので、これを進むのはちょっと厳しい。だから1郭の上には行っていない。googlemapの航空写真を見てみると、1郭は公園になっているようだが詳細は不明である。


 倉岡城はこれだけの城であり、たいして大規模な城ではない。それでも、そこそこの面積があり、城塁も鋭く堀切も深い。それなりに城郭らしい雰囲気を有している場所である。










倉岡神社入口。神社のある部分もかつての郭の1部であったろう。 神社から2郭と3郭との間に入って行く。
2郭と3郭との間の堀切。2郭に上がって行く道が見える。 2郭と4郭との間の大堀切。
1郭入り口。草が茂っている上に雨が降っていて、入って行けない。 1郭と2郭との間の大堀切。
 倉岡城はもともとは、穆佐城の支城として、島津氏によって築かれたというが、応永年間以降は伊東氏に所属し、伊東48城の1つとなった。城主は野村壱岐守であった。

 天正5年、伊東氏が島津氏によって豊後に追われると、倉岡城も島津氏に接収され、吉利久金が城主となった。

 慶長5年、関ヶ原の役の際、宮崎城は伊東氏の軍勢に攻め落とされたが、倉岡城は伊東勢の攻撃を退け、城は維持されたという。 

 翌慶長6年、穆佐の島津勢が伊東勢と清武で戦って敗れ、倉岡城まで後退してきたが、城兵は大淀川を防塁として戦い、川崎氏を大将とする伊東勢を撃退した。『城郭体系』によると、その際に、和歌のやり取りがあったということである。

 (伊東方)
 朝夕に芋を拾いて倉岡の前の川原にやがて丹生殿

 これに対して城方は、

 帯(飫肥)切れて伊東が家は崩れ桶 汲めど溜まらぬ川崎の水

 と答えたという。たいしてうまい歌でもないが、それぞれの勢力の気分を理解することはできる。




穆佐(むかさ)城(高城・宮崎市高岡町小山田925-7)

*鳥瞰図の作成に際しては現地案内板の図を参考にした。穆佐城は別名高城とも呼ばれ、木城町の高城都城市の高城と並んで、日向三高城と呼ばれている、と案内板に書いてある。

 さて、倉岡城に続いて宮崎市の穆佐城に向かう。国指定史跡である穆佐城は穆佐小学校の西方にそびえる比高50mほどの広大な山稜上に築かれていた。城域は広く、東西に最大600mほどもあるという。

 登り口を探してみると、北側の道路沿いに「穆佐城跡」の入口標柱を発見した。そこから車で上がっていった所に案内板がある。どうやらここでよさそうだ。

 ところが、城内に入ろうと思ったその登り口に、「町有地につき立入禁止」という看板が建てられている。

 町有地で立入禁止? 私有地で立入禁止というのはよくあるし、理解もできるのだが、国指定の史跡になっていて町有地ならば、入って行っても何にも問題はないではないか? なんで立入禁止にしてしまっているの?

 通常だったら、他の登り口を探して、あくまでも城内を探索したことと思うが、何しろ雨が降っているうえに、蜂に刺されてあちこちずきずきとする体である。今回ばかりは、そんな根性がない。

 というわけえで、今回は撤退することとした。穆佐城ではかなり充実した遺構が見られるらしいので、機会があったら、その時こそ、ちゃんと歩いてみたいと思う。

 だから、右の鳥瞰図は案内板の図に基づいて想像して描いたものであり、遺構はまったく見ていない。だが、案内図が正確であるならば、この通りの城郭であるはずである。

 基本的には直線連郭式に近い郭配置であるが、地形なりに削平された数多くの郭を配置している。中央部の最高所と思われる部分が主郭であったろう。さらに大堀切をはさんで、東側の小郭群と、西側の3の郭群とに分かれている。このうち「坪之城」と呼ばれている部分が島津家9代当主忠国の生誕の地であるという。いずれにせよ、穆佐城は多数の郭を並列された、かなり雄大な規模の城郭であった。

穆佐城入口にある標柱。ここから登って行った。 上の堀切の所にある案内板。
階段が続いているので登っていたら、城とは関係のない公園となっていた。 この左手が城址であるが「町有地につき立入禁止」とある。国指定史跡で、町有地なのに立ち入れないってどういうこと?
 穆佐城は、古代の収税施設であった穆佐院の地に築かれた城郭である。かつてこの城内に穆佐院が営まれていたと推定されている。

 鎌倉末期には城が営まれていたようで、足利尊氏は、穆佐をその正室赤橋殿の領地としたが、そのため、南朝方の伊東氏によって攻撃されることとなった。建武2年、穆佐城は落城し伊東一族の伊東祐広が城主となった。

 観応の擾乱の際には、直冬方の畠山直顕が穆佐城に在城した。そのため、尊氏に属した菊池武光によって攻撃され、城は落城した。

 室町期に入ると、穆佐城は日向守護の居城となっていた。後には都於郡城の伊東氏の所属となったが、応永10年(1403)には日向に侵攻した島津久豊によって穆佐城は奪取された。しかし、42年後の文安2年(1445)、伊東祐堯によって穆佐城は奪われてしまう。

 その後も伊東氏と島津氏との間で穆佐城を廻って何度かの攻防戦が繰り広げられることとなる。それだけ枢要の地を抑える城郭であったということであろう。




清武城(宮崎市清武町加納甲785-2)

*鳥瞰図の作成に際しては『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』を参考にした。

 清武城は、宮崎自動車道に南端部を削られた比高40mほどの加納甲の台地に築かれていた。城の南端部が高速で削られている個所というのが目印となるであろう。

 船引保育園の辺りから東方の山中に登って行くと、やがて「清武城跡→」といった小さな案内が見えてくる。後はこれに従ってどんどん進んでいけば、最終的には城の本丸に到達することができる。しかし、いつまでも車で進んでいけるわけではないので、車は集落に入る直前のカーブの辺りに停めて置く方が無難である。

 城内には3軒ほどの民家がある。城内に入って最初に目に入ってくるのは、3の民家とその脇の巨大な土塁である。また、土塁の西側部分は窪んだ地形になっていて、周囲に土塁が廻らされている。これも最初は城の土塁かと思ったのであるが、よく見ると、郭の周囲に土塁を盛り上げたわけではなく、郭内部を方形に掘り下げて、結果として外側が土塁状になっているように見えるのである。この窪んだ地形内部にはミツバチの巣箱が置かれているので、この地形はそのために掘られた窪地であるのかもしれない。

 その部分から北側に案内が出ている。上の民家の脇を進んでいくと1郭の登り口になり、そこに「清武城本丸→」という案内が設置されている。そこで矢印に沿って登って行く。

 登った所が1郭である。1郭内部は放棄された畑のようで、けっこうヤブ化しつつある。登った所から右手がヤブになっていたのだが、それを掻き分けていくと、立派な城址碑が建てられているのが目に入ってきた。

 この1郭と下の段の2郭が城の主要部分ということになる。

 その他にも台地には段々の畑が多く展開しており、これらがみな、郭の名残であると見てよいと思われる。また、10と11とは、高速によって半分ほど削られてしまっているが、本来はもっと南側に城域が展開していたはずである。中央部の窪んだところも、屋敷跡か何かであったろう。


 このように清武城は、そこそこに規模の大きな城郭である。ただ、構造はわりあい単純であり、段郭だけで堀切もほとんど見られない。意外と古い時代の城館であったのかもしれない。







3郭の西側下の区画。周囲が土塁に囲まれているのだが、後世の改変の可能性が高い。ここにはミツバチの巣箱が置かれている。 3の民家脇にある土塁。
あちこちにこのような案内があり、迷わずに本丸に行くことはできる。しかし、こんな建物も石垣もないよなあ・・・。 本丸内部にある城址碑だが、この手前がヤブになっているので、最初気が付かなかった。
1郭の西側下の平場群。かなり広大である。 3郭から下の宮崎自動車道を見たところ。この建設によって城域のいくらかは削られてしまったようだ。
1郭北側下の平場入口。
 清武城は、伊東一族の清武氏によって築かれたと言われている。その後伊東48城の1つとなり、伊東氏の枢要な支城となっていた。
 
 天正5年、伊東氏が島津氏によって豊後に追われると、清武城には島津方の武将伊集院久宣が城主として入城した。

 天正15年、秀吉の九州征伐の後は、再び伊東氏が入部し、川崎駿河守が清武城に入城する。その後は、稲津重正が城主となった。重正は若くして才能を見出された人物で、20代にして伊東家の家老職を奉じた。

 関ヶ原役のころは黒田如水の指示により、稲津重正は宮崎城を攻め落とし、佐土原城や倉岡城なども攻撃した。当然、島津勢の反撃もあり、各地を転戦しつつ、伊東氏の諸城を守り通した。当時重正は27歳であるが、よほど戦略能力に長けた人物であったのだろう。

 ところが、戦後、高橋元種が東軍に内通していたことが分かり、高橋方の城を攻め落とした重正の立場は微妙なものになってくる。このことから重正は次第に主君伊東祐兵から遠ざけられるようになってしまう。さらに祐兵が没して、祐慶の代になると、重正は家中で孤立状態になってしまう。何とも皮肉な話である。

 重正の行状は荒れ始め、次第に主君祐慶をも軽んじ始めることとなる。そうした反抗的な態度に対し主君は重正を取り除けようとした。それに対抗した重正はわずかな兵を率いて清武城に籠城したが、衆寡敵せず、やがて城は落城、重正は切腹して果てることとなる。

 重正はかなり有能な人物であったようだが、どこでどう間違ったのか、最後は反乱者として討伐されてしまうことになった。時勢の巡り合わせが悪かったとしか言いようがない。何ともかわいそうな人物である。




紫波洲崎城(宮崎市折生迫6545)

*鳥瞰図の作成に際しては『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』を参考にした。

 紫波洲崎城は、あおしま漁港の東側にそびえる比高60mほどの急峻な山稜上に築かれていた。険しい山容であるが、東南下のオートキャンプ場の辺りから道が付けられており、1郭すぐ真下の駐車場まで車で行くことが可能である。山の上には仏舎利塔が祭られており、また展望台などもあるので、そのために道が付けられているものである。

 ところが、この日、あちこち回りすぎて、この城に着いたのはすでに6時半になっていた。時期は9月とはいえ、雨が降りそうな季節であったので、6時半になればもうすっかり薄暗い。それでも慌てて1郭まで登って行ったのであるが、どんどん闇が落ちてくる。高校生の時、『闇よ、落ちるなかれ』という小説を読んだことがあるが、ずっとそう祈り続けながらの城歩きとなった。

 結局、1郭周辺を歩いているだけですっかり暗くなってしまった。下の写真を見るとそこそこ明るいようにも見えるのであるが、これはデジカメゆえの特性であって、実際はほぼ夜である。

 暗くなりつつある先端部から海を見降ろしてみた。暗くなってきた波の中に白いしぶきがところどころに見えている。町の明かりも点灯している。もう城を回っているような時間ではない。早々に引き上げてホテルに向かうことにした。


 そんなわけで、右の鳥瞰図は『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』に頼ったものであり、実際にはほとんど歩けていない。また機会があったら、ちゃんと歩いてみたいと思う。















北側から見た紫波洲崎城。比高120mほどの断崖上にある。 1郭内部。デジカメでは何とか撮影できるが、すでに辺りには闇が落ちている。
1郭からの風景。景色はいいが、もうすっかり暗い。 1郭にある仏舎利塔。
 紫波洲崎城は古くから営まれていた城郭で、文安元年(1444)には長井式部少輔が城主であったという。

 その後伊東氏が飫肥地域に勢力を伸ばし、紫波洲崎城も伊東氏によって接収され、伊東家臣の川崎五郎左衛門が城主となった。

 それから何度となく、島津氏と伊東氏によって取り愛が行われることとなったが、天正5年に伊東氏が豊後に追われると、島津家臣上井薫兼が城主となった。

 ところが天正15年、秀吉による九州征伐が行われた後は、再び伊東氏が支配することとなった。




























大竹屋旅館