宮崎県日南市

*参考資料 『日本城郭体系』 『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』 

*参考サイト  城郭放浪記

酒谷(さかたに)城(日南市酒谷乙6339)

*鳥瞰図の作成に際しては『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』を参考にした。

 酒谷城は、酒谷乙の神社がある比高50mほどの台地に築かれていた。したがって、城址を目指すにはこの神社を目指していけばよい。

 都城市から日南市に向かう途中の道はずっと山の中である。こんな山の中に人が住めるのかと思ってしまいそうになるのだが、酒谷地区に入ると集落があり、小学校や中学校もある。山間の狭隘地で水田を造ることもできない土地であるが、昔から人が住んでいたのであろう。

 城に行くためには、東側下の赤い鳥居の所から、石段を延々と登っていく。もしくは、南西側から大きく回り込めば、神社のあるところまで車で進んでいくことも可能である。しかし、けっこう荒れた道なので、運転に自信のある人以外、車で進むことはお勧めできない。

 かなり長い石段を息を切らせながら登っていくと、途中に2段ほどの郭がある。それらを越えて上がった所に神社が祭られている。これを仮に3郭としておく。

 この城には、ほとんど同格のように配列された郭がいくつもあり、どこが主郭であったのかよく分からない。仮に城内で最も守りが堅そうな郭を1郭として、その周辺の郭にそれぞれ番号を振ってみた。しかし、本当に1が主郭であったかどうか、確信を持っているわけではない。

 台地上部分はけっこう広く、城域は400mにも及ぶ。これだけの規模があれば、相当数の人数を籠めて置くことも可能であろう。台地上には少なくとも8つほどの郭が配置されており、その間には深い堀切が掘られている。堀切はいずれも深さは10m、幅も10m以上ある。中央部の堀底を進んでいくと、両側にそびえる城塁は圧巻であり、次々と側面部に見えてくる堀切の規模にも驚かされる。あまり有名な城郭ではないが、かなり見ごたえある城郭である。

 一通り遺構をざっと見て、最後は林道を降って下の道に降りていった。この道を歩いていけば、もとの石段の所に戻ることができる。これで一回りしたわけである。


 酒谷城は、島津氏と伊東氏とが何度も取り合った攻防の拠点となった城郭であり、非常に見所のある城郭であった。ただ、ヤブになっているところも多いので、遺構をきちんと確認するには、冬場を待った方がよい城郭でもある。


 酒谷城がいつ築かれたのかははっきりしないが、室町中期の文明年間には、島津氏が支配していたようである。永禄5年(1562)、伊東氏が飫肥方面に侵攻し、島津氏は飫肥を奪われた。その際に酒谷城も落城し、伊東氏の所属となった。飫肥に抜ける街道沿いにある酒谷城は、島津氏の飫肥奪還を防ぐための最前線基地となった。

 しかし、同年9月、島津忠親は酒谷城を落とし、さらに進んで飫肥を奪還した。島津氏の飫肥奪還作戦は成功したわけである。

 だが、伊東氏の飫肥支配の目論見が終わったわけではなかった。7年後の永禄11年、再度飫肥侵攻した伊等義祐によって、酒谷城は落とされた。そして天正5年(1577)、伊東氏が飫肥地域から撤退すると、再び酒谷城は島津氏に属した。

 天正15年、秀吉の九州征伐後は再び伊東祐兵が当地を領有し、伊東氏の家臣、川崎権助・山田匡得が城将となったという。


東南下にある神社入口の鳥居。ここから登って行く。 延々と続く長石段に息が切れる!
3郭にある神社。微妙な段差がある。 2郭との間の堀切。幅、深さ共に大きなものである。
2郭と4郭との間の通路。小型車なら、ここまで車で入ってくることも可能である。両側の城塁の高さには圧倒される。 4郭と5郭との間の堀切。竪堀となって下に落ちていく。
5郭と7郭との間の堀切。この城の堀切はどれも大規模である。 6郭下から見た1郭城塁。高さ10mほどもある。




南郷城(日南市南郷町中村甲5280)

 南郷城は、中村神社の背後にそびえる比高120mの山の上に築かれていた。日南海岸を見下ろす、非常に帳簿のよい山であり、山上に2基の携帯アンテナが建っているのが目印になる。

 中村神社からの道がしっかりとした林道であるという情報があったので、中村神社を探したのだが、ナビの地図には載っておらずよく分からなかった。そこで東側の山麓へ出ると、「城山→」という案内表示があった。(ただし、電柱の陰になっていて見つけにくい。) そこで、それにしたがって、山中に登って行った。細い道ではあるが、舗装されて道で、車で走っても不安を感じない程度の山道であった。やがて、山上の主郭に到達した。山上まで車で行けるお気楽城郭である。

 1郭には「南郷城跡展望所」とある。確かに眺望のよい場所で、ここからの景色はとても美しい。さすがに展望所というだけのことはある。

 しかし、目的は景色を見るためではない。城の遺構はどこにあるのであろうか。

 実は、近世初頭の築城だけあり、ここには石垣がけっこう残されている。周辺部に回れば、それらを見ることができるのである。最初に車で1郭内部に入ってきたときに、両脇に小規模な石垣があるのが見えていた。とはいえ石の粒が小さいので、本当にこれが遺構なのかどうか確信が持てない。しかし、周囲を一周してみれば、南郷城が石垣をふんだんに使用した城郭であることがよく分かり、したがって、1郭入口の石垣も本来の遺構であり、枡形を形成していたものであると理解することができる。

 1郭の東側の下に降りると、1郭の城塁が石垣構造であったことが分かる。とはいえ、長い年月の間にかなり崩落が進んでしまっており、残存状況は部分的になってしまっている。それでも、その北側の折れのある部分当たりには見るからに近世城郭のような石垣が残されていた。この積み方からすると、櫓も建っていた可能性がある。

 東側下に降りていくと、小テラス状の郭がいくつかある。そしてその周辺には石垣が積まれていた。これらは見るからに石垣なのであるが、しかし、どうも後世に積み直されている感じもする。1郭の周囲ではなく、こうした小テラス状の部分に石垣を構築する意味があるであろうか。もしかすると、一見遺構に見えるこれらの石垣は、崩落した石垣を積み直して展望用の小空間を作るためのものであったかもしれない。

 それはともかくとして、部分的な残存状況ながら1郭周囲の石垣は本物である。南端付近の角にも、近世城郭のような角石が見られた。その西側には腰曲輪もある。

 1郭の北側下には2基の携帯アンテナが建つ空間がある。これも郭のように思われるのだが、もしかすると、アンテナ建設の際に改変されているかもしれない。その部分の北側下に2郭がある。少なくとも2郭構造の城郭であったということである。地形図を見ると、さらに北側にも平場がありそうであるが、こちらは確認していないので3郭が存在しているのかどうかは分からない。


 南郷城は、山城ながら石垣を有した本格的な城であった。関ヶ原役前年の慶長4年(1599)に伊東氏が島津氏に備えて築いた城郭であり、近世城郭的な萌芽が見られる城郭である。とはいえ、やがて一国一城令によって廃城となってしまうので、その存続期間はさほど長いものではなかった。

 さて、山を降る際には、中村神社の脇に出る方の道を通ってみた。なるほど、こちらの道の方がいい道のようである。といっても、最初に登ってきた道も十分に運転に耐えうる道であったので、結局どちらのルートを通ったとしても、不安もなく山頂に着くことができるであろう。

東側下からの登城口であるが、入り口を示す案内が電信柱の陰になってしまっている。携帯のアンテナが目印である。 山頂まで一気に車で上がって行く。
1郭虎口の枡形を形成していたかと思われる石垣。 東側斜面の石垣。
同じく東側の石垣。だいぶ崩れかけてはいるが、あちこちに石垣が残っている。 海を臨めるテラス状部分の石垣。しかし、この辺りの部分は本物かどうか疑問も残る。
石垣上から見る景色。とても眺望がいい! 南端腰曲輪上の石垣。角の部分はかなり大きな石を用いている。
北東角の石垣。この辺は近世城郭のような規模である。





































大竹屋旅館