宮崎県西都市

*参考資料 『日本城郭体系』 『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』 

*参考サイト  城郭放浪記

穂北城(西都市穂北4245)

*鳥瞰図の作成に際しては『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』を参考にした。

 穂北城は、一之瀬川に臨む比高100mの台地先端部に築かれている。城の周囲を廻るようにして県道313号線が通っている。話は変わるが、西都市と言えば西都原古墳群が有名である。穂北城は、一之瀬川を挟んで西都原古墳群を見降ろす北側に位置している。

 道路の形状から、城のある位置はすぐに分かったのだが、入り口が分からない。台地基部の方は、畜産施設となっていて入りにくい。そこで県道を通りながら、下から登って行くところがないかと思ったのだが、それらしい場所を見つけることもできずに、気が付くと一之瀬川の所までむなしく到達してしまった。

 「やはり畜産施設の辺りからアクセスするしかない」ってことで、台地基部の方まで戻ってきた。畜産施設は「立ち入り禁止」となっている所が多いから、あまり近づきたくないのである。しかし、そうも言っていられない。台地基部から畜産施設の脇を西側に進んでいく。すると十字路がありそこに「←穂北城」という案内があった。これで正解だったようだ!

 さらに進んでいくと、「穂北城跡公園」と書かれた立派な標柱が建っているのが見えてきた。駐車場とトイレまで設置されている。「公園となっていたんだ!」と思い、「こらなら安心して探索できる」と思わずうれしくなってしまったのだが安心するのは早かった。

 車を置いて進んでいくとすぐに大規模な堀切が見えてくる。4郭手前の堀切であり、この堀切は草木がないので、下の県道からでも見ることができたものである。

 それを越えてさらに進んでいくと、だんだん山林になってきた。やがて正面に3郭の城塁が見えてくる。その手前には横堀が掘られているのも分かる。しかし、この辺りからヤブ化も激しくなってきており、横堀を撮影してもなんだか分からない。3郭の城塁は鋭く、よじ登ることもできない。

 そこから3郭の城塁に沿うようにして道が降って行く。降って行くにしたがって3郭の城塁はものすごく高くなってくる。一番高いところでは15m以上あるのではないか。まるで巨人のような高さである。そこから通路は南側に向かい、2郭と3郭との間に出る。

 進んでいくと2郭に出た。この2郭だけは草が刈られていて見晴らしがよくなっていた。この郭に城址碑と案内板などが設置されている。なるほど、この郭だけなら、公園と言ってもよさそうだ。

 しかし、主郭と思われる部分はここではなく、この東側の台地先端部である。2郭と1郭との間には二重堀切が入れられている。

 ところが、ここから先は猛烈な倒竹地獄なのであった。これではまったく自由が利かない。目視も利かない。そして夏場ということもあってヤブ蚊も多い。いいことが1つもない。だいいち宮崎に来てまでどうしてヤブ漕ぎをしなければならないのか。公園なのにヤブ漕ぎをするなんてナンセンスな話だ。

 それでもざっと歩いて戻ってきたときにはすっかりクモの巣だらけである。公園なのにこんなに苦労するとは思わなかった。宮崎の城址で公園となっている城はけっこう多いが、主郭などの1カ所だけが公園化されていて、その他の部分はまったく手入れされていないというケースがよくある。穂北城も御多分に漏れなかったのであるが、公園化されていない箇所以外のヤブ度がとにかくひどかったのである。なかなかいいお城なのに、これではけっこうつらい。でも、いいお城であることは間違いないんだよなあ。

公園入口にある駐車場。「公園」となっているので、整備されていると期待していたのだが・・・・。 4郭北側の堀切。見事なものである。
4郭(左)と5郭(右)との間を抜けていく。 3郭北側を廻る横堀。
3郭と6郭との間の堀切。この部分は最も深く、10m以上ある。最大の見どころだ。 3郭と2郭との間の堀切。
2郭内部。この郭だけ、ヤブが取り払われており、城址碑や案内板がある。 2郭から遠望した風景。平野部がよく見える。この先に西都原古墳群がある。
1郭城塁。2郭と1郭との間は二重堀となっている。本丸は猛烈なヤブである。 2郭と3郭との間の堀切。3郭もヤブだらけでまともに歩けない。
2郭と3郭との間の堀切に戻ってきた。 もう1度、3郭堀切。この部分が最も見事である。
5郭の土塁。土塁もしっかりしているのだが、ヤブがひどくて、何が何やら・・・・。
 穂北城の城主は、伊東氏に属した長倉洞雲斎で、やはり伊東48城の1つであった。

 天正5年(1577)、伊東氏が島津氏に敗れて日向を脱出する際、豊後街道はふさがれてしまったため、穂北城を訪れ、洞雲斎に助けられて、米良を経由して豊後に落ちていったという。

 その後、穂北城は島津氏に接収された。島津時代の城代は平田宗張であった。 




三納城(西都市三納10443)

*鳥瞰図の作成に際しては『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』を参考にした。

 三納城は、三納の集落を望む比高60mの山稜上に築かれていた。山稜の下には、100m×300mほどの比高20mの高台があり、ここが「平城」と呼ばれている。平素の居館や武家屋敷が置かれていたところであったと思われる。ただし、平城といっても比高20mもあるので、実際には平城などではない。この平城部分に上がって行く切り通しの道は、枡形的な形状を成している。

 この平城部分の一番奥に駐車場があるので、車はここに停めて置く。そこから前の山道を登り始めると、すぐに左手に大規模な横堀が見えてきた。

 そこから道は2つに分かれる。3郭に進む道と、右手の横堀状の通路に進む道とである。2郭を経由して行こうと思っていたので、ここで右側のルートを取る。この道は車道として開かれたようで、斜面は近代の重機によって削られているようだ。

 やがて堀底から登って行く道を通り、上がったところが2郭であった。長軸30mはある郭であるが、草刈りがされておらず、草が繁茂している。膝までの草を掻き分けて進んでいくとやがて1郭の城塁が見えた。ここを登った所が1郭である。

 1郭は長軸60mほどあり、中央に土塁と段差があって2段構造となっていた。ただ、土塁の脇に神社が祭られていることからすると、この土塁は神社の建設に伴うものであるのかもしれない。

 1郭のメインの虎口は南西側に付けられており、ここから上がった所にいくつもの碑や標柱、案内板などが建てられている。

 遺構はさらに北側の細尾根部分に続いていく。1郭北西側の側面部から下に降りていくと、そこに堀3がある。と言っても完全に掘り切られた堀ではなく、中央に土橋がある。そこから少し進むと、今度は尾根を半分だけ掘り切った堀が見えてくる。これが堀4である。

 そこから先は細尾根が数十mほど続いているのだが、やがて道が側面部に回り込み、左手の尾根上部分が高くなっている箇所にさしかかる。ここに堀5がある。さらにそれを回り込んだところに堀6があり、ここで城域は終わる。


 台地を大胆に削り込んで独立した郭を配置する群郭式城郭の多い当地にあっては、山稜を利用した三納城のような城郭は珍しい部類に属する。しかし、こういう構造のため、群郭式城郭のように広い曲輪面積を確保することができない。

 それを補っているのが、下の台地部分(平城)である。広い台地部分に比して、山上の城郭は詰の城といった趣である。平城と詰の城が一体化したものが、三納城なのであった。






平城部分入口の枡形状地形。 平城内部には、まるで武家屋敷街のような区画もある。
駐車場に車を置き、山城部分を目指す。最初に目に入る堀1。巨大な横堀である。 2郭下の通路。横堀状になっている。
2郭内部。 1郭内部。中央部に段差があり、2段構造となっている。
1郭北側の堀3。この先、尾根伝いに何本かの堀切がある。 堀4。片側だけに竪堀が掘られている。
堀5。尾根の上にある。 堀6。ここで城域は終わりである。
 三納城は、伊東氏家臣で勇猛な武将として知られている飯田肥前守の居城であり、やはり伊東48城の1つであった。

 天正5年、伊東氏が島津氏に追われて豊後に逃げた際、飯田肥前守は島津軍に捕らえられて殺害された。翌天正6年、大友氏の援軍を得て失地回復を狙う伊東氏に合わせて、穂北城主長倉氏は、ゲリラ活動を続け、天正6年10月24日、都於郡城の奪還に努めた。所が失敗してしまい、長倉らゲリラ軍は三納城に逃げ込んだ。

 島津氏は三納城を攻撃したが、八代駿河守・佐土原摂津守・湯池三河守ら城方の守りは固く、なかなか落ちそうではなかった。そこで城攻めをあきらめた島津勢は、城の囲みを解いて引き上げていった。・・・と見せたのは策略で、敵を安心させるための島津氏の常套手段である。

 安心して城を出てきたところを、島津勢の伏兵が襲い3人の城将たちはみな討ち死にしてしまった。これによって三納城も島津氏に接収されることとなった。





































大竹屋旅館