千葉県香取市(旧小見川町)

*参考資料  『日本城郭体系』 『房総の古城址めぐり』 『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』

*関連サイト 北総の秘めたる遺跡 

油田城(香取市油田殿城)

 県道44号線沿いに「油田新田」というバス停がある。その辺りから北側の畑地に入っていく未舗装の道が見える。この道をひたすら先端まで進んでいった辺りが城址であるという。

 しかし、現在、先端まで行ってみても、明確に城らしい遺構を見ることはできない。戦後の食糧難の時代に芋畑を造成するために、土塁を崩して堀を埋めてしまったものだという。

 先端Aには「危険 立入禁止」と書かれた部分があるが、その辺りが城の中心部という事なのであろうか。この部分、何のために立入禁止になっているのかよく分からない。ぱっと見た目、危険そうなものがあるようには見えないのである。ただ、禁止区域内にはじめじめと黒っぽい水のようなものが溜まっている部分がある。もしかして産業廃棄物か何かであろうか。

 といった感じで、遺構は不明瞭なのであるが、この台地先端にいく途中に気になるものがある。Bの辺りに土塁らしきものが部分的に残っているのである。高さ1mほどであるが、堀跡らしい痕跡も見える。この部分ももともとあった土塁を崩して堀を埋めたということであろう。今回、ヤブに入って土塁の形状を確認してみたが、図のようにだいたい50mほどの方形であったらしい事が分かった。形状からすると居館のようなものだが、台地の中ほどにこのようなものがあるというのがめずらしい。これも油田氏の居館の一部であったものだろうか。

 以前ここに来た時に、草刈をしているおじいさんに「戦後の食糧難の時に、土塁を崩して堀を埋めて畑を広げた」という話を伺ったのだが、それはこの居館部分の事であったのだろうか。

 いずれにせよ、油田城の構造については不明な事が多い。先端の主郭に向かう途中に、一の塁、二の塁、、三の塁といった虎口があったというが、Bの方形土塁は、それに関係するものなのであろうか。















先端の「危険 立ち入り禁止」となっている部分。ぱっと見たところ、特に危険なものがありそうには見えない。 台地中ほどにある方形の土塁の一部。かなり崩されているのか、現状では高さは1m程度である。堀もほとんど埋められている。
(以前の記述)
 油田城は油田地区の最北端、北に向かって細長く突きだした比高30mほどの半島状台地の先端部にある。ここは非常にわかりにくいところで、未舗装の細い道を1kmほど歩いてやっと到達できる。たまたま山の中で草刈りをしていたおじいさんの案内で城址まで辿り着くことができたが、そうでなければどの辺が城址かもわからなかったであろう。城址は台地の先端部であるが、ここはすっかり草ぼうぼうで、まったく現況をつかむことができない。直前の虎口跡に昔は土塁や空堀があったというが、戦後の食糧不足の際に、町場の人がやってきて、土塁で堀を埋めて平坦にし、畑にしてジャガイモを植えていたりしたので、遺構は見られなくなったのだという。城址までの台地は細長くくびれ、両脇は絶壁となっており、その途中に、一の塁、二の塁、三の塁という虎口が設けられていたという。「ここが堀の跡じゃよ」などど、おじいさんは案内してくれたが、藪だらけでよくわからない状態であった。

 木内胤朝の4男胤盛がこの地を領して油田氏を称し、以降、義胤、胤継、胤信、胤持らが居城していたという。なお、油田と言う地名は香取神宮の灯油料田地にちなむものだという。




一の分目城(香取市一の分目字姫宮)
大六天砦(香取市一の分目字大六天)
 

 一の分目(わけめ)城は、大六天城とも呼ばれ、香取市の西北のはずれ、大倉城の1kmほど東南にある。比高20mほどの台地の先端部であるが、ここは現在では東急ゴルフクラブの敷地になってしまい、城址は改変されてしまっている模様である。「概念図」によると、単郭雑形で、台地基部とを土塁や空堀で分断していたらしい。

 「東国闘戦見聞私記」には高野内匠の城とあるが、粟飯原氏の姫の胤寿を祭ったという姫宮という祠のあるところから、実際は粟飯原氏の城であったのではないだろうか。

 さて。大六天砦とは、一の分目城の別名だと思っていたのだが、どうやら、別の砦であったらしい。まだ確認していないが、詳細はとりあえず、「北総の秘めたる遺跡」大六天砦をご参照ください。












 

小見川城(香取市小見川字城山)


 

小見川陣屋(相根塚陣屋・内田陣屋・香取市小見川字館ノ内) 

 現地案内板を基にして、内田氏時代の陣屋の復元図を描いてみた。ただし、基にした図面が非常に判別しづらいものであったので、よく分からない部分が何箇所もある。

 図面を見ると、堀は周囲にめぐらされておらず、土塁だけの構えであったようであるが、正木氏時代から城として用いられていたのであるから、本来は四周を堀が囲んでいたはずである。

 陣屋の規模は一辺が約100mほどであったというから、中世領主の居館とほぼ同程度であった。正木氏の時代から、規模はほとんど変わっていないのであろう。

 北側には川が入り込んでいる部分があるが、これは船着場であったろうか。基にした図には船が何艘も描かれており、水運の拠点でもあったということが分かる。ちなみに正木氏も、勝浦から船で侵攻し、利根川をさかのぼって、この陣屋まで船で往復していたのではないかというように言われている。つまり水軍が拠点として用いることが可能な城を、侵略の拠点としていたというわけである。

 城内には8胸棟ほどの建物が建ち並んでおり、城門は3箇所にあった。このうち南にあった門の前面にも土塁が築かれ、通路状を成しており、そこにも冠木門が1つ置かれていた。

 建物や各所にはそれぞれ名称が書き込まれているのだが、判別がほとんどできず、確実に読めたのは「御殿」という部分だけであった。

 ちなみに、この元になった図というのは、内田氏家臣の脇家に伝えられている「下総香取郡小見川御陣中図面」である。







 

 小見川陣屋は、現在小見川中央小学校のあるところにあったという。この辺は市街地で、また小学校が建設されたこともあり、遺構はまったく見ることができない。 

 この城は正木時忠が、粟飯原氏の居城、小見川城を攻めるときに築造したものだと言われている。史料には「相根塚の城」と出てくる。この周辺が「大根塚」と呼ばれていることから、ここがそれに比定されているというわけである。

 後に正木氏は、粟飯原氏の家臣の成毛宗親に攻められて、この城は落城したと言うが、南西にある下小川城はこの時に成毛氏によって築かれたものであと言われている。
 
 さらに後、江戸時代になると、内田正親がここに陣屋を置いたという。享保9年(1724)のことである。内田氏は1万石の所領であったから、ぎりぎり大名といったところであおる。領地の内訳は、小見川24箇村で8000石、海上村で1箇村、下野都賀6箇村2000石といった内容である。明治になって廃藩置県が行われるまで13代に渡って陣屋支配が続いた。

 現在、小学校の敷地内には、写真の碑と「内田陣屋跡」と書かれた標柱、内田氏の陣屋について解説する案内板などが設置されている。ただし、遺構らしきものは特に見られない。小学校の北側の神社には土塁状の地形があるのだが、それが陣屋と関連があるものなのかどうかは不明である。
 小学校の西側を流れている川は、かつての堀として利用されていたものであろう。




上小堀城(香取市上小堀字古屋山)

*鳥瞰図作成に際しては「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」の図面を参照した。

 上小堀にある駒形神社の東側が城址である。台地は東側に細長く延びた比高20mほどのものであるが、台地先端部ではなく、少し西側に入った所に城は築かれている。

 城は単郭で長軸100m程の規模がある。単郭構造とはいえ、周囲には二重の横堀を巡らせるなど、けっこう戦闘的である。特に東側が厳重で、二重堀のさらに外側(東側)に、二重の竪堀のような構造も見られる。

 二重堀のうち、内堀は深さ4m、幅6mほどの規模があるが、その一段下にある外堀には車道が建設されているために、現在では横堀の形状を失っている。しかし本来は内堀と同程度の規模の堀が2段になっているという構造であったのだろう。

 台地の南側は傾斜が急であったのか、横堀は一段だけである。横堀ではなく、単なる腰曲輪になっている部分もあるが、南側の部分は近年削られてしまったようで、削られる以前の本来の形状は横堀であったようである。ところで、この南側の横堀(現腰曲輪)部分であるが、どういうわけか、この部分にはずっと溝のような窪みが掘られている。ただでさえ笹薮がひどくて足元が見えないのだが、中央に溝が掘られているために歩きにくいったらない。ついつまづきそうになるのでとっても危ないのである。何のためにこのような溝を掘ったものか・・・・。台地を削る工事に関係するものなのであろうか。あるいは本来、この溝部分まで削る予定だったのかもしれない。

 さて、このように上小堀城は小さいながらもしっかりと堀をめぐらせた城であったのだが、この城の虎口がどこであったのかがよく分からない。現在、西と東に、作業用の車を通すために削られた部分があるが、これ以外にきちんとした虎口らしいものが見られない。ということは、この削られてしまった部分に本来の虎口があったものだろう。とすると、外部から直線的に郭内まで進入できてしまう構造という事になってしまうが、現状からではそれ以外に虎口らしきものが想像できないので、そのような虎口であったと想像するしかなさそうな現状である。それとも虎口の位置をわざとずらしていて、横堀の中を通って半周しないと郭内に上がれないようになっていたのかどうか、といったところであろう。

 上小堀城の城主に関しては、さまざまな伝承があるようだが、はっきりとした事は不明である。地元領主の居館というよりは、戦時の砦といったものであった可能性もあるだろう。その辺り、もう少し調べてみたいものである。

南側から見た上小堀城。図の「近年削られた部分」が見えている。左側には図にもある鉄塔が見える。 駒形神社の入口は、堀といってもいいくらい深い切り通しの通路となっている。
鉄塔の方から郭内に向かい、南側の横堀に降りた所。この横堀を進んでいくと、ヤブがひどい上に、中央に溝が掘られていて、歩きにくいったらない。 北側の二重堀の内の内堀。深さ4m、幅6mほどの規模である。
内堀から北側の城外方向を見たところ。土塁はこのように削られてしまっており、本来の虎口の形状が不明になってしまっている。中央に見えるのがあの部分で、ここから延びていた横堀は車道によって削られてしまっている。 左の写真の中央部Aの辺りから、二重堀の外側の堀を見たところ。車道のために削られてしまっているが、本来の堀底はもう少し高い位置にあったと思われる。
二重堀のさらに北側にも、浅い二本の竪堀状のものがある。ただし傾斜はかなり緩やかである。 二重堀の外側を南側から見たところ。本来横堀であったのだろうが、削られてしまったために、ただの腰曲輪にしか見えない。
(以前の記述)小見川工業団地から東に1kmほど入っていったところの比高30mほどの半島状台地の先端部にある。駒形神社のさらに奥の方が城址となっている。単郭であるが、土塁、空堀、腰曲輪、土橋、虎口などが残っているという。城主としては、増田左右衛門、増田玄蕃、増田勘解由などの名が挙げられているが、明らかではない。

 駒形神社の奥の鉄塔のさらに奥がひどい薮で、遺構はその中にあるようなのだが、2回行って2回ともその薮に入る気分Iならずに、遺構を確認していない。

 2度目のときに、ここで突然猟犬にあった。犬はすぐにどこかへ行ってしまったので、「なんで犬だけが・・・」と思っていたら、今度は急にライフルを持っている人がにゅっと出てきた。「犬が逃げ出したのだが見なかったかい。ちょっと折檻したらどこかへ行ってしまいやがった」という。どうやらさっきの犬はご主人の暴力に耐えかねて逃走したらしい。それにしても、人気のない山中でライフルを構えた人に突然会うのは心臓によくない・・・・・。その人に城址の事を聞いたら「こっちに土手がある」といって、駒方神社の北側に案内してくれた。そこには確かに土塁などが見られたのだが、すでにある概念図ではその辺りの遺構の事は触れられていない。上小堀城は、実際は概念図の縄張り以上の広がりを持った城郭であるのかもしれない。駒形神社の入口も切り通しの虎口のようになっているし、城域については再検討の必要があるかもしれない。

 その後、さらに神社の方に戻ったら、さっきのハンターが、例の猟犬を捕まえて、「何で逃げるんだこの野郎!」といって、かなり本気でたたいていた。これじゃあ、犬だって逃げたくなるよなあ・・・・。




木内城(香取市木内字城の台地)

 上小堀城から南側の台地に上がる道を進んでいって、突き当たった辺りの台地が木内城の跡らしい。上小堀城の600mほど南側である。城内は一軒の民家になっている。地元の方に伺うと、「城ってことは聞いたことがないが、その上のお宅の辺りに何かあるかも知れないよ」ということであった。しかし、遠目に見たところ何もなさそうだったので、特に確認してはいない。
 ただし、この辺り全体を「城の台地(しろのだいち)」と呼んでいるという。「じょうのだい」ではなく「しろのだいち」というのが、なんだかアヤシイ気がしないでもないが、本来は「じょうのだい」であったのかもしれない。台地の南側斜面に「城の台貝塚」というのがあり、看板も立っている。平成になってからこの貝塚で発掘が行われ、後ろ手に縛られた白骨が出てきたのだという。ちょっと怖い話である。

 現在、城址の東側端が削られて、下の写真の新しい道路ができている。その辺りが城塁のように見えてしまうのだが、これは近年の工事によるものであり、城とは関係がないということであった。本来の城というのは、台地の一番上にあった屋敷程度のものであった可能性がある。木内氏発祥の地とはいえ、木内氏は後に米野井城に移るのだから、本当に初期の居館であったのだろう。

木内城東側下の道路。この道路は近年できたもので、本来は、車が通れないような細い道であったという。
木内城は小見川城の1kmほど西南にあり、小見川城との関係が想像される。比高30mほどの台地上で、この台地は小見川城とも地続きになっている。台地上の単郭の居館であったという。

 「千葉大系図」によると、東胤頼のこの地を領し木内氏を名乗るようになったという。木内氏の発生の地である。木内氏は後に米野井城に移り、戦国時代にかけてその勢力を広げていくこととなる。




五郷内城(香取市五郷内)

 五郷内城は、大方城の北西500mの所にあった。天利神社の背後の台地辺りであったといわれるが、この台地は現在では大半削られてしまっている。従って、遺構等もよく分からない。歴史等詳細も不明。



 

小和田(こわだ)城(香取市貝塚)

 『千葉県所在・・・』にも取り上げられていない城であるが、小見川史談会の林さんに教えていただいた城である。来迎寺の南西500mほどの位置にある比高20mほどの西側に台地である。神野角助陣屋の脇の道を西側方向に300mほど進んでいくと、道が南側にカクッとカーブする場所がある。その辺りが台地基部に当たり、そこから西側に入っていった所が城址であるという。写真は城址を北側から遠望した所。

 城址にはかつて堀などがあったらしいが、だいぶ以前に、養鶏場を建設するということで、台地表面部を削り取ってしまったため、現在では遺構はみられないのではないかという。

 といったわけで、城址に突入しようとしてみたが、現在ではその傾斜も廃止され、台地全体が猛烈な藪と化してしまっている。そのため、今回は内部探索をしていない。

 林さんの話によると、地元の人々が戦時に立て籠もるような城館であったのではないかということである。







下小川城(香取市下小川東場)

 

 下小川城は川向砦とも呼ばれ、小見川駅の南西1.2km、川上城の1km北西にある。川上城、小見城と同様の平城である。この地には現在血当寺や妙剣神社があるが、周囲の堀はほとんど水田となってしまっている。写真は妙剣神社脇の堀の跡。


 戦国時代、里見氏の命を受けた正木氏がこの地に侵攻してきた時、成毛宗親が砦を築いたところだという。1.5km北に正木時忠が築いたという小見川陣屋跡があるが、ここを「川向」というのは、それに対する付け城といった意味合いがあるのかも知れない。










白井城(香取市白井字城ノ内) 

 白井地区の「城ノ内」と呼ばれる一帯が白井城の跡である。「城ノ内」というくらいなのだから、間違いなく城址なのであろう。

 ということで比高20mほどの台地上にある星宮神社に登ってみた。この神社の本殿周囲には、かなり立派な土塁が存在している。しかし、この土塁、明らかに神社に伴うものである。これを城の遺構と見るにはためらわれる。ただ、地形から見れば、神社のある部分が主郭であったはずである。神社建設に伴って、地形が改変されているのであろうか。

 神社部分は切通しの道路を挟んで2の部分と向かい合っている。ここが2郭ということになろうが、自然地形のままの部分も多い。神社との間の切り通しはかつての堀の名残であるとも見られる。2の部分は北側で一段低くなり、Bの切り通しに接している。Bは通路に伴う切り通しであり、城郭遺構とは見がたいものであるが、全体の地形からして、この辺りに城域を画するものがあってもよいと思われる場所である。

 神社から2の部分にかけて東側の下に腰曲輪が一段ある。これは城郭遺構と見てもよさそうなものに思われるが、細長く畑を造成すれば同じような地形になるので、間違いないのかどうかといわれればやはり心もとない。

 ざっと見たところ、明確に城の遺構だと思われる部分はそれほどない。あるいは城の本体は「城ノ内」の集落内にあったのかもしれない。Aの民家などは一部土塁を伴っており、これが居館であったということも十分考えられる。山上はもともとそれほど加工されていなかったという可能性もあるだろう。

 千葉氏の家臣で白井氏という者がいる。その居城がここであったと見るのが一般的な解釈となる(もっとも白井という土地は他に白井市もわるわけだが)。ただ、現地で伺った話では「武田信玄に敗れて落ち延びてきた諏訪氏の一族がいた」ということであった。諏訪氏に関する伝承は近くの八本城のことではないかと思ったのだが(しかも武田信玄では時代がかなり違ってしまっている)、これもあるいはそのことに関連していたのであろうか。

 なお、城址の近くには白井の玉井戸がある。これはどんなに日照りの時にも渇いたことのないという伝承を持つ井戸である。また、これに関連して平将門に関する伝説も残っている。

 方形でかなり大きな井戸であり、その中心部には倶利伽羅不動の石造が鎮座している。

 雨の降る前にはこの井戸から白い煙が立ち昇ったといい、「白井」の地名の語源はそれにちなむものであるという。






神社の近くにある白井の玉井戸。どんな時にも涸れたことはないという。白井の地名のもとにもなっている。 星宮神社。周囲にはかなりきちんとした土塁があるが、これは神社に伴うものであろう。
神社脇の土塁の切り通し。 Bの部分の切り通し。
(以前の記述)八本から白井に向かって走っていくと、途中道の脇に「白井古墳・王宮台貝塚」の道標があり、その脇に案内板が建っており「王宮台貝塚は平将門伝説の残る砦跡でもあり、下総地方屈指の縄文時代の貝塚である」といった説明が書かれている。この古墳の辺りは周囲にたくさんの貝が散らばっており、どうやらこの辺が城址らしい。古墳も物見台として使用されたものだろうか。古墳上には何かの祠がいくつか建っている。城址の大部分は畑地になっていて遺構はほとんど破壊されているようである。比高30mほどの台地上である。「千葉家臣記」によると白井備後守の居城であるという。

 『千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書』では、ここから北西300mの、星宮神社がある比高30mの台地を白井城址としている。ここも周囲は切り立ったような崖で、土塁や虎口などが見受けられ、城にふさわしい場所ではあるが、麓の家に聞いたところ、城址としての由来は聞いたことがないとのことであった。

 白井古墳・王宮台貝塚。『香取郡誌』 『房総の古城址』などでは、ここを白井城址としているが、特に遺構らしきものは見られない。






















須賀山城(香取市根方)


 

大方城(香取市五郷内字城山) 

 平良文の夕顔観音伝説で有名な樹林寺の背後の比高40mほどの台地が大方城の跡である。しかし、現在見られる遺構の状況からして、平良文とこの城とは関係がないだろう。下の樹林寺そのものも居館跡のような地形にあり、こちらはあるいは良文と関係があるかもしれないが。

 城は単郭構造で、長軸60mほどの大きさである。その半分ほどに土塁が盛られており、南西部の台地続きは横堀状になっている。東側から北側にかけては腰曲輪がめぐらされ、北側の部分では、1郭城塁との間が切り通し状になっている。

 城の尾根を南西に降っていくと、稲荷のある所が堀切状になっているが、これが城郭遺構であるのかどうかははっきりしない。その先に金衝堂があり、かなり遠くでも、この鐘衝堂はよく見える。

 ざっとこれだけである。単純ではあるが、非常に分かりやすい城である。全体的な印象からすると、戦国期に砦として取り立てられたものではないかと思われる。しかし、樹林寺が当時から存在していた事を考え合わせると、この砦というのは、戦国武将などが築いたものではなく、寺院そのものの緊急時の避難所として形成されたものである可能性もあるであろう。伝承によると、千葉一族関連の武将の城だということであるが、その人物は樹林寺と関係の深い人物であろう。

 なお、1郭の内部には石仏がたくさん鎮座している。それらには番号が付けられており、1郭内部を何周かすると、33番所巡りかなにかができるようになっているのである。郭内はきれいに整備されていてヤブは少ない。ここを訪れる人もそれなりにいるのであろう。




西側から見た大方城。比高30mほどの台地上である。先端に金衝き堂があるのが見える。 1郭内部から南側の虎口を見たところ。周囲には高さ1.5mほどの土塁が巡らされている。
横堀。深さ3m、幅6mほどである。 南西側の尾根を切り通して、ここに稲荷社が祭られている。
大方城は、樹林寺のある台地上にあった。樹林寺そのものが20mほど石段を上がったところにあるが、その背後のさらに20m上がったところが城址の中心であったと思われる。樹林寺から削り落とされたような崖を上がっていくと、神社のあるところに出る。ここは掘切の間のような地形である。右側の方の郭に上がり、更に右手に進むと、主郭と思われる平坦地があり、その手前には写真のように堀や土塁の跡があり、虎口も残っている。城主は分からないが、この辺りは東氏の一族の向後氏のいた辺りであり、向後氏の城であったことが考えられる。この付近には現在でも向後を名乗る家が多い。

 樹林寺は平良文と関係のある夕顔観音を祭ったところで、境内には香取市の天然記念物の「四季桜」や古い宝筺印塔などがある。




平良文館(香取市阿玉台字館)

 *『千葉県の歴史』(資料編 中世T 考古資料)の図を参考にしてラフを描いてみた。

 平良文館はすでに土取りによって隠滅してしまっている。『千葉県の歴史』の測量図から想像すると、このようなイメージであり、4棟ほどの建物によって構成されていたようである。

 平良文の館というのは、あくまでも伝承上のことであり、実際にどうであったかは不明である。出土遺物は15世紀代のものが多く、そのころ千葉氏の一族の誰かが居館として試用していたのではないかと思われる。



















 平良文は相模の村岡から、下総に移り住んで、大友城を築いてそこに居城したが、後に阿玉台に館を築いて移ったという。だからここの平良文館は「阿玉台の城」とも呼ばれている。城址は、小見川南小学校の南西300m、比高30mほどの半島状台地の先端部にあるが、土砂を取られてしまって、以前の面影はなくなってしまっている。土砂を取られた跡は写真の畑になっている。遺構ももはやない。「発掘調査報告書」によると、二重空堀や櫓台などがあったという。また、戦国時代には東氏一族の城だった可能性が高い。 

















中島城(香取郡香取市川頭)



 

野田館(香取市野田)

 野田館は、小見川城の700mほど南側の水田地帯にある。平地の単郭の居館の跡である。城址は稲生神社のある周辺だったらしいが、遺構はよく分からない。城主等も未詳。

 稲生神社の周囲には土塁状の高まりが見られるが、神社に伴うものなのか、城と関係があるのはよく分からない。ただし、神社北方に東西に延びている堀切状の地形は、あるいは堀の跡であるのかもしれない。

 神社の東側には一部池が造られている。その池の脇の土手は比較的高くなっており、池から土手を見ると、いかにも水堀と城塁のように見える。しかし、これも旧状の通りであるのかどうかは不明である。











原宿城(香取市下飯田字原宿)

 原宿城は、利根川に近い下飯田の平野部にある。保育園や県営住宅のすぐ北側で、城址には写真の星宮神社がある。森山城からは北西に1kmほどの位置にあたっている。単郭の居館の跡らしいが、遺構のようなものはほぼ隠滅しているようだ。この城は民家が立て込んでいて、縁部分を歩くことが難しいので、遺構を探すこと自体がかなり困難である。縁部分には一部、土塁の残痕ではないかと思われる箇所もあるのだが、詳細は不明である。

 城主等伝承も特にないようだが、城内部に星宮神社が鎮座しているので、千葉一族に関連のあった城であることだけは確実であろう。   



















   

布野城(香取市布野字台)


 布野城は、水田を隔てて森山城の800mほど西、ちょうど向かい合うような位置にある比高30mほどの台地上にある。この台地は南から北に突き出た半島状のもので、山上には熊野神社が祭られている。

 山頂は山林化しており、遺構らしきものはほとんど見あたらないが、一段下の、写真の熊野神社のある所Aは土塁が虎口のようになっている。ただし、ここを郭と呼ぶにはあまりにも狭すぎる空間である。かといって山頂部はまったくの自然地形で、建物が建っていたとも思われない。しいていえば小規模な物見台程度の砦だったのであろう。

 登城口は切り通しの通路となっており、側面部の崖も削り落とされたようになっているのだが、削り方が新しいようで、これは神社の参道として造られたものであろう。この切り通しは雨天時にかなり水が流れるらしく、すでに底が崩落しつつあって歩き辛い。

 伝承によると藤原朝雄というものがここに居城していたが、平忠常と戦って敗れたという。その後、布野左近が城主となっていたが、天文年間に里見氏に攻められて落城したという。位置から考えると森山城の支城であったように思われる。

 平安時代の築城ということを考えると、城は山頂部よりも山麓に求めるべきであるという見方もあろう。山麓のBの部分は墓地となっているが、ちょっとした広さのある空間である。あるいはこれが城館と関連のある箇所なのかもしれない。











松平外記陣屋・神野角助陣屋(香取市貝塚)

 松平外記陣屋は、来迎寺の場所にあったという。というよりも来迎寺を一時的に陣屋に取り立てていたというように理解していた方がいいかもしれない。来迎寺の住職は源頼朝から陣羽織を頂戴したという伝承を持つくらいであるから、寺院の方が陣屋よりもずっと以前から存在していたはずである。

 ところで、来迎寺には「源氏三代の墓」というものがある。源頼朝、頼家、実朝の三代将軍の墓である。どうしてこのようなところにそんなものがあるのか不思議だったのだが、何でも源頼朝が当地に訪れた際に、その時の陣羽織を住職が拝領したとのことで、頼朝とは縁があり、後に実朝が暗殺された時に、三代に渡る源氏の将軍を供養するために墓石を建てたのだという。したがって墓というよりも供養塔と呼ぶ方が当たっている。住職はその陣羽織を袈裟に仕立て直して着用していたという。

 本堂の東側の土手下には「松平外記頭伊昌と妻ふうの墓」という墓がある。松平外記頭伊昌は五井松平家の人物で、海上地域で6000石の旗本であった人物である。

 県道265号線を小見川方面に向っていくと、来迎寺入口の看板が見える。駐車場はあちこちにあるので、適当なところに車を停めて歩いていくと、すぐに寺院の前面に土塁が見えてくる。この土塁が土塁が陣屋遺構であるのかどうか分からないが、墓地を取り巻くようにして断片的に残存している。特に西側の方は、土塁を伴った小空間が付属している。もしかすると虎口関連の何かであったろうか。

 この墓地には神野角助と府馬時持の墓が建っている。神野角助はこの土地の有力者で、小田原の役で千葉一族が没落した後も勢力を持ち続け、後に小見川に入った松平家忠と親交を深めていた人物である。『家忠日記』を見ると、角助はしょっちゅう家忠の所に遊びに来て、囲碁などを打っているといった場面が見える。角助はもともとは海上氏の嫡流であったようだが、いろいろと事情があって神野家に養子に入った人物であるという。

 府馬時持はこの角助の妹おこうの方の婿であった。府馬時持といえば、千葉一族を裏切って、正木軍を導きいれた人物として、一般的にはあまり評判がかぐわしくない。しかし、来迎寺の案内板では英邁豁達な人物としてベタ褒めになっていた。この土地の支配者であった神野角助の血縁の人物ということで、この土地では高く評価されていたのであろう。確かに、周囲の千葉一族をみな敵に回して、正木氏と共同戦線を張るなど、かなりの野心家であったように思われる。けっこうなやり手でもあったのだろう。

 しかし、時持はこの戦乱の中で討ち死にしてしまう。そのため時持の妻は息子を連れて、実家である神野家に身を寄せたという。時持の息子はやがて来迎寺に入って修行し、住職となった。これが良暁上人と呼ばれた人物である。

 良暁は、後に本山である結城郡飯沼弘常寺の住職となり、さらに円通寺を開基したという。父の時持同様、けっこうなやり手であったようだ。来迎寺に残る角助と時持の墓は、この良暁上人が建立したものであるという。

 来迎寺の境内は60m四方ほどで、それほど広いものではないが、台地の西端部分に当たっている。下は沼沢地であったと思われるので、けっこう要害の地でもあったのだろう。陣屋遺構と思われるものは、本堂背後の土塁くらいである。とはいえこの土塁、高さ2m、上端幅も2mほどと、かなり本格的な規模のものである。

 この土塁には、北東部に切れている部分が見られるのだが、どうも虎口ではなく、台地下にごみを捨てるために近年に削られたもののようである。

 寺院内部から見ると、東側の土手も土塁のように見えるのだが、実際には東側は上の台地の土手が削られただけのものである。つまり、東側の台地上からは来迎寺は見下ろすような位置関係になる。その点では、陣屋を置く場所としてはふさわしくないような気もするが、これでよかったのであろうか。

 県道を挟んで150mほど南下した所に、神野角助陣屋跡と呼ばれる場所がある。西側に突き出した三角形の土地であり、長軸30mほどとかなり狭い場所だが、台地の南側半分が下の民家が土地を拡張するために削ってしまったということで、本来ならば、現在の倍くらいの面積があったらしい。

 しかし、陣屋跡と呼ばれる部分のすぐ東側には、上の土地の土手が迫ってきており、角助陣屋の位置は、どうも場末のような場所である。本当にこの場所でよいのであろうか。どちらかというと東側の高台が屋敷の跡で、陣屋跡と呼ばれる所は馬場かなにかであったのではないかというような気がする。とはいえ、地元の伝承でここが角助の屋敷跡であるというのだから、ひとまずそれに従っておくことにする。

 この陣屋跡は『千葉県所在・・・・』にも掲載されておらず、地元の人でもないと、そういう伝承の存在は分からないであろう。

来迎寺墓地にある神野角助の墓。『家忠日記』などでおなじみの人物である。かなり大きな宝筐印塔のようだが、下の部分がなくなっているように見える。 同じく来迎寺墓地にある府馬時持の墓。時持は角助の妹婿であったということで、その関係で角助がこの地に墓所を定めたのであろう。角助の墓と同規模の宝筐印塔である。
墓地の西側土塁の外には小空間があり、その縁部分も土塁状になっている。 来迎寺入口の脇にある土塁。
本堂の脇にある松平外記頭伊昌と妻ふうの墓。 来迎寺北東背後の土塁の切れ部分から本堂を見たところ。本堂背後の土塁はかなり重厚なものである。この切れ部分はごみを捨てるために新たに切ったもののようで、虎口ではない。
神野角助陣屋跡。




虫幡城(香取市虫幡字野口)

 虫幡城は、虫幡の中央部にある半島状の台地にあった。この台地は比高30mほどのもので、東南西の三方が急崖となった要害の地で「虫幡要害」とも呼ばれていた。しかし現在では、この台地はすっかり削られてしまい、遺構は消滅した。かつては物見台のような高台もあったという。

 城主は木内胤朝の三男、氏朝であったという。彼はここに移り住み、虫幡氏を名乗るようになり、それ以降、虫幡氏の居城として連綿として続いた。



森山城(香取市下飯田・仲城・三城


 

                                                                                                                    

八本城(香取市八本字城)

 八本城は、八本の東の端の「城」「古屋敷」と呼ばれる半島状の台地にあった。ここは旧小見川町のはずれでもあり、東北1kmには米野井城があり、木内氏との関係が想像される場所である。
 伝承によると、永享年間に足利成氏に加勢しに来た、信濃の諏訪豊教が築いた城だといわれている。その由縁であろう、近くに諏訪神社がある。城址は平坦な郭で、一部に腰曲輪的な部分が見られたと言う。現在では畑地となったために遺構の大部分は破壊されてしまったという。



竜谷(りゅうさく)城(香取市竜谷字たて、たて下)

 竜谷は「りゅうさく」と呼ぶ。千葉県では谷のことを「さく」と呼ぶ例がけっこう多い。「竜谷」というと「りゅうがい」などと呼んで、「要害」の転である場合も多いのだが、ここはそういうわけでもないらしい。

 西小学校の東南600mほどの所に、中央部を削り取られた比高20mほどの台地がある。これが竜谷城の跡である。新道を建設するために城址の中心部分を削り取ってしまったようだが、その後どうしたわけか工事は中断したままである。何年も前に来た時には、削られたばっかりで工事が続けられており、すぐにでも道が完成しそうな雰囲気であったのだが、今になって(07年6月)きてみると、すっかり現場は放置されてしまっているような状態となっていた。この調子だと、このまま道路建設も完成せず、城を破壊しただけの結果に終わってしまいそうだ。

 南に突き出したこの台地を「たて」と呼んでいて、中世城館が存在していた場所であることが分かる。また台地下は「たて下」と呼んでいる。上記の通り、中心部分が破壊されてしまっているので、旧状を知るすべがないのだが、残存部分をラフにしてみると、右の図のようになる。

 まず、削られた南端のAの部分に上ってみた。見るからに地勢が高くそびえている部分である。途中の尾根が細く、しかもヤブがひどいために登るのには難渋する。しかもトゲのある植物も密生している。何度も途中で引き返そうと思ったのだが何とかたどり着いた。

 Aはちょっとした平場になっていた。だが地勢が平坦ではなく、郭という感じはしなかった。しかし南側にあるBの腰曲輪はちゃんと削平されたもので、いかにも城の遺構らしい。

 結局Aの部分は細尾根だけで台地と接続していたようで、まとまった郭があったものかどうかもよく分からない。ただしAの台地は、脇をかなり削り取られているようで改変が著しい。本来はもう少し形の整った郭であったのかもしれない。セオリーからすれば台地先端であるこの部分こそが主郭であったはずなのだが。北側の台地接合部分をも含めて、そうとう改変されてしまっているのであろう。

 次にAの部分から降りて台地基部の北側に向かった。ここからEの部分を上がって台地先端方向に進んでいく。Eの北側は見るからに「切岸」といった状態になっていて、いかにも城らしいのだが、ここの部分の削り方は新しいようで、近代のものかもしれない。Eそのものは基本的には自然地形のように思われる。

 台地上の削平されていないEを進んでいくと、Dの郭との間に堀切1が見えてきた。深さ3mほどの堀切で、ここから南側は削平がきちんとなされている。この堀切が城域の始まりを示すものであるのだろう。

 Dの先にはCの郭の切岸が見えており(高さ2mほど)、尾根幅がだんだん広くなってきて工事現場の切り通しに到達する。削平はされているようだが、郭の始まりを示す堀も土塁もない。現状では区画性をほとんど感じることができない。

 これだけではどんな構造であったのかさっぱり分からない。おそらく主要部分は破壊されてしまったのだと思われるが、本来はどのような城であったものだろうか。「たて」の地名からすると、比較的早い時代の地元領主の居館であったと推測するのがよかろうか。

 城主のこともよく分からない。伝承では「館与一」という人物の居館であったといわれる。左衛門尉殿が調べたところ、「神代本千葉系図」にこれに該当する人物がいたという。伝承も意外にあなどれないということである。

 台地基部のところにある神社は名前が表記されておらず、地図にも載っていなかったので、何の神社であるのかよく分からない。城址の北端にあることから、あるいは城を守護する妙見社であるのかもしれない。

南側から見た竜谷城。道路工事のために中央部分が削り取られてしまっている。先端のA部分は切り立っており、非常に地勢が高く見える。 Bの腰曲輪から見たAの城塁。高さ6mほどある。
堀切1。深さ3mほどある。この脇に稲荷社が祭られていた。 Cの郭の先端部分から削り取られた部分越しにAの方向を見たところ。
(以前の記述)竜谷城は、虫幡城、油田城、白井城を結んで三角形を造ったとき、ちょうどその中心点辺りにある。県道55号線と45号線が交差する信号の辺りから西に小道を800mほど入っていった所の比高20mほどの台地上であるが、台地は山林化しており、また、半分ほどが削られてしまっていて、遺構の残存状況ははっきりしない。城主等も未詳。
































大竹屋旅館