押畑城(子の神城・成田市押畑字子の神)           

 押畑城(子の神城)は成田市最大の城である。現在、ぱっとした遺構はないが、本来なら坂田城などと同レベルの城であったはずである。この城がいかにして成田最大の城となったかについては後で述べる。

 鳥瞰図は南側上空から見たものである。根木名川と小橋川に囲まれた低湿地にそびえる比高20mほどの広大な台地全体を取り込んだ大城郭であった。図の台地部分は東西850m、南北600mほどある。

 北側部分を1郭としたが、この郭は広大で、かつては何郭かに分かれていたと思われる。現状ではAやBの位置にわずかな段差を認めるだけなのだが、耕地整理や破城の際に、埋められたりしたのではないだろうか。もともとは堀や土塁があったと思う。

 (あ)の部分に妙見社や天王社がある。どこが主郭部であったのか現状からでは分かりにくいが、ここか、もしくは(い)の土壇の辺りであったかと思う。(い)は方14,5m高さ3mほどの櫓台のような土壇で、この辺りを「子の神」と呼んでいる。「子の神」と称されるような祠が祭られていたものかもしれない。この上には祠の残骸の石が転がっている。「子の神城」の名はこの塚にちなむものである。したがって、もともとのこの城は「子の神」を中心とする居館であったが、後に台地全体を取り込む城郭に成長したものかとも思われる。

 (う)は新福寺である。この周囲はもともと切岸状で腰曲輪もあったらしいが、現在は崩落防止の工事が施され、急斜面になっている。真福寺の創建は定かではないが、この寺院の周囲には古い下総板碑が散乱しており、その中には康元元年(1256)、延慶3年(1310)のものもあることから、鎌倉時代頃から存在していたのではないかと推測されている。1郭と2郭との間の道路は、所々埋められているようであるが、なんとなく空堀の名残が見て取れる。この辺りに「子の神城址」の標柱が建っている。

 2郭は3mほどの段差で東西に2段に構成されている。ここには現在でも家屋が立ち並んでおり、家臣団の居住区画ではなかったかと想像する。また、2郭と3郭との間には高さ3m、幅5mほどの空堀が存在している。
 3郭と稲荷神社(え)のある4郭との間は切通しの道となり、現在国道408号線が通っているが、この切通しは近代のもので、もとの旧道は4郭の先に通っていた。したがって、この街道を押さえる4郭が城の先端部分であったと考えられる。

 さて、子の神城の城主は幡谷越中守であった。幡谷氏は大須賀氏の一族でもと幡谷城にいたと思われるが、後に勢力を拡大し、この城に移ってきた。幡谷氏に関しては城址の下に住む幡谷家や城内の林家(幡谷氏の家老)に文書が残されており、戦国期の幡谷氏の情勢を伺うことができる。

 まず、天正8年の、千葉邦胤からの受領状が注目される。幡谷氏はもともとは大須賀氏の一族であったのだが、天正8年には千葉氏から直接受領状をもらう立場になっていたと言うことが、これによってわかる。つまり大須賀氏から独立し、1ランクアップしたということだ。

 また、天正13年には北条氏直から軍忠状をもらっている。天正13年は、千葉領内にとって大きな転換点になった年で、この年に千葉邦胤が家臣に殺されると、北条氏が千葉領国内に乗り込み、千葉領を北条氏の直接支配権のおよぶ地域にするべく体制の転換が行われつつあった時期である。この時期に北条氏直からの直接の軍忠状をもらうということは、当時幡谷氏は北条氏の直臣のような立場になっていたということであろう。つまり、もともと千葉一族の大須賀氏の家臣であるに過ぎなかった幡谷氏が、北条氏から直接指令を受ける武将にまで成長したのである。さらに1ランクアップしたということになるわけだ。千葉領内の体制替えに、幡谷氏は協力的であったのではないだろうか。

 この軍忠状では、参陣の労をねぎらって蜜柑1樽を遣わす旨記されている。この文言はどこかで見たことがある。そう、坂田城の井田氏もこれに似たような軍忠状をもらっているのであった。つまり幡谷氏も井田氏と同様に、北条直臣のような立場になったのはいいが、あちこち動員される立場となったのである。

 幡谷氏は北条氏直の上州沼田城攻めにも参陣したようで、おそらくたびたび各地への出陣を命ぜられていたことであろう。天正16、7年頃と比定される北条氏政から幡谷越中守に宛てた文書も残されているが、そこには「帰陣したばかりで、休息あるべきところだが、このたびは氏直に従って、常陸に出陣せよ」といった内容が記されている。直臣となったからには徹底的にこきつかう。これが北条流のやり方である。井田因幡守、大須賀信濃守などと同様、幡谷越中守も、息つく間もなく駆り出され続けたのであろう。出世したつもりが、サラリーマンのようにこき使われることになろうとは・・・・・。そして、小田原の役では結局北条氏と共に滅んでしまうのである。哀れじゃあ・・・・。

 さて。このように北条氏によってたびたび動員命令がなされる中で、1.急速に動員に応えるため家臣団を集住させる必要性。2.兵站地を確保するため。といった理由から外郭部をもつ大城郭が必要となったことであろう。中世の居館に過ぎなかった子の神城が外郭部をも持った戦国期の城郭・押畑城に成長したのにはそのような背景があったと思われる。

 このような理由から、この城にも坂田城森山城のような北条流の築城術が用いられていたのではなかったかと想像される。しかし、前述している通り、耕地整理か破城によって、現在明確な遺構をこの台地上に求めることはほとんどできない。ただ、「広い城だなあ」と感じることくらいしかできないのである。

 幡谷城を南側の、根木名川にかかる橋の上から遠望したところ。右端のこんもりしたところが、現在妙見社が祭られているところである。写真は途中で切れているが、この台地はさらに左にずっと延びている。

















 (お)の空堀跡を東南側から見た所。この堀跡が城内で、唯一きちんと堀らしく見える部分である。しかしこれもかなり埋められて改変されていると言う感じがする。













 この(お)の位置の北側の屋敷の入口には枡形がある。かつての大手の虎口跡なのかもしれないが、後世のものかも知れず、なんとも断定はできない。しかしさすがにこれは日本軍のものではなさそうである。

















城址にある標柱。この標柱は1郭と2郭の間の掘切跡辺りに建っている。この向こう側が1郭子の神台となる。1郭は現在は一面の畑地。













 

 昔描いた図面。広大な台地上に広がった、成田では最も規模の大きな城である。現在では城跡の西側を国道409号が分断している。台地上には宅地や畑が広がっているが西側の稲荷神社、中央部の部分、北側の新福寺、妙見神社のある東の子の神など、台地上の各所に遺構が残されている。「成田市誌」では、1番西の稲荷神社を主郭と想定しているが、全体の規模から見て稲荷神社のある郭は端に偏りすぎ、防御の面からも弱いので子の神台辺りが中心だったのではなかろうか。

















(以前の記述)根木名川西岸の舌状台地上に築かれ、北東の対岸に一の陣屋が存在する。台地上の平坦部は100m四方ほどとけっこう広く現在は畑地となっている。南側の郭との間に長さ100mの長大な空堀が広がっていて、堀底は農道になっている。

 押畑城は幡谷越中守累世の居城で、幡谷氏は数代千葉氏に仕えてきたが、例によって天正18年の小田原攻めで、北条氏と共に滅び、廃城となった。城下に妙見神社と幡谷四郎左右衛門家があり、ここには北条氏政・氏直・千葉邦胤らの文書が残されている。城域は国道408号をはさんで、両側に広がっており、近世城郭並に広く(600m×500mくらい)、この辺の他の土豪の城の規模と比べると、その大きさは一考を要すべきだと思う(広すぎる)が、台地全体に遺構が広がっているので、規模が大きかったことだけは事実だ。国道の西の稲荷神社のあるところが主郭とも言われているが(成田市史)、その他にも北の端の新福寺の辺りが最高所で見晴らしがよく、急崖になっている。道路拡張のため、かつてあったという土塁と腰曲輪は今はないが、寺の脇に下総式の板碑が多く残されている。

 また、台地の東の端には妙見社があり、 土塁も残っており、この辺を子の神と呼んでいる(地元のおじいさんに聞いたら、そここそが城址だという)。この城を子の神城と呼ぶことから考えると、この辺りにも主要な施設があったのだろう。こちらの方を主郭部と見る方がよいのではないかと思われる。その他にも台地上には、空堀の跡や土手状の遺構を散見することができる。

 国道脇の城跡案内板の矢印は、台地上の二郭の辺りを指しているようだが、全体の構造を解明するためには、ちゃんとした調査が必要だろう。























大竹屋旅館